2017年12月8日金曜日

本当の働き方改革ってナンだ?

働くことはいつから「苦役」になったのか 〜余暇を楽しむのが人生?(内山 節) | 現代ビジネス | 講談社(1/3):

 最近さかんに叫ばれる「働き方改革」。それまで残業してようやくこなしていた仕事量を、「働き方改革」の名のもと労働時間だけ短縮され残業代を減らされても、何だか納得いかないなあと思う人は多いはず。この納得のいかなさは、「働き方改革」を「長時間労働を廃する」ことと同じだとしてしまっていることが、そもそもの原因かも知れません。今回は、哲学者・内山節氏の元記事がその辺のモヤモヤを分かりやすく切り取っていたので、ここでご紹介したいと思います。

 皆さんは、働くことは楽しいと感じますか、それとも苦しいことだと感じているでしょうか。現代社会では、「労働=労苦」という概念がはびこっています。歴史的には、古代の奴隷労働まで遡ってしまうと確かに労働は苦しみでしかありませんでしたが、中世ヨーロッパなどに書き残された文書によれば、労働には苦しいことも楽しいことも達成感もあって、実は当時の人たちはけっして労働は苦しみだけではなかったそうです。しかし、産業革命が起こり、近代的な労働者が生まれてくると、労働者にとっては自分たちの労働は苦しいと捉える人たちが増えてきます。内山氏によれば、その本当の原因は階級社会によるところが大きいのだそうです。

 労働が楽しいか苦しいか、その捉え方を分ける大きな要因の一つは、その労働を自分の意志で行なっているのか誰かの監視下で命令されて行なっているのかという点です。例えば、イーロン・マスク氏や孫正義氏など世界を股にかける経営者の中には、長時間労働も厭わないという人もたくさんいます。しかし彼らは、仕事を苦しいと感じているでしょうか。聞いたわけではありませんが、答えはノーのはずです。仕事が苦しみでしかなければ、彼らのあのバイタリティと前向きな姿勢が出てくるはずがありません。階級社会の上位にいる彼らは、ほぼ完全に自分の意思で仕事を行なっているので、楽しくて楽しくて仕方がないはずです(体力的な辛さはもちろんあるでしょうが、精神的には楽しいはず、ということです)。それに対して、階級社会の下位にいる労働者は、命令に従い、監視されて労働に従事しなければなりません。その仕事のしかたは、お金と労働力を引き換えているだけであって、こういった労働は苦しいに違いないのです。ちょっと単純化した例ですが、タクシー運転手という職業があります。一方で、ドライブが趣味でどこというアテもなく車を走らせることが好きという人もいます。しかし、乗客の命令に従いその監視の元で車を走らせるタクシー運転手という仕事は、自分の意思で行き先を決められるドライブに比べ、はるかに苦しいはずです。それは、車の運転という同じ作業をしているにも関わらずです。労働(仕事)を楽しいと捉えることができるか、苦しいと捉えるしかないかの分岐点はそこなのです。

 そして20世紀になって、労働が「何かを作り出す」ことではなく「従事する時間」に変わったことも、「労働=労苦」の構造に拍車をかけます。それまではたとえ工場の中でも、職人的な仕事のしかたが主流だったのですが、職人的な労働の内容を分解して単純労働をつなぐという生産方式が生まれました。職人がひとりで一から十までを作り上げるという生産方式から、ベルトコンベアで流れてきた製品のボルトを締めるだけとか部品を取り付けるだけといった単純作業を組み合わせるのです。労働が単純化されれば、管理が容易になり、経営者にとって望ましい効率性の最大化が可能になったのです。しかし、このパラダイム変換は労働者たちには不評でした。自分の腕に誇りをもって働いていた職人たちが、管理された時間労働をするだけの歯車に堕ちてしまったからです。そして、命令のもとで管理されながら歯車として行なう労働は、精神的に苦痛なことこの上ないのです。

 この労働者たちの不満を解消するために、20世紀前半のアメリカでは「余暇」という考え方を生み出しました。それは、労働は苦しくても、代わりに高い収入を得て余暇を楽しむことが人間的な生き方だという提案です。それまで労働のなかにあった誇りや楽しみを奪い去る代わりに、労働の外に楽しみをつくりだそうとしたのです。そして、この考え方が連綿と現代にも息づいているのです。人としての楽しみは仕事が終わってからの時間や休日に見いだし、労働そのものの楽しさは諦めさせる。そして、余暇によって不満のガス抜きをするために、それなりの賃金を支払う。

 この考え方にもとづいた時、社会的な悪とは一体何でしょうか。それは余暇が取れない「長時間労働」と余暇を楽しめない「低賃金」の二つのはずです。苦しさしかない労働時間が人生の大半を占め自由になる時間がないとか、せっかく時間があっても楽しむための可処分所得がないというのは、社会的な二大悪だと言えるはずです。

 そう考えると、「働き方改革」が労働者の長時間労働を廃して余暇を増やすことだけにフォーカスしている「いびつさ」が理解できるでしょう。二大悪の一つ「長時間労働」を廃そうとすれば、多くの企業では効率を上げて労働密度を高めようとすることになります。それはつまり、時間管理が徹底されることであり、労働の苦しさがますます上がることに繋がります。もう一つの「低賃金」にフォーカスが当たっていないという指摘もごもっともですが、本質はそんなことではありません。

 あるべき本当の「働き方改革」とは、労働の苦しさを増大させるものであっていいはずないのです。本当の「働き方改革」とは、労働者を単なる歯車から人間に戻すことではないでしょうか。時間管理されるだけの苦役からは、人間らしい誇りと楽しさのある労働は生み出されるはずはありません。より職人的な労働へ回帰して、労働のなかに楽しみを見出せる、そんな働き方こそが「働き方改革」ではないかと思うのです。

 実際、日本の中にも職人的な労働へ移行しようとしている人たちがいます。それは農業の世界だったりいわゆる職人の世界、ベンチャービジネスの世界だったりしますが、いずれも自分の意思で労働を行なう種の働き方です。確かにそういった職人世界へ飛び込むことは、短期的には低収入や長時間労働に繋がる場合がありますが、そんなことより労働が時間管理でしかないことから自由になることの方がずっと重要なのです。本来は仕事は楽しいものだ、ということをもう一度思い出す必要があると思うのです。

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