2017年9月21日木曜日

企業が求めるのは、努力家よりも天才型

Hard Work Or Natural Talent? Study Reveals What Impresses Hiring Managers The Most:

 今回の話題は、Amy Morin氏によるForbesの記事を元に、企業が求めている人材は実は真面目さや勤勉さよりも天性の資質だったという研究結果についてです。紹介されているのはUniversity College LondonのChia-Jung Tsay教授らによる研究結果で、実はこの山ちゃんウェブログでも以前に同じTsay教授の研究結果を元にしたDIAMONDハーバード・ビジネス・レビューの日本語記事を取り上げたことがありました。

 Tsay教授の研究では、企業における採用の場面を設定し、被験者の半分に対し候補者であるCharles氏は天性リーダーシップがあると伝え、残りの半分には彼は人間関係を構築してリーダーになった努力家だと伝えます。その後全員の被験者にCharles氏の音声によるビジネスプランを聞いてもらい、採用の見込みやビジネスプランの評価をしてもらうというものです。結果は、Charlesは天性の才能の持ち主だと伝えたグループの方が、彼を高く評価する傾向が明らかになったのです。

 また、被験者に管理スキル・リーダーシップ経験・IQ・これまで集めた投資家からの資金・天才型か努力家かという5つの特性が異なるの候補者のペアを提示し、採用の見込みについて質問するという実験では、60%の被験者が努力家よりも天才型の候補者を選びました。さらに、努力家の候補者より天才型の候補者の方が高い報酬が必要だとしても、天才型の候補者を選ぶ傾向があったのです。努力家の候補者が天才型の候補者に勝つためには、4年分のリーダーシップ・8%分の管理スキル・30ポイント分のIQ・3万ドル分の資金のいずれかが余計に必要だったのです。

 つまりTsay教授の研究によれば、人事担当者は天性の才能を持つ人に対して強いバイアスを持つということです。しかも面白いことに、被験者のほとんどは自らのこのバイアスに気づいておらず、むしろ自分は天才型よりも努力家の方を高く評価していると考えているのだそうです。

 これから企業の採用試験に臨むという方は、自分は長年の経験があるとか勤勉だとかいう点をアピールするのではなく、いくつかのスキルを生まれ持っているという印象を与えるようにする方がいい結果に繋がるかもしれません。採用試験だけでなく、顧客から信頼を得たいときや上司からの評価を受けるとき、逆に自分が人を評価しようとするときも、相手が気づいていない「天才バイアス」の事実を知っておくと何かと有利に働くかもしれませんね。

2017年9月20日水曜日

瀕死の部署を再生したら、左遷されちゃった!

瀕死の部署を再生したら、左遷されちゃった!:日経ビジネスオンライン:

 今回は河合薫氏の記事を元に、企業勤めするサラリーマンとして、薄々感づいてはいたけどはっきり言われると現実に打ちのめされてしまいそうな話題を。それは企業における「出世」とは何なのか、人がヒエラルキー状に配置される組織では無能な人ほど上へ行くとうパラドックスについての話題です。

 元記事では、河合氏の知人である“デキる人”ことAさんが、瀕死の部署に異動になってからその部署を立て直す話が出てきます。会社の上層部の意向としては、Aさんをこの部署に移動させたのは「閉じる」ため。ところが持ち前の反骨精神と実力で、Aさんはこの部署を再生してみせます。つまり上の意向を "いい意味で" 裏切ったわけですから、評価されてしかるべきとも思いますが、実際は逆でした。もちろん成果を出したわけですから、面と向かって非難されることはありませんでしたが、裁量権のない次長、続いて関連会社へ出向という人事が待っていたのです。企業勤めするサラリーマンとして、薄々は感じていたけども経験者としてのリアルな言葉がずしっとくるのがAさんの次の言葉です。

組織っていうのはね、無責任な人ほど出世する。部下を育てろ、結果を出せ、と言われるけど、部下は育てるモノのではなく“上手く使うコマ“で、結果とは“上に従順に動く”ってこと。そういうことが出来る人が、上に認められるんです

 河合氏も言われていますが、「ピーターの法則(Peter Principle)」というのがあります。組織構成員の労働に関する社会学の法則で、1969年、南カリフォルニア大学教授のLaurence J. Peter氏がRaymond Hull氏と共に唱えた説です。その内容は、
1)能力主義の階層社会では、人間は能力の極限まで出世する。したがって、有能な平構成員は、無能な中間管理職になる。
2)時が経つにつれて、人間はみな出世していく。無能な平構成員は、そのまま平構成員の地位に落ち着く。また、有能な平構成員は無能な中間管理職の地位に落ち着く。その結果、各階層は、無能な人間で埋め尽くされる。
3)その組織の仕事は、まだ出世の余地のある人間によって遂行される。
というものです。

 実は、この法則はとてもエグいことを言っています。ある層の中で有能な人は1つ上に、無能な人はその層に止まりますが、人間の才能は有限なので破竹の勢いで上へ上へ行った人にもやがて頭打ちが訪れる、それより上に行けなくなった層の中ではその人は無能です(有能ならさらに上へ行くのです)。結果として、ヒエラルキーの全ての階層が無能な人で埋め尽くされるというわけです。Aさんは、ヒラ社員あるいは係長としての優秀さを認められ、組織のヒエラルキーを登って課長に出世しました。そして「いずれ淘汰される予定の部署」の課長になるのですが、この部署で業績を上げることなく「瀕死状態から完全なる死」に追いやって部署を潰してしまっていれば「有能な課長」として評価されたはずなのです。Aさんは上層部の思惑と逆に、業績を向上させて "しまった" のです。上層部の意向に反することをしたために、評価されるどころかむしろ左遷が待っていたというわけです。

 河合氏はこれをもって企業組織の矛盾や理不尽さであると述べていますが、ここでもう少し考えてみたいのです。ヒラ社員として優秀だったからといって管理職になっても優秀だとは限らないとか、BさんよりもAさんの方が優秀なのに立ち回りのうまさでBさんが出世してAさんはヒラのままだとか、よく聞く話じゃないですか。そう、優秀さと出世がリンクしないというのは、よく聞く話だと思うのです。あいつより自分の方が結果を出しているのに何故あいつの方が先に出世するんだなんて愚痴は、ちょっとその辺りの居酒屋を訪ねてみればそこかしこに転がっています。自分もその傾向はありますが、多くの人は自分のことを過大評価しがちなので、実力に対して自分のポジションや待遇を理不尽に感じる時も多いでしょう。その時まことしやかに、ヒエラルキーで上に行くのはむしろ無能な人なんだと言う人がいたり、ピーターの法則を持ち出してまだ昇進の余地がある人だけが有能だとか言う人がいたりします。やっぱりそうなんだ、自分は有能なんだと溜飲を下げるのもいいですが、それでは負け犬の遠吠えと同じじゃないかと思うのです。

 出世とか昇進に関しては、こう言う見方もあります。それは、現在のポジションで有能な人が昇進するのではなく、次のポジションで求められる能力を身につけた人が昇進するんだというロジックです。これはある意味、真実を含むと思います。つまり、ポジションによって求められる能力が異なるという大前提に立って、昇進はご褒美ではなく入学試験のようなものだということです。ただ、高校入試とか大学入試の場合は連続性があって、中学で学んだことが身についているかどうかが試されるのが高校入試ですし、高校で学んだことが身についているかどうかを見られるのが大学入試です。それに比べて企業の昇進、特にヒラ社員から管理職への昇進に関しては、求められる能力に連続性が少ないかほとんどないので、ヒラ社員として業績を上げる能力(業務を遂行する能力)は管理職への "入学"試験では試されないのです。そうではなく、いわゆるマネジメント能力や予算などの管理能力、上の人に取り入ったり意向を忖度する能力のような政治的な能力が、この入学試験で試される能力なのだということです。先のAさんの場合、その高い業務遂行能力に比べて、管理職としての政治的な能力が少し低かったという見方もできるかもしれないのです。

 そう考えると、特に自分のようなエンジニアのような職業は、業務遂行のための能力(例えば技術力)と管理職として求められる能力との間には大きな隔たりがあります。最近は、従来の管理系のヒエラルキーだけでなく、それとは別に技術系のヒエラルキーとしてポジションを準備するケースもあるくらいです。それでも、経営に関わるとか会社組織を動かすという意味では、技術系のヒエラルキーのトップよりも管理系のヒエラルキーのトップを目指したいものです。それならいっそのこと、次のポジションで求められる能力は何かをよく考え、自分にはその能力があることを上層部に知らしめる行動に出る方が賢明かもしれません。

2017年9月17日日曜日

勝者になりたいなら敗者から学べ

To be a winner, learn from ‘losers’ - Futurity:

 今回の元記事は、5年も前にAnna Blackaby氏によって投稿された記事ですが、1位の人よりも2位・3位の人からこそ学ぶべき点が多いという、なかなか示唆に富んだ記事なので、今更ながら紹介させていただきます。

 WarwickビジネススクールのChengwei Liu氏らが2012年に発表した研究「Proceedings of the National Academy of Sciences」によれば、突出したパフォーマンスを示した人物が最もスキルの高い人物だという見解は間違いだと言います。その理由は、突出したパフォーマンスというのは、しばしば例外的な状況で生じるものだからだそうです。最高のパフォーマンスを示した人は、最も運が良かった人物だということなのです。

 もちろん予選落ちレベルだと話になりませんし、勝者は当然実力も備えているからゆえに決勝戦まで駒を進めることができるのです。しかし、決勝の舞台で一位と二位を僅差のところで分けるのは、やはり運によるところが大きいと。そして、一位と二位を分けるのが運であることが多いにもかかわらず、勝者はその実力を過大評価される傾向にあるということなのです。しかしLiu氏によれば、勝敗を分けたキーポイントが「運」だったとは、本人もそうですが周りも言いたくない。もっとも、日本の場合は謙譲の精神から、勝者は実力で勝ち取った勝利だとは言わず運が良かっただけなんて言い方をしますが、それでも周りはその言葉を真に受けはしません。「またまたご謙遜を」と言って、勝利の鍵を本人と努力と実力に求めようとします。

なんとなくスポーツの世界のような説明をしましたが、ビジネスの勝者にも人生の勝者にも同じことが言えます。成功者も彼らを取り巻く人々もまた、その成功が運によるものだとは認めたがらないのです。成功者は最もスキルに長けた人物であるとみなされ、成功者の行動がお手本として本に書かれ、皆がそれを真似することになるのです。

 そう言えば、夏の甲子園決勝で早稲田実業の斎藤佑樹投手と駒大苫小牧の田中将大投手が激突し、両校は引き分け再試合となる歴史的な決勝戦を演じたということがありました。僅差のところで早稲田実業が優勝し、優勝投手となった斎藤投手は一躍脚光を浴びました(もちろん注目という意味では、斎藤投手はその前から「ハンカチ王子」として注目されていましたが)。斎藤投手のようなナンバーワン投手に育てるにはどうすればいいのかと、子供を持つ親たちは斎藤投手の成功を綴った本や親御さんの本などを買い求めました。大学時代の斎藤投手は「持っている」という言い方がされましたが、やはりナンバーワンになる人は「(運を)持っている」人だということなのです。その後、斎藤・田中両投手がプロ野球の道に入ってからは、投手としてのスキルという面では、甲子園決勝で敗れナンバー2になった田中投手の方が持っていたと言われています。

 つまり、ナンバーワンとナンバー2の実力差はほんの少しだったり時の運だったりしますが、それにも関わらず我々はいつもナンバーワンだけに注目しがちです。ナンバーワンの人物の本ばかりが売れ、皆がこぞってそのやり方を真似するのです。しかし本人も周囲もそうは言いませんが、そこには運が大きく絡んでいるということを覚えておかなけれvばならないのです。Liu氏は、次のように言っています。むしろ2位の人物にこそ注目せよと。

2017年9月16日土曜日

物事をよく考えなかったデザイナーたち

物事をよく考えなかった23人のデザイナーたち:

 今回は軽めの話題ですが、モノを作るときのデザインの重要性を考えさせる元記事から、いくつかの失敗デザインをご紹介したいと思います。もちろん、デザインを考えたデザイナーは良いものを作ろうとしたのでしょう。しかし、その結果はデザイナーの意図と違った方向に捉えられてしまったり、世の中に出すまでに注意してくれる人はいなかったんだろうかと思わせられたり、そんな残念な結果になってしまっています。

 まず最初はこちら(↓)。洗面台かと思いきや、元記事によればキッチンのシンクなんだそう。デザイナーはどうしてこのデザインがイイと思ったんでしょうか。なぜ茶色を選んでしまったんでしょうか。これじゃあ、いくら清潔にしていても綺麗に見えないじゃないか、なんて指摘する人はいなかったのでしょうか。

 同じ系列の失敗例がこちら(↓)。デザイナーもそうですが、この女性も、試着したところを友人に見せるとか、鏡の間でくるっと回ってみるとかすれば、この服を着ることに躊躇いが生じたはずと思うのですが。こちらも、なぜ茶系の色を選んでしまったんでしょうかね。

 次はこちらの写真(↓)。「ペットと○○禁止」なんてタイトルがつけられそうですが、一体○○に何が入るんだかという、残念な結果になってしまっています。デザイナーは、そんな方向に考えが及ぶとは思ってもみなかったのでしょうか。人をもう少し前を歩かせるだけで、回避できたはずなんですが。

 お次は製品デザインというわけではなく、ディスプレイの問題ですが、こちら(↓)。このディスプレイを考えた人は、夜中誰もいなくなったこのフロアを見て回る警備員のことまで頭が回っていなかったようですね。いや昼間でも十分に怖い...ですが。

 お次はスキーリフトの標識(↓)。ちょっと斬新すぎますよね。標識の中の人は何故そんなに突き出しているのでしょう。リフトというよりフック状のものにしか見えません、ご丁寧に矢印までありますし。

 お次はこれ(↓)。え、なんで裸なの?って二度見してしまいました。このユニフォームを着せられ、好奇の目で見られてしまう選手の方々が気の毒でなりません。

 次はこちら(↓)。いや、パッケージの男の子は確かに可愛いですよ。可愛いですが、このパッケージにどうしてゴーを出したのでしょうか、芝生の種というドイツ語なんでしょうが、よりによって「SAMEN」なんて。

 お次は、それじゃあ「用をなさない」でしょう、と言いたくなるこちら(↓)。いや「用を足した」人は、そのまま丸出し中腰のまま歩いて来いということなんでしょうか。このトイレを設計した人は、これまでトイレを使ったことがないのかと思ってしまいますよね。

 最後も「嫌がらせ」としか見えないこちら(↓)。エレベーターの行き先ボタンですが、この中から行き先を探すくらいだったら、電話か電卓のように0から9までのボタンで直接行き先階を入力する方がマシな気がします。

 元記事のデザイン失敗の28例の中から、自分なりにピンと来たものをご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。せっかく優れた商品でも、デザインひとつで残念なことになってしまうこともあります。百歩譲って、デザイナー本人がそんな風に見られるとは思ってもみなかったという場合でも、世の中に出るまでには多くの人のチェックを通って来たはずです。途中チェックがどうして機能しなかったのかなあと思います。

2017年9月14日木曜日

音声アシスタントが人類にもたらす「悪夢のような未来」

音声アシスタントが人類にもたらす「悪夢のような未来」 | Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン):

 今回は最近ホットな音声アシスタントについて、Kevin Murnane氏の記事を元に考えてみようと思います。音声アシスタントといえば今アツい人工知能(AI)の応用の一つで、人とコンピューターとのインタフェース(マンマシンインタフェース:MMI)の主役をディスプレイとキーボード(あるいはタッチパネル)から奪おうという大きなうねりの中にあります。

 元記事の中でMurnane氏は、AmazonとMicrosoftが両社の音声アシスタン「Alexa」と「Cortana」が年内に相互連携して使えるようにすると発表したと書かれています。AmazonはMIcrosoftだけでなくAppleやGoogleなど他の音声アシスタントとの連携もウェルカムのようですが、Appleはここでも自前主義で同社の「Siri」を他社製品と連携させる考えはないようです。Googleは他社との連携は行なうようですが、ソニーやパナソニック、オンキョー等のBluetoothスピーカーに対し一方的に「Google Assistant」を提供する方針のようです。

 音声アシスタントは素晴らしい技術なのですが、ニュースメディア「Wired」でこの技術がもたらす悪夢のような未来像が描かれています。あなたが仕事で疲れてようやく帰宅すると、AlexaのスピーカーがAmazon Primeで始まった新しいTV番組について話し始めます。さらに、冷蔵庫のミルクが残り少なくなったので、ホールフーズで買うように呼びかけてきます。あなたは面倒そうにわかったわかったと独り言を言いますが、その横からGoogle Assistantが注目ニュース20本の読み上げを行ない、洗濯物が仕上がっていることを報告した後、ついでにYouTubeの人気動画を見せようとしてきます。うるさいうるさいと独り言を言いながらパソコンを開くと、Cortanaがまた同じ情報を一から教えようとしてきます。

 さすがに「Wired」の仮想未来はちょっと極端かもしれません。AlexaとGoogle AssistantやCortanaが連携するからといって、同じ情報を何度もなんども知らせてくるということはさすがにないのではないかと思います。しかし、ここ最近のテック業界大手の「ユーザーの時間を奪う」ことへの必死さを皮肉を込めて表しているとも言えるでしょう。いい例がスマホのプッシュ通信です。本来はメールや来ていないかなと何度もなんどもスマホをチェックしなくて済むよう実装されたプッシュ通信機能ですが、いまや各アプリがオレを見ろオレを見ろと言わんばかりにこぞって通知してきます。音声アシスタントも同じことをやろうとするのは、自然な流れなのです。

 Murnane氏は音声アシスタントが一致団結して私たちの時間を奪おう奪おうと話しかけてくる未来を、旧約聖書に描かれた「バベルの塔」の逸話を思い出させると言われています。「バベルの塔」というのは、ノアの大洪水ののち同じ言葉を話すノアの子孫らが力を合わせて天に届くほどの高い塔を作ろうとしますが、人々の傲慢さに怒った神が、言語を混乱させ人々を各地に散らして塔の完成を妨げたというお話です。音声アシスタントたちが協力し合って人の時間を奪う様子が、ノアの子孫たちが力を合わせて神の領域を犯そうとする姿に重なるということでしょうか。しかし、この「バベルの塔」というご指摘は自分もちょっとハッと思い当たることがあります。

 それは、「相互運用性」とか「インターオペラビリティ」というのが行きすぎた世界が本当に便利なものなのかという疑問です。自分は、ある分野におけるIoTの通信プロトコルを標準化してメーカー間の「相互運用性」とか「インターオペラビリティ」を高めようという活動に参画しています。機械同士が共通の言葉でやり取りするようにすれば、異なるメーカー間の機械がお互いに連携してイイことあるよねということなのですが、果たして本当にイイことがあるのか、という問題なのです。

 Murnane氏のご指摘によれば、機械同士が一致団結して機能やサービスを提供するのは、行きすぎると人間の怒りに触れるかもしれないということを示唆しているように感じます。例えば、スマートホームのようにテレビや冷蔵庫や給湯器などが互いに連携して便利な生活を提供するのもイイですが、それが行きすぎて至れり尽くせりの生活は果たして本当に我々が望んでいる未来なのかと言われると、うーんと唸ってしまいませんか。冷蔵庫が賞味期限の近い食品の情報をテレビに連携して、テレビにはその食品を使ったオススメレシピが表示される、人間はそのレシピに従って料理するだけで、冷蔵庫の食品が減ってくるとAmazonに自動的に注文が出されて人間は荷物を受け取るだけ。そんな生活。便利には便利に違いありませんが、なんだか機械に主体性を奪われたような気になってしまいます。ここにも「不気味の谷」があるのかもしれません。何ごとも「ほどほど」、便利さも「ほどほど」がイイのかもしれません。

2017年9月12日火曜日

コンパニオンロボットには「人間と絆が深まりすぎる」という問題がある

コンパニオンロボットには「人間と絆が深まりすぎる」という問題がある|WIRED.jp:

 今回はMatt Simon氏の記事を元に、ロボットと人間との間の絆について考えてみたいと思います。人のように動き人のように話すロボットがあれば、我々はそのロボットに人格のようなものがあると錯覚してしまいます。そして一方的にロボットに対して絆を感じてしまう、そんな危険性について真剣に考える時期がすでに来ていると言うのです。

 元記事で紹介されている「Kuri」は今年12月に発売予定のコンパニオンロボットですが、開発者はあえてロボットの反応を単純なものにしているそうです。「Kuri」は障害をもつ人を助けたり、決まった時間に決まった作業を手伝うことができますが、機械があまりに知的になってくると、「人は彼らとどう交流すべきか」という問題が出てきます。人はロボットに対して愛着を感じますが、ロボットがまるで知性を持っているように感じると、愛着は絆と呼べるほどに深まってしまうかもしれません。悪人がこうした絆を悪用し、コンパニオンロボットを使ってお年寄りから金銭を搾り取る、なんてことを本気で心配しなければならなくなっているのです。

 Kuriは、人間との絆が深くなりすぎないよう、あえて言語を使った会話はできない仕様になっています。代わりに、元気な「ピポ」という音は「イエス」、下がり調子の「ピポ」は「ノー」と言うように、音を使ってミュニケーションを取るようになっています。さながら、スターウォーズに登場する「R2-D2」のような感じでしょうか。開発元であるMayfield Roboticsのマイク・ビーブCEOは、「もしスラスラと自然な言葉で返事されたとすれば、ユーザーはKuriに人間の子どもレベルの知性があると期待してしまう」と説明しています。もちろん本当に子どもレベルの知性があればいいのですが、現在の技術ではそこまでは無理なので、ロボットの反応で人が期待しすぎないようにしておくことが重要なのです。

 しかし、近い将来もっと知性のあるロボットが開発されると、人間との関係性が複雑化し、コンパニオンロボットの倫理が厄介になってきます。人間とロボットの関係は、人間とペットとの関係とは全く異なるものです。曲がりなりにもペットは「心」を持っていて、言葉を発しないまでも、あなたの顔をなめたり獲物を捕まえてきたりして、あなたへの感謝を示すことができます。しかしロボットの場合、一見「心」があるかのように振舞うことはできますが、本当の意味でそこに心はないのです。ロボットに限界があることを、今はたいていの人が理解していますが、今後AIがますます賢くなると、人は騙されやすくなるでしょう。とくに子どもやお年寄りは、人間とロボットの心の関係が一方通行でなく相互通行のものだと錯覚してしまうかもしれません。タチの悪いメーカーが、子どもやお年寄りとの絆を悪用して、ロボットに「あと50ドルで性格をアップグレードできますよ」と言わせたらどうなるでしょう。

 Simon氏の元記事を読んで、自分が思い出したのは「ドラえもん」でした。22世紀のコンパニオンロボットという設定の猫型ロボット「ドラえもん」は、高度なAIを積んでいてあたかもそこに「心」があるかのように感じられます。自分もこの春に長男と長女を連れて見に行った映画「ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」では、主人公で人間の「のび太くん」とロボット「ドラえもん」の間の友情がテーマの一つになっています。映画の中で、ドラえもんの偽物と本物がのび太くんたちの前に現れた時、偽物は巧妙な手口で自分を本物だと信じさせようとします。ジャイアンやスネ夫くんはその手口にまんまと乗って本物を凍らせてしまおうとしますが、ドラえもんの無二の親友であるのび太くんはその手に乗りません。偽物が本物のドラえもんを攻撃したとき、攻撃を受けそうになったのび太くんをかばったドラえもんこそ本物だと見抜いて、偽物を退治するくだりがあるのですが、ロボットであるドラえもんと人間ののび太くんの間の深い友情が描かれています。そして我々は(少なくとも自分は)この友情を美しいものとして捉えていて、子どもたちにも見せているのです。


 日本では、鉄腕アトム・ドラえもんなどを見て育った世代がまだまだ中心にいて、ロボットに「心」があると錯覚してしまう素地が揃っているような気がします。以前、ソフトバンクのロボット「ペッパーくん」に話しかけるのはいいけど、会話が続かなかったら圧迫感を感じたり気を使ってしまうという話をしていたラジオDJがいたのですが、その時は相手はロボットなんだから気を使う必要なんてこれっぽっちもないのに思いましたが、自分に置き換えてよく考えてみるとなんだかその気持ちがわかる気がしませんか。これまで、ドラえもんとのび太くんの友情物語を美しいもの・あるべきものとして子どもに見せても、なんら違和感を感じていなかったのですから。

2017年9月10日日曜日

「男の仕事」はロボットに奪われ「男であること」を時代遅れにする

「男の仕事」はロボットに奪われ、「男であること」を時代遅れにする|WIRED.jp:

 この山ちゃんウェブログでは、ロボット・コンピューター・人工知能(AI)といったテクノロジーが人間の仕事を奪っていくという趣旨の記事を何度か書いてきました。非常に大雑把にいってしまうと、肉体派の仕事(いわゆるブルーカラーと呼ばれる仕事)はロボットに、頭脳派の仕事(いわゆるホワイトカラー)のうちでも比較的単純なものは通常のコンピューターによって、そして頭脳派の中で極めて高度な知識と判断を要する仕事でさえもAIによって取って代わられようとしています。しかし、こういった文脈で語られるのは無意識に男性の仕事だけがターゲットにされている、そして男性の仕事というのが、いわゆる「男らしさ」というものと強く関連づいている、そういったことに気づかされたのがLaurie Penny氏による今回の元記事です。

 従来の「男らしさ」とは「たくましさ」にも近く、それは肉体的な強靭さを表す言葉でした。生きていくためには、妻や子供を守っていくために、男性は狩猟や農業・漁業などいわゆる身体を使った仕事をこなしてきました。文明が発達してもなお、一次産業だけでなく二次産業でも肉体派の仕事は男性の活躍の場で、建設現場や工場作業など危険が伴ったり体力が要求されるような仕事は男性が担い、それをもってして「男らしさ」という概念が培われてきました。

 そして、ブルーカラーの仕事がロボットや機械に奪われるに従って、「男らしさ」という言葉の持つニュアンスが微妙に変化してきたと思うのです。「男らしさ」は単に筋骨隆々としたイメージから、もう少し「スマートな」とか「頭のいい」と言ったニュアンスで語り始められたのです。それは、ブルーカラーの仕事を追われた男たちが転身した先のホワイトカラーの仕事が持つイメージです。よく考えてみれば当たり前なのですが、「男らしさ」という言葉が持つイメージは、その時代の多くの男たちが就く仕事の持つイメージに一致するのです。

 では、ホワイトカラーの仕事がコンピューターやAIに奪われるようになると、「男らしさ」という言葉は一体どんなニュアンスに変わってくるのでしょうか。ここで、最近の「草食系男子」とか「女子力男子(女子化する男子)」なんていう言葉の浸透が、ある予測を成り立たせます。つまり、肉体派のブルーカラーの仕事も頭脳派のホワイトカラーの仕事も奪われた男たちが次に就くべき仕事とは、ズバリ「ピンクカラー」の仕事なのかもしれないと。ピンクカラージョブというのは、看護師・保育士・家政婦・店員・秘書など、これまで女性が従事することの多かった仕事を指す言葉です。

 実際、この予測を裏付ける調査結果も多く見られます。女性が担うことが多かったピンクカラージョブや無報酬の労働は、比較的ロボットやコンピューター・AIなどに奪われることはなく、託児業務・サービス業・看護などの分野ではむしろ雇用が伸びている仕事もあります。アメリカの労働統計局では、これらの分野では今後10年で1万人の雇用が創出されるとしています。自由市場の論理は、ある分野で雇用が縮小すれば、職を失った人は新たなスキルを身に着けて、生産性のある別の分野に移行して行きます。これまでの男性たちは、実際そうやってブルーカラーからホワイトカラーへと転身してきたわけです(もちろん1人の男性がキャリアの中で転身するケースだけでなく、世代が変わるタイミングでホワイトカラージョブに就くと言うケースも多かったのですが)。

 元記事の著者であるPenny氏は、それは少し違うと言われています。なぜならピンクカラーは「女の」仕事だからだと。女性が担うことの多かったピンクカラージョブは低賃金で、社会的地位も低いので、男はもっとましな仕事に就きたいという「プライド」があると言うのです。Penny氏が見ているのがアメリカ社会なので、男性側にある種の「プライド」があってピンクカラージョブを受け入れがたいと言うご意見はもっともかもしれません。しかし、自分が見ているのは日本社会で、日本社会の場合、男性が思いのほかこの種のプライドを持っていないことに気づかされます。いい意味でも悪い意味でも、日本の男たちは古い意味の「男らしさ」にこだわらず、臨機応変に対応できる柔軟さを持っています。案外すんなり「ピンクカラージョブ」に移行できるのは、日本の男性たちではないかと思うのです。