2018年10月17日水曜日

もしもブラックホールに落ちたらどうなるのか

The strange fate of a person falling into a black hole

 前回の「もし地球上から突然人類が消滅したら」に続いて、山ちゃんウェブログ「もしも」シリーズ第二弾(!?)は、もしあなたがブラックホールに落ちたら一体どうなってしまうのかという話題です。元記事はちょっと古いのですが、BBCに投稿された記事で、サイエンスライターAmanda Gefter氏によるものです。

 まず、ブラックホールって何でしょう。子供の頃から何となく知っているのは、物理的な観点から描かれたこんな絵(↓)と、高密度・大質量のためにものすごく大きな重力を持ち、その重力場からは光でさえ脱出できない、したがって真っ黒な天体だということではないでしょうか。光ですら閉じ込められてしまうのですから、人間がそこに吸い込まれたら、もはやなす術がありません。巨大重力のために押しつぶされてしまうかバラバラになってしまうか、あるいは燃え尽きてしまう。そんなことが想像されます。


 しかし、運悪く(!?)実際にあなたがブラックホールに落ちてしまったとしたら、もっとおかしなことが起きるのだそうです。現時点の科学が導き出している奇妙な事象。それは、燃えて灰になると同時に、無傷のままブラックホールの中に落ちていくというのです。???!!! 「燃え尽きると同時に無傷」とは、一体どういうことでしょう。

 実は一見異なる2つの現象が同時に起きるという意味は、「観察する主体が誰かによって観察される現象が異なる」ということなのです。

 まず、ブラックホールに吸い込まれていくあなたを、十分に離れた位置から観測する自分から観た場合、あなたは「事象の地平面(シュヴァルツシルト面)」(光がブラックホールから脱出できるかどうかの境界)に向かって加速しながら近づいていきます。あなたの身体は、伸びたり歪んだりして見え、さらに近づくと動きがどんどん遅くなります。ついに事象の地平面に到着したあなたは、グニャグニャに歪んだ状態でピタッと止まってしまいます。事象の地平面からは「ホーキング輻射」(あの車椅子の物理学者として知られるスティーヴン・ホーキング博士ですね!)と呼ばれる熱が出ますので、ゆっくりと燃え尽きて灰になっていくところを観測できるのです。


 一方、ブラックホールに吸い込まれている張本人は、一体どういう世界が見えるのでしょうか。あなたは、特に衝撃や揺れを感じることもなく、当然自分自身の体がグニャグニャに歪むわけではもなく、時間がゆっくりになったりホーキング輻射で燃えてしまったりすることもありません。ただ、ブラックホールに向けてひたすら自由落下しますが、不思議なことにあなた自身がブラックホールの巨大重力を感じることもないのだそうです。厳密には、小さいブラックホールの場合、事象の地平面にいる人間の頭と足にかかる重力が大きく変わるのでバラバラになってしまいますが、ブラックホールがある程度巨大(太陽の数百万倍くらい)であればその差は無視でき、ただひたすらブラックホールの中心にあると言われる「特異点」まで落下していくことになります。


 離れた位置にいる自分があなたを観察している状況は、量子力学にもとづいています。一方で、ブラックホールに落ちている張本人のあなたの状況は、一般相対性理論にもとづいています。この2つの有名な理論が異なる結果を導き出している矛盾は、「ブラックホール情報パラドックス」と呼ばれます。

 パラドックスを解決するアプローチは様々に取られていますが、元記事ではレナード・ジュースキント氏の説が紹介されています。それは、観察者が異なるのだから観察される結果が異なるのは当たり前で、一見矛盾するように見える2つの観察結果は実は矛盾しないという説明です。なんだか狐につままれたような話で、いまいち腹落ち感はありませんが、ブラックホールは我々が知る物理法則が全く役に立たない世界ですので、そんなこともあるのかなという感じでしょうか。

 観察者によって起きる事実が異なり、しかもそれは矛盾しないなんて、なんとも不思議な世界、ブラックホール。そのミステリーには知的好奇心がくすぐられますよね。

2018年10月14日日曜日

人類なくても地球は存在するが、地球なくして人類の存続がないことがわかる動画

What Would Happen If Humans Disappeared?

 今回は「もしも地球上から人類が突然いなくなったら」という思考実験。元記事はYoutubeで1千500万回以上も再生されているこちらの動画(↓)です。


 いまや人類は、地球の地形や環境を変えてしまうことができるほど、大きな力を持っています。新たな河川を作ったり人工島を作ったり、あるいは種を絶滅に追い込み生態系を崩してしまうことさえ可能です。そんな地球上最強の生物である人類が忽然と姿を消してしまうと、一体その後の地球はどうなってしまうのか。動画は、そんな架空の未来を描いています。

 人類が姿を消した数時間後、徐々にその影響が出始め、地球上から街の明かりが消え始めます。発電所の運転はほとんど自動化されていますので、例えば火力発電所は数時間は発電・送電が続けられます。原子力発電所はもう少し稼働を続けますが、電力消費者である人間がいなくなるわけですから、需要と供給のバランスを崩れてしまって、自動的に停止します。風力発電や太陽光発電・水力発電所はずっと稼働を続けますが、機械を保守する人間がいなくなるので、数ヶ月から数年後に壊れてしまうことになります。

 電力供給が途絶えると、流れ込む地下水を排出する仕組みが止まってしまうので、地下鉄は水没してしまいます。人間と一緒に暮らしていたペットや家畜などは、餌と水がもらえなくなるので、次々と命を落とすことになるでしょう。しかし、なかには動物の本能を呼び起こされ、野生動物として生きていくものもの出てくるでしょう。

 数年レベルの時間が経過すると、原子力発電所は冷却が行われなくなることで、原子炉がメルトダウンを起こし大爆発に至ります。放射性物質が撒き散らされ、多くの動植物が命を落とします。この頃になると、夜空には不思議な流れ星が見られるようになります。その正体は人工衛星で、コントロールを失った人工衛星が次々と地上に落下を始めるのです。

 数百年の時が経つと、人類が作り上げてきた様々な建築物が自然崩壊を始めます。都市の象徴である高層ビルは瓦解し、代わって自然が徐々に取り戻されていきます。


 スフィンクス像やアメリカのラッシュモア山のような自然を活かした建造物は、比較的長い間その姿をとどめられるだろうと考えられています。


 数百万年とか数千万年というレベルで時間が経つと、かつて人類が築き上げた文明の痕跡はほとんど失われます。自然分解の遅いプラスチックやガラスなどの痕跡は少し残りますが、1億年もたつと完全に失われるでしょう。それほど時間が経つと、地球上には次の文明の主となる種が現れるかもしれません。

 元記事の動画が締めくくられている言葉を、そのまま引用しておくことにします。「地球は人間を失ったとしても存在し続けることができます。しかし人間は地球を失うと生き続けることができません。地球を大切に」

2018年10月12日金曜日

トムとジェリーのウソホント

Temporal and Space-Use Changes by Rats in Response to Predation by Feral Cats in an Urban Ecosystem

 今回の話題は、うちの子も大好き「トムとジェリー」の世界で描かれる、猫がネズミの天敵というのはあまり正しくないケースがあるというお話です。元記事は、Fordham UniversityのMichael H. Parsons氏をはじめとする研究チームによるfrontiersの論文です。

 ノラ猫は、糞尿の被害や病気の媒介など、都市部の人間にとってはあまり好ましくない存在かもしれません。鳥や小動物を捕食するので、生態系のバランスを崩してしまう恐れも指摘されるようです。しかし、それにもかかわらず人間がこれまでノラ猫を野放しにしてきたのは、「害獣であるネズミを捕食してくれる」という一点ではないかと思います。トムとジェリーの世界では、猫がネズミを追いかける姿が面白おかしく描かれ、時に両者の間の友情も描かれますが、基本的には猫はネズミの天敵です。.....そのはずでした。

 しかし、研究チームが追跡用マイクロチップやカメラを使ってニューヨークで79日間にも及ぶ調査をしたところ、実際はそうでもないようなのです。撮影された306件の映像から、地域に5匹のノラ猫がいましたが、ネズミの後をつける姿が観察されたのは20回、捕まえようとしたのは3回で、見事に捕食成功したのは2回でした。研究チームは、依然として数多くのネズミがいることを確認しましたが、猫の脅威があったとしても移動ルートを変える程度で、目に見えてネズミの数が減ることはないと言われています。

 猫が人間に飼われだしたのは、古代エジプト時代だと言われています。ネズミが穀物を荒らすので、その駆除をする目的だったのだそうで、女神バステトとしても崇められました。中世ヨーロッパでは、ネズミは不吉な象徴というだけでなくペストなどの伝染病を運ぶので、こぞって猫が飼われました。

 しかし、本来は猫が得意とする獲物は無防備な獲物だけなので、古代エジプト時代や日本で見かけるような小型のネズミには効果的かも知れませんが、現代のニューヨーク都市部にいる大型ネズミに対しては、あまり役に立っていないということのようなのです。猫がネズミを追いかける「トムとジェリー」の世界は、あるケースでは正しいですが、都市部では正しくないケースも出てきているのかも知れません。

2018年10月11日木曜日

逆フィルターに見るイノベーションの定石

Free-standing liquid membranes as unusual particle separators

 今回は面白い技術が開発されたというので、ご紹介したいと思います。それは特別なフィルターなのですが、常識とは全く逆のフィルターなのです。元記事は、ペンシルベニア州立大学の研究者チームの論文記事で、Science Advancesに掲載されたものです。

 フィルターと言っても人によってイメージするものは異なりますが、篩(ふるい)とかろ紙・コーヒーフィルター、あるいは偏光フィルターやハイパスフィルターのようなものを思い浮かべる人もいるかもしれません。しかし、ここで言っているフィルターは最も原始的なもの、つまり篩(ふるい)やろ紙のように、砂の中から石を取り除いたり液体の中から個体を取り除いたりする、あの「フィルター」です。

 ペンシルベニア州立大学の研究者チームが開発したフィルターのどの辺が「全く逆」なのかというと、普通は表面に開けられた小さな隙間の大きさを変えることで、小さなものを通して大きなものを通さないところ、全く逆、つまり大きなものを通して小さなものを通さないというところなのです。技術的な仕組みは元記事やこの動画(↓)を見ていただくといいのですが、簡単に言うと、液体の「表面張力」を利用することで、一定の大きさと運動エネルギーを持つ物体だけを通過させるという仕組みなのです。


 運動エネルギーは、質量を持つ物体が動いている時に持つエネルギーです。学生時代の物理の授業を思い出せば、ある高さから物体を落とした時、位置エネルギーが運動エネルギーに変わることで物体は速度を持つという関係にあった、あの運動エネルギーです。式で書けば、
ですので、重いものほどそして速いものほど運動エネルギーが大きく、この特別なフィルターの表面張力に打ち勝って通過できるようになるというわけです。面白いのは、物体が通過した後は、液体の高い表面張力によって穴が自動的に閉じられるのです。

 この全く逆の機能を持つフィルターの応用を考えると、面白いですよね。例えばトイレに使えば固形の排泄物は通すけど臭いは通さない防臭フィルターとか、人は出入りできるのにハエや蚊は通過できないゲートとか、外科手術のときに開口部を覆う応用とか。

 研究者らによれば、今回の発想の元は、細胞が細菌やウイルスなど一定の大きさを持つ物体だけを細胞内へと取り込む食作用だったのだそうです。あえて常識と全く逆の発想をする「逆張り」と、異なる分野をヒントに着装する「連想(アナロジー)」。いずれもイノベーションの定石ですが、これこそ言うは易しの典型ですね。

2018年10月7日日曜日

イグノーベル賞に見るナナメ上精神のすすめ

Here are your 2018 Ig Nobel Prize winners | Ars Technica

 今回の話題はイグノーベル賞です。今年は、昭和伊南総合病院の堀内朗氏が医学教育賞を受賞しました。堀内氏は、大腸内視鏡検査を座位で行うことが最も痛みが少ないことをご自身を実験台にして発見したのだそうです。


 イグノーベル賞は、1991年にアメリカの科学雑誌により創設されたもので、人々を笑わせ、そして考えさせてくれる研究に対して贈られます。単に笑わせるだけでなく「考えさせる」研究だというのが大切で、「考える人」の像が台座から転げ落ちているこの絵(↓)がその象徴です。「イグノーベル(Ig Nobel)」というのは、ノーベル賞の創設者Nobelに否定形の「Ig」を付け、「ignoble(恥ずべき)」という単語にも少し掛かっています。


 実は今回の堀内氏の受賞は、日本にとって12年連続でのイグノーベル賞受賞という栄誉です。イグノーベル賞は単なるおバカで笑える研究というだけでなく、過去には、たまごっち(1997年経済学賞)やバウリンガル(2002年平和賞)など、社会現象を引き起こした受賞もあります。

 受賞者には、60秒間のウケ狙いのスピーチをすることが求められ、堀内氏は実際に内視鏡を持ってスピーチを行ないました。しかし、スピーチの時間が長くなると、ミス・スウィーティー・プーという名の進行役の少女が登場し、「もうやめて、私は退屈なの」とスピーチをやめさせようとします。過去には、スウィーティー・プーに贈り物をして買収し、スピーチ時間を延ばした受賞者もいたのだそうで、科学を身近で面白いものにしたいという関係者の意志が強く感じられますね。

 今年の受賞を眺めてみると、堀内氏の研究はむしろ真面目な部類で、他にも以下のような受賞がありました。自分の方で少しタイトルは編集しましたが、どの賞も魅力的で面白要素が満載です。興味のある方、はぜひリンク先を参照してみて下さい。

・医学賞:ジェットコースターに乗れば腎臓結石を早く取り除ける
・人類学賞:逆にチンパンジーも人の真似をしているという証拠
・生物学賞:ワインの専門家は匂いだけでグラスの中の1匹のコバエを見つけられる
・化学賞:唾をつけて物の表面の汚れを落とすのは効果的
・文学賞:複雑な製品を使うときでも大抵の人は取説を読まない
・栄養学賞:人間の共食いで得られるカロリーは普通の肉料理に遠く及ばない
・平和賞:自動車の運転中に大声を出したり悪態をついたりする現象の研究
・生殖医学:就寝中のペニスの勃起検査を切手を使って行なう方法
・経済学賞:パワハラ上司にブードゥー人形を使った呪術で対抗するのは会社の業績向上に効果的

 よく考えてみると、この賞のあり方って、理系人間の「ナナメ上」な精神構造をよく表しているような気がします。バカバカしいことを大真面目に研究することに無上の喜びを感じたり、真面目な仕事の中に遊び心を加えたりする、そんな精神構造。思うに、12年も連続で日本人(あるいは日本の製品)がこの賞を受賞しているというのは、なんだか興味深いものがあります。日本の理系サイエンティスト・理系エンジニアの精神構造は、世界でもトップレベルにあると言えると思うのです。

 それにもかかわらず、GAFA(Google, Amazon, Facebook, Apple)のようなトップレベルのテクノロジー企業は日本から出てこない。自分は、これらの企業の創業者や経営トップは、いずれも理系の「ナナメ上」の精神構造の持ち主だと思っています。残念ながら、日本の大企業トップで彼らと同じような「ナナメ上」の精神を持っているのは、ソフトバンクの孫正義氏くらいのものでしょう。GAFAにいいように蹂躙されてしまわないためにも、文系トップから理系トップへ国をあげて舵を切らなければならないと思うのです。

2018年10月5日金曜日

格差広がる男性としての「勝ち組」と「負け組」

「生涯未婚男性」が増えている本当の理由

 今回は天野馨南子氏が日経ビジネスオンラインに書かれていた記事を元に、ひとくちに「少子化」といっても、日本の少子化の複雑な姿を取り上げてみようと思います。少子化の直接的な原因としては、未婚率の上昇と晩婚化が挙げられていますが、そもそもなぜ未婚の人が増え結婚が遅くなる傾向にあるのでしょうか。

 2017年の合計特殊出生率(1人の女性が一生の間に産む子供の数の理論値)は、1.43でした。2005年に1.26だったことを底にして、緩やかではあっても上昇傾向にあったにも関わらず、伸び悩んでここにきて再び下落に転じた格好です(↓)。ちなみに下のグラフで合わせて表示している完結出生児数というのは、結婚後15~19年たった夫婦の平均の子供数です。これを見ると、夫婦2人が最終的には2人近くの子どもを持つことになっていることになります。1.43人と2人弱。数字上はあまり違っていないように見えますが、よく考えるとおかしくないですか。


 つまり、女性1人が産む子どもの数より、夫婦がもつ子どもの数が目に見えて多い。人口を維持するための基準となるのは、2人から2.07人の子どもが産まれることですから、完結出生児数を見ればもうちょっとでこの数字に届きそうです。それにもかかわらず、相変わらず少子化の問題は解決にはほど遠い。このカラクリはどういうことなのでしょうか。

 合計特殊出生率は、ざっくり言えば、子どもの出生数を女性全体(15~49歳)の数で割った値です。一方で完結出生児数は、子どもの数を夫婦の数で割った値ということですから、2つの数字の違いは、未婚女性の増大・晩婚化によるところが大きいということになるでしょう。現在、少子化対策として待機児童対策など子育て支援(安心して産んでもらうための制度作り)が重点的に行なわれていますが、そもそも適齢期の男女に結婚してもらうための制度にも力を入れる必要があると思います。

 ところが天野氏は、一部の自治体で実施しているような「婚活パーティー」などで結婚する人を増やせばいいという単純なものではないと指摘されています。未婚化・晩婚化の問題の背景にはもっと複雑な変化があるのだそうです。実は、再婚カップルが増加していて、いまや夫婦の4組に1組は再婚なのだそうです。もはや、離婚・再婚というのはテレビの中の話ではありません。

 そして、90年代後半くらいから増えていて今最も多い再婚パターンは、「男性再婚・女性初婚」というケース(9.7%)です。そして、そのうち44%は夫が7歳以上年上という年の差夫婦です。ちなみに、90年代後半という時期は、男性の未婚率が上がってきた時期とも重なります。つまり、何度か結婚・離婚を繰り返す男性が多くなり、そうなると逆に一度も結婚しない(できない)男性も増加してきたと言えるでしょう。複数の女性と結婚する男性が多くなる一方で、女性は生涯に1人の男性としか結婚しない人が多いならば、必然的に男性側が余ってしまうという理屈です。


男性が年上の「年の差婚」が増えると、男性が高齢のために女性が若くても子供を授からないケースが出てくるでしょう。生涯結婚しない男性が多くなれば、結婚市場に出回る少ない男性を多くの女性が奪い合う形になりますので、女性が出産適齢期を過ぎてしまう可能性もあります。

 では、そもそも再婚の男性が増える一方で、結婚しない(できない)男性も増えているのはなぜでしょう。当然思いつくことですが、格差社会があるのではないかと思います。例えば、年収200万円以下という層は90年代中盤から増え続け、経済的な面で結婚できない男性を増やしたものと推測されます(↓)。そうなると若い女性が余ってしまい、経済力のある男性がトロフィーワイフとして若い女性と再婚する傾向も増加したものといえるのではないかと。


 もちろん、これは一つの見方であって、これが全てではないと天野氏は強調されています。しかし少子化問題と切り離して、一人の男性として考えたとき、経済的に成功して若い女性と何度も結婚できる「勝ち組」と、貧困のために一度も結婚できない「負け組」という二極化が進んでいるのは何ともいたたまれません。昔は貧乏子だくさんなんて言われたものですが、現代は貧乏人は子孫を残すこともできないのでしょうか。

2018年10月3日水曜日

あなたは子どもにどのくらいゲームをさせますか

ゲームのやりすぎは子供の学力に「少しだけ」影響する―海外研究結果

 今回はYahooニュースの記事を元に、電子ゲームが学力に与える影響について考えてみましょう。意外なことではありますが、ゲームに多くの時間を費やすことが学力低下へ与える影響は小さいというのが、最近の認識なんだそうです。

 自分が子供の頃は、ちょうどファミコンが世に出たばかりで、ファミコンを持っている子の家に集まって、みんなでゲームをするというのが定番でした。大人からは、ゲームばかりしていたらバカになるとか、健康のためにもせめて外で遊べとか言われたものでした。ゲームをしていいのは1日に2時間だけなんて、制限が課せられている子も多かったと思います。

 しかし、どうやらゲームのやりすぎで学力に深刻な影響を与えるという、当時の大人の考え方は正しくなかったようなのです。元記事で取り上げられている、オーストリアの心理学者Timo Gnambs教授は、3,554人のドイツ人をサンブルとして、ゲームをする時間と読解・数学・推論能力の成績の関連を調査し、影響はわずかだったと結論づけています。なんと1日に8時間もゲームをプレイする人でさえ、影響は限定的だったのだと。元記事がニュース記事だということもあって、具体的な数字が出ていませんが、少しググったレベルでは、ゲームをする時間と学力の相関は小さいとする研究結果が多いように思えます。

 ただ、この研究結果でもって、いくらゲームしてもいいとは言えなそうです。というのも、Gnambs教授の調査は読解・数学・推論能力という、ゲームの中でも比較的培われやすい「考える能力」を対象に調査しています。一方で日本の教育は、記憶や詰め込みが相変わらず多くを占めています。ゲームの中でも「覚える能力」は培われるでしょうが、覚える対象がアイテムや呪文など、いわゆる学校で覚えさせられる対象とは範囲が違っています。記憶や詰め込みは、それに掛けた時間から大きな影響を受けるでしょうから、ゲームばかりして勉強時間が削られるなら、やはりそれなりの影響があると思うのです。実際に日本の文科省は、テレビゲームをする時間の短さと学力テストの平均正答率との間には相関関係があると述べています。

 自分の子どもは、上は小学3年生の男の子なのですが、やはりゲーム好きです。最近ではスプラトゥーン2とかにゃんこ大戦争なんかにハマっています。親としては、最初のうちはゲームの楽しさに魅了されてハマったとしても、ある程度ゲームをやり慣れたら、プレイはほどほどにして、むしろゲームを「つくる」ことに勤しんでみてはどうかと思います。そう思っていたら、小学生プログラミングコンテストで、5年生の子が完全オリジナルのスマホゲームで初代優勝を勝ち取ったというニュースが流れていました。

 ゲームに限らず、消費するのも楽しいですが、創造するのはもっと楽しい。もちろん作り手側は大変で乗り越えないといけない壁も多いですが、ゲームをきっかけに「つくる」ことの楽しさを知れば、記憶や詰め込みの学力ではないもっと大きなものを手に入れられるかも知れません。

2018年10月1日月曜日

五輪ボランティアに応募してくれるなという応募フォーム

むずかしすぎる!五輪大会ボランティア応募フォーム

 この山ちゃんウェブログで、東京オリンピック・パラリンピックのボランティアの募集が国家総動員体制のようだという記事を書いたことがありました。今回は、そもそもボランティアに来て欲しいんだろうかという話題です。元記事は、Yahooニュースの神田敏晶氏の記事です。

 募集している大会ボランティアは8万人(組織委員会)、都市ボランティアは3万人(東京都)と言われていて、先の9月26日から正式に募集が始まりました。
(1)大会ボランティアの応募→こちら
(2)都市ボランティアの応募→こちら
しかし、このボランティア応募フォームが本当に募集する気があるのかと思うほど酷いというのです。

 いざ、応募をしようとすると英語のページが表示されます。ボランティアに英語は必須だと言いたいのでしょうか。かろうじてフォームにたどり着いて、隅の方にあるボタンを見つけた人だけが日本語に切り替えることができます。Facebookアカウントでログインできますが、名前などの基本情報が引き継がれるわけではないので、何のためのログインなのか不明です。

 アスタリスク(*)がつけられた項目は必須入力ですが、例えばパートナー企業に発行される特別コードも必須になっています。実は、コードを持っていない人は2020と入力しなければなりません。開催年の2020年に掛けているのかも知れませんが、なぜ空欄じゃダメなのでしょう。TOEICの点数も必須です。こちらは受けたことがない人の入力方法がないので、TOEICすら受けたことがない雑魚は来るなというメッセージかも知れません。

 当てはまる選択肢がない場合は、プルダウンを一番下までスクロールして「なし」を選ぶ必要があります。例えば、障害者スポーツをやったことがない人は、経験のあるパラリンピックの競技を選ぶ欄で、プルダウンを延々と最下までスクロールさせる必要があります。生年月日の入力は、1年ずつクリックしてカレンダーをめくらないといけないので、50歳の人は50回クリックしないといけません。横着してYYYYMMDD方式で入力しようとする人は、このように(↓)選べなくなってしまいます。

 何とか全項目を入力し終えても、大抵は入力の不備が残っていて、そんな場合はこんな風にエラーが表示されますので、全て [×] ボタンで閉じていかないと次の操作をすることはできません。

 このボランティア応募フォームの仕様を見ると、個人的には、これはもしかして強制的ボランティアとして正当な報酬なしで作らされたものではないかと疑いたくなってしまいます。入力フォームの端々から、絶対ここに来るな、来たら不幸になるだけだぞという、先人のダイイングメッセージのような雰囲気を感じてしまいます。もしそうではなく、うっかり不親切なフォームになってしまっただけだとしたら、残念ながら、これを作った人はITエンジニアを名乗る資格はないでしょう。もし会社として請け負った仕事なのだとしたら、誰もチェックしていないということですから、そもそもITではない会社なのでしょうし、発注者側もザルだということのようです。このフォームで募集した結果、8万人ものボランティアが集まるのかどうか、なりゆきをウォッチしたいものですね。

2018年9月29日土曜日

美徳ラベリングの驚くべき威力

Should You Tell Everyone They’re Honest?

 今回は心理学に関する話題で、哲学者のChristian B. Miller氏の記事を元にしたものです。テーマは「ラベリング効果」。日本だと「レッテル貼り」と言った方がわかりやすいかもしれません。もちろんラベリングもレッテルも比喩で、ある人物に「あなたってこういう人だよね」というこちら側の見方を伝え、自分はそう思われているのかという認識を持たせるということです。

 レッテルというのは、綴りにすれば「Letter」。つまりレターです。ボトルに中身を書いたラベルを貼るように、ある人物をステレオタイプに分類するという側面もあります。「ラベリング」だとそうでもありませんが、「レッテル貼り」という言い方だと悪い意味に使われることも多く、例えば髪を金髪に染める子どもは不良というレッテルを貼ることで、普通の子どもを不良に押しやってしまうというケースもあるでしょう。しかし、ここで言う「ラベリング効果」は、むしろあえてレッテル(ラベル)を貼ることで、その人物の考え方や行動を変えてしまおうという積極的な姿勢のことです。そして、その効果というのは思いのほか大きいということなのです。

 Miller氏は、ある人物を思う方向の思考や行動をさせるためのラベリング(レッテル貼り)を「美徳ラベリング」と呼んでいます。例えば「あなたは正直な人ですね」と言われてしまうと、その期待を裏切りたくないという心理が働き、実際に正直な人になるというものです。人間はそんな単純じゃないと反論する人もいるでしょうが、ラベリング(レッテル貼り)の効果の大きさは多くの研究結果が物語っています。

 有名どころは、1975年にネブラスカ大学の心理学者Richard Miller氏らによって行われた研究です。被験者の子どもを3つのグループに分け、1つ目のグループには「きれい好きだ」というラベルを貼ります。2つ目のグループには「もっときれい好きになるように」と話し、3つ目のグループには何も前提となることをしませんでした。その結果、最初のグループ、つまり「きれい好きだ」とラベルを貼られたグループが最も部屋をきれいに片付けたのだそうです。もっときれい好きになるようにと言われた第2グループではないところが、この研究結果のミソです。他にも、「協力的なグループ」「競争的なグループ」という2つにラベル付けされた被験者に、ブロックで塔を組み立てるゲームをしてもらったところ、「協力的」とラベル付けされたグループが2倍もの数のブロックを積み上げたとか、「環境保護のことをよく考えている」とラベルづけされたグループが、実際に環境についての責任を考えるようになったとか、この手の研究は枚挙にいとまがありません。

 そして面白いのは、人間は悪いラベル(≒レッテル)は剥がそうとするのに対して、良いラベルは剥がさないようにするのだそうです。「あなたは金髪に染めているから不良だ」という悪いラベル(≒レッテル)を貼られた若者は、そんなことはないと反発するでしょうが、「あなたは優しい人ですね」とラベリングされた人はあえてそのラベルを剥がそうとはしません。

 相手に良いラベルを貼ることで考え方や行動を思い通りにコントロールしようという試みは、意図せずとも、おそらく日常生活の中で実践していることと思います。最近冷たい恋人に対して、「あなたは優しいね」と会話のたびに付け足すことで、相手の態度が軟化するかもしれません。子どもに対して「よく勉強するいい子だね」と言い続けることで、本当に学校から帰ったら机に向かうようになるかもしれません。

 相手を思ったように操るためのテクニックとも言える「ラベリング効果(レッテル貼り)」。その効果が短期的なものなのか持続的なものなのかは、実際のところまだよくわかっていません。ラベル付けされた人が本当にその美徳を身につけるのか、単に期待を裏切りたくない、与えられたラベル通りに生きたいと思うだけなのかもよくわかっていません。しかし、その効果が大きいことは多くの研究結果が示していますし、日常生活の中からも肌感覚で理解できます。「美徳ラベリング」というテクニックを意図的に使うことで、仕事や家庭・人間関係を今よりスムーズにすることも十分可能だと思うのです。

2018年9月27日木曜日

音楽は死につつあるのだろうか

Measuring the Evolution of Contemporary Western Popular Music

 皆さんは音楽が好きでしょうか。自分の場合、最近は通勤中にiPhoneのApple Musicで聞いていますが、さすがに今どきのJ-Popはついて行けなくなってしまったので、洋楽中心に流しています。今回は音楽が衰退の一途をたどっているという残念な記事です。元記事は、スペイン国立研究評議会人工知能研究所のJoan Serrà氏らがNatureのScientific Reportsに投稿されていた記事です。

 元記事で言われているのは、いわゆるポピュラーミュージックの質が年々低下しているという研究結果なのです。音楽の「質」ってどういうことなんだと思うかもしれませんが、ざっくり言ってしまうといわゆる「多様性」のことを言っています。

 分析対象は少し古めのデータで、1955年から2010年までにリリースされた、約4万5000人のアーティストの46万4411曲もの楽曲が収録されているMillion Song Datasetです。分析の結果、1960年代をピークに「音色」の多様性は減少し続けており、全体的に音色が均質化してきているのだそうです。「ピッチ」については、多様性が減ってはいないものの、数十年前に普及していたものと同じものが繰り返し使用されていて、現代のミュージシャンは過去のヒット曲の模倣が多く、新しい音色やピッチへの挑戦が少ないのだそうです。ちなみに「音量」については、曲の音量は8年ごとに約1デシベル増加しているのですが、曲そのものの音量を上げることはダイナミックレンジを犠牲にし、ノスタルジックな感情が起きづらくなってしまいます。

 元記事では、音色やピッチの多様性が失われることが衰退につながると言っており、確かにそういうご指摘は一理あるでしょう。しかし、限られた音色やピッチが使われるからと言って、直ちに衰退とは言えないのではないかと思います。たとえば、音楽の大衆化の流れの中で、多くの人にウケる音色やピッチが支持され、それらが繰り返し使用されるのかもしれません。またMillion Song Datasetは、1955年から1959年の曲が2650曲しかないのに対し、2005年から2009年にかけての曲は17万7808曲もあって、分析対象データは相当に偏っていると言えます。古い時代は音楽を世に出すためには相当の才能が必要だったので、Million Song Datasetに収録されるような曲はいわゆる "良曲" が多いのに対し、最近はミュージシャンになるハードルがグッと下がって、楽曲のデキも玉石混交(むしろ数の上だけでは、"模倣曲" が多い)という分析も成り立つかもしれません。

 ただ、元記事のSerrà氏は「時間の効果が最小限に抑えられるようにしており、その影響は本当に小さなものだ」と主張されており、過去の模倣ばかりの音楽業界になりつつあるとしたら、音楽ファンにとっては寂しい限りです。最近ですと、安室奈美恵さんが引退してしまって音楽の一時代が終わった気もしますし、新しい音楽を世に出してくれる次世代のミュージシャンが出てきてほしいものですよね。

2018年9月25日火曜日

あなたは思ったよりも好かれている

The Liking Gap in Conversations: Do People Like Us More Than We Think?

 今回の話題は心理学的なものなのですが、皆さんは周りの人に自分がどう思われているかって気にならないですか。「人にどう思われようが自分は自分」と割り切ることができればいいのですが、多かれ少なかれ他人との関わり合いを持ちますし、他人にイヤな奴だと思われたくないという心理は多くの人が理解できると思います。元記事は、Cornell UniversityのErica Boothby氏をはじめとして、Harvard UniversityのGus Cooney氏、University of Essexの Gillian M. Sandstrom氏、Yale UniversityのMargaret S. Clark氏の共同執筆論文です。

 論文の結論は、「会話相手が自分をどう思っているのか」ということについて本人と相手の認識は大きく異なっているということです。知らない人と会話した際、相手は会話を楽しんでいるのに、こちら側はそのことに気づかないということが多いのだそうで、このことは「認知の錯覚」と呼ばれています。

 例えば、初対面の2人をペアにして「出身は?」「趣味は?」といったありきたりの質問の会話をする実験で、実験後に被験者に
(a) 相手のことをどのくらい好きになったか
(b) 相手は自分のことをどのくらい好きになったと思うか
ということを評価してもらいます。被験者の平均をとると、(a)よりも(b)の方が低く評価されがちだったとのことです。つまり、自分が相手にどう思われているかということについては、我々は「過小評価」しがちだと言えると思います。定量的な分析だけでなく、会話の様子を録画した映像でも、被験者は相手の「興味」や「楽しさ」を示す振る舞いに気づいていないことが多いとのこと。

 これはとても面白い結果です。というのも、人は「能力」に関しては自分を過大評価する傾向にあることがわかっています。能力の低い人ほど自分を過大評価する認知バイアスは、ダニング=クルーガー効果と呼ばれています。ろくでもない運転をする人ほど、自分のことを運転が上手いと思っていたりするものなのです。しかし、対人関係における自己評価では、全くの逆。極めて遠慮がちで、自分のことを過小評価するというのですから。

 元記事では、自己評価には「相手が存在するかどうか」が影響を与えている可能性があると言われています。つまり、自分の能力を過大評価してしまうとき、そこに他者の存在はありません。それは「自分が運転が上手いと思いますか」という絶対評価です。それに対して、会話相手という他者が存在することは、評価は相対評価の側面を持ちます。会話相手のこれまでの経験の中で、自分がどの程度楽しい人間に位置付けられるかというのは、相手の出会ってきた人に左右されるでしょう。そういう相対評価の場では、自己評価に慎重になるのではないかというのです。自分は、この仮説は一理あるような気がします。

 例えば、出会ったばかりの異性に一目惚れをしたからといって、すぐに告白することができるでしょうか。しばらく友人関係の付き合いをする中で、相手が自分に好意を持ってくれていることが確信できて、はじめて告白する勇気が出てくるような気がします。五分五分ではまだ勇気が持てず、七分三分くらいの可能性を確信できてはじめて気持ち的には五分五分じゃないでしょうか。何も恋愛のシチュエーションでなくとも、人は相手に嫌われているという事実が分かると深く傷つくものですから、ハードルを下げるというか予防線を張る行為を行なうんだと思うのです。

 しかし人間関係に予防線を張ってしまうと、本当に自分のことを好きな人を遠ざけてしまう危険性があります。人付き合いをする上では、自分が思うよりも人は自分のことが好きなんだという事実は知っておいてもいいと思うのです。

2018年9月22日土曜日

ジャイアンの二面性はF先生の優しさか

【感動】ジャイアンの名言「お前のモノは俺のモノ、俺のモノは俺のモノ!」 はこんなに感動する話から!

 皆さんはジャイアンをご存知でしょうか。あの国民的アニメ「ドラえもん」に登場するガキ大将・剛田武のあだ名です。ジャイアンは乱暴な性格で、のび太やスネ夫を殴ったり漫画やオモチャなどを横取りしたりします。今回は、そんな乱暴者・ジャイアンの持つ男らしさや優しさにも注目して見ようと思います。元記事はNAVERまとめの記事です。

 ジャイアンは短気で乱暴な言動が多く、今回のタイトルにもなっている「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」というセリフは有名です。極めて自己中心的・自分勝手な性格で、そんなジャイアン的な考え方のことを「ジャイアニズム」というのだそうです。一方で、義理固く涙もろい一面の性格を見せることがあり、もう一つの決め台詞「心の友よ!」はジャイアンのもう一つの性格を端的に表しています。特筆すべきは、そんな義侠心に富んだ性格は映画版では特に強調されます。例えば「ドラえもん のび太の大魔境」では、自らの我の強さでみんなを危機に晒してしまい、その責任を感じたジャイアンは、たった一人で敵に立ち向かおうとするペコ(クンタック王子)と行動を共にしようとします。

 元記事で言われているのは、ジャイアンの決め台詞「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」は、2011年3月25日の「のび太のハチャメチャ入学式」で、のび太が偶然トラックの荷台にランドセルを落としてしまい、必死に走ってトラックに追いつきランドセルを回収した時の台詞だということです。利己的で他人のものを我がものとして横取りしてしまう台詞ではなく、3.11 の直後で「絆」が叫ばれた時期の友愛の象徴だと。

 ただ実際のところは、どう考えてもこの台詞はそれ以前から存在していました。元々は、小学四年生1982年9月号の「横取りジャイアンをこらしめよう」で初めて登場した台詞だと言われています。実はアニメ版ではジャイアンの決め台詞となっていますが、原作では一度しか登場していないとも言われており、元記事で言われている「のび太のハチャメチャ入学式」での台詞は、行きすぎた俺様主義を是正しようとした藤子・F・不二雄先生の優しさなのかなと思います。

 他にも、ジャイアンの妹・ジャイ子に関しては、偶然同じ名前を持つ女の子がいじめられないようにとの配慮で公式には本名がないことになっていますし、ジャイアンがのび太をいじめる台詞「のび太のくせに生意気だ」というのも、体力や成績の低さや家族などを揶揄する言い回しを避ける配慮だと言われています。優しさに包まれた「ドラえもん」、これほど長きにわたって愛され続けているのもよくわかりますよね。

2018年9月19日水曜日

知っていないと絶対に読めない英単語 ghoti

Ghoti - WIkipedia

 今回は英単語に関する小ネタです。元記事はWikipediaなのですが、ふとした時に見つけたこの単語を紹介します。実際のところ、このためにこそ作られた造語で、自然に存在する難読単語ではありませんので、どう頑張っても読めません。 ゴーチ? ゴティ? 自分も最初はそんな風に読むのかと思っていました。

 実は、この単語の正しい読み方は「フィッシュ」です。この単語は fish の音を異なる綴りで表したもので、発音も fish と同じ [ˈfɪʃ] です。単語を構成する3つの部分が、それぞれ次の単語と同じようにトリッキーに読むようになっています。
(1) gh - laugh (ラフ [læf], [lɑːf]) の gh と同じように [f] と発音
(2) o - women (ウィミン [ˈwɪmɪn], [ˈwɪmən]) の o と同じ [ɪ] の発音
(3) ti - nation (ネイシャン [ˈneɪʃən]) の ti と同じ [ʃ] の発音

 もう無理やりとしか思えないですが、裏を返せば元になっている単語の gh, o, ti の読み方がそもそも無理やりなんだと思います。英単語の中にこんな無理やりな発音をする単語があるのは、歴史的な経緯があるのだそうです。

 英語は本来フリジア語(オランダ北部)の類縁をもとに、ラテン語由来の単語が大量に導入されています。出自がそもそも複雑で、混血状態だったわけです。さらに15〜16世紀にかけて、大母音推移とよばれる大規模な変化が起こります。例えば now という単語は、もともと [nu:] と読んでいましたが [naʊ] と読み方が変わりました。さらには、近代英語はアメリカをはじめ多くの地域で使用され、アメリカの国力の増大とともに様々な言語から外来語として単語を導入し、綴りの不規則性はさらに拡大したわけです。ghoti という語の生みの親とされるジョージ・バーナード・ショー氏は、この複雑怪奇な英語に対するアンチテーゼとという意味合いを込めたのかもしれません。

 ちなみに、これに colonel (カーネル, [ˈkɝnəl]) の olo を付け加えて ghotiolo とすると、これは fisher (フィッシャー [ˈfɪʃɚ]) と発音するのだそうです。もはや誰も読めないですよね。

 さらにさらに、
(1) though (ヅォウ [ðoʊ]) の gh
(2) people (ピープル、ピーポー [ˈpiːpəl], [ˈpiːpl̩]) の o
(3) ballet (バレイ ['bæleɪ]) の t
(4) business (ビズネス、ビズニス [ˈbɪznəs], [ˈbɪzˌnɪs]) のi
は、いずれも発音としては読まない部分ですので、実は ghoti は全く発音しないのが正しいという解釈も成り立つのかも知れません...

 いわゆる言葉遊びの類なのですが、それなりに理屈を付けて単語を作り出すところなんて、プログラマーの斜め上の発想に似ているような気もして面白いですね。

2018年9月15日土曜日

他人のおならは臭いのに自分のおならは臭くない!

Why Do We Like Our Own Farts?

 今回の話題はきれな話ではありません。というのも今回は、人はなぜ他人のおならは臭いのに自分のおならは臭くないのかという話題です。元記事は、YouTubeのチャンネルAsapSCIENCEの動画です。その動画がこちら(↓)。


 ところで、人はどのくらい "おなら" をするのか知っていますか? 実は平均で1日に約10回くらいなのだそうです。可愛いあの娘も、10回もしているわけですね。そのおならについて、他人のおならは我慢ならないほど臭いのに、自分のおならはバラの香りとまでは行かないまでも、それほど臭くないと思いませんか。他人のおならは臭いのに、自分のは臭くない。これにはきちんとした科学的根拠があるのだそうです。

 簡単に言ってしますと、人は「歌」でも「絵」でも「におい」でも、普段から慣れ親しんだものを好みがちだということです。それはおならであっても例外ではなく、初めて嗅ぐ他人のおならよりも、普段から嗅ぎ慣れている自分のおならが好きということです。もっと言えば、おならのみならず体臭であっても同じです。

 慣れ親しんでいないにおいを嫌いなのは、人間の防衛本能によるところが大きいと考えられています。臭いと思うものは大抵は害をなすものであって、人が腐った食べ物や糞尿のにおいが嫌いなのは、病気や伝染病を避けるためには必要な本能から来るものとも言えるでしょう。

 人間が自分に害をなすもののにおいを嫌い、逆に自分自身のにおいを好むことで、適切な衛生状態を維持できています。面白いことに、母親は自分の子どもの排泄物は他人のものほど嫌悪感を感じないのだそうです。自分は、赤ちゃんが生まれた時からずっとオムツ替えをしている経験からそうなっているのかと思っていましたが、もっと本能的なものだったんですね。

 ただ、おならをどのくらい嫌悪するのかは、時代や性別・文化・個人の考え方など様々な要因によります。保守的な人ほどおならのにおいに嫌悪感を示すそうで、子どもたちがウンチやおならなど下ネタを好むのは、日本が保守的な社会だという証拠なのかもしれません。

 もう一つ。他人のおならに関しては、脳の前帯状皮質も大きな役割をしています。例の独特の音を聞いて誰かがおならをしたと分かった時、人はそのにおいを予想します。そして前帯状皮質は、そのにおいの危険性に備えて「気をつけろ!」と身体に警告を発するのです。そのために、本当はそれほどでもないのにすごく臭いと錯覚しているという側面もあるのだそうです。

2018年9月14日金曜日

強制されたボランティアをボランティアと呼べるのか

富士通は300人 「五輪ボランティア」企業からも“徴兵”開始

 今回は、東京オリンピックに向けたボランティア募集が9月の中旬から始まるという話題です。元記事は、日刊ゲンダイDIGITALの記事です。

 ボランティアの人員が学生だけでは足りないのか、東京五輪のスポンサー企業にはボランティアの“徴兵”が始まっているのだそうです。オリンピックゴールドパートナーの富士通は、東京五輪組織委員会からボランティア枠300人のノルマを課せられているのだとか。富士通は、社内募集により2,000人の応募があって324人を選抜している、社員に強制してはいないと言っているようですが、どうも胡散臭い気がします。というのも、富士通によれば、それは業務としてではなく積立休暇や有休を使わなければならないそうです。富士通のような大企業で働く忙しいビジネスマンが、わざわざ休みを取って、真夏の炎天下で熱中症になっても怪我しても労災が下りないボランティアなんかに行くでしょうか。富士通が「休みを取ってボランティアしていたので、今期の予算は達成できませんでした。キリッ」という理屈が通るならいいですが、そんな会社は聞いたことがありません。

 このニュース記事を見て、「国家総動員体制」という言葉が思い浮かんだのは、自分だけじゃないと思います。まるでさきの太平洋戦争じゃないですか。しかも、東京五輪組織委員会や各種組織の人たちが高い給料をもらっているのに対して、庶民はタダで働けと言っているんですよ。組織委員会の役員報酬は年2,400万円、宿泊・交通費なども全額支給なのに対して、ボランティアは報酬なしは当たり前で、宿泊・交通費も自腹。冷房の効いた部屋で踏ん反り返っている森喜朗元首相らと、炎天下の中無償労働を強いられる庶民の図。

 国際オリンピック委員会(IOC)のコーツ副会長は「やりたくなければ申し込まなければ良い」などと話しているそうですが、富士通ではボランティアに申し込まないとリストラ対象リストに載るという噂もあるくらいですから、ボランティアという名の「半強制」なのは明白です。もし自分の会社がこのノルマを課せられたら、各部から何人ずつ出せというお達しが来ることが容易に想像できます。そして一番仕事する若手から引っ張られるだろうことも、また容易に想像できます。

 個人的には、こんなボランティア強制で批判を浴びるようなことをしなくても、もっと単純に解決すればいいのにと思います。例えば、9万人とも言われるボランティアの方々に、1日1万円の日当を支払うんです。オリンピック・パラリンピックの20日間(オリンピック・パラリンピック各10日間)支払ったとしても、たったの180億円です。4,000億円もある協賛金からすればわずかな金額です。猛暑どころか酷暑が予想される2020年真夏の東京で過酷な作業をする労働者を確保する金額だと考えれば、とても安い金額だと思うんです。

2018年9月11日火曜日

アスキーアートの原点

ASCII Art – 1948 (Oct, 1948)

 今回は、はるか昔からアスキーアートが作られていたという話題です。元記事は、Modern MechanixのPaul Hadley氏の記事です。

 そもそもアスキーアートというのは、ASCII(この綴りでアスキーと読みます)コードと呼ばれる文字だけを使って絵などを表現する技法のことです。AAと略されることもありますが、簡単なところだと、
  (^▽^) m(_ _)m orz
のような顔文字から、
  ____ ∧ ∧
  |\ /(´~`)\<発展段階
  | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
  | |=みかん=|
   \|_____|
のように複数の行を使用するもの、さらには
      , -.―――--.、
     ,イ,,i、リ,,リ,,ノノ,,;;;;;;;;ヽ
    .i;}'       "ミ;;;;:}
    |} ,,..、_、  , _,,,..、  |;;;:|
    |} ,_tュ,〈  ヒ''tュ_  i;;;;|
    |  ー' | ` -     ト'{
   .「|   イ_i _ >、     }〉}
   `{| _.ノ;;/;;/,ゞ;ヽ、  .!-'
     |    ='"     |
      i゙ 、_  ゙,,,  ,, ' {
    丿\  ̄ ̄  _,,-"ヽ
  ''"~ヽ  \、_;;,..-" _ ,i`ー-
     ヽ、oヽ/ \  /o/  |
のような、アートと呼べるレベルのものもあります。

 Hadley氏の記事で紹介されているのは、そんなアスキーアートの原点とも言える1948年の作品で、当時はアスキーアートとは呼ばずに「Keyboard Art」と呼ばれていたのだそうです。その作品がこちら(↓)。 


 当時はコンピューターなどありませんから、タイプライターを使って作られていました。画面を見ながらキーボードを打って何度でも書き直せるAAとは違い、タイプライターのKeyboard Artは、この(↑)Xだけで作られた花の作品のように、まず紙に輪郭を描いてからその中をXで埋めるような描き方をされたものが多かったのだとか。

 元記事で紹介されているのは1948年ですが、そもそも文字を使って絵を描こうという試みの起源は、19世紀の古いタイプライター時代にさかのぼります。現在知られている最も古いKeyboard Artは、1898年(明治31年)にFlora Stacey氏が蝶を表現したものだと言われています(Wikipediaより)。いわゆるタイプライターが商用として販売されたのが1865年と言われていますから、タイプライターが世の中に広まるに連れてこういったアートが考え出されたということです。

 タイプライターはアルファベットと数字・記号しか使えないという制約があって、とても絵を描くのに適した機械ではありません。でも、そんな制約があるからこそ、アートが生まれる。全くの自由では工夫する必要がない。むしろ制約が多いところにこそ工夫が生まれ、アートにまで昇華されるというのが面白いですよね。極論すれば、アートとは制約のあるところにしか生まれないとも言えるかもしれませんね。

2018年9月7日金曜日

世界で一番ほっこりする脅迫状

【衝撃】Twitter女さん「娘とお留守番してる夫からこんな脅迫された…」 

 今回はTwitterで話題になっていた、この話題。たくあんちゃん (@sosocanishino)が夫から受け取った、世界で一番ほっこりする脅迫状です。


 何気に「縦読み」だったりするんですよね。小さい子どもと二人っきりで過ごすお母さんをちょっと解放してあげようという、旦那さんの心づかいがほっこりしますね。

2018年9月6日木曜日

実写にしか見えないCG美女とCGにしか見えないリアル美女

“実写にしか見えない”3DCG女子高生「Saya」にそっくりな“本物の女性” 「正直、叩かれると思っていました」

 この弱小ブログの中で比較的読まれている方の記事に、「美女アンドロイドかアンドロイド美女か」という記事があるのですが、その中でモデルの高山沙織さんが東京ゲームショウでアンドロイドとして展示されたところ、多くの人が生身の人間ではなくアンドロイドだと信じてしまったという話題をご紹介しました。もう一つ別の記事で、CGアーティストの石川晃之さんと友香さんの夫妻のユニット「TELYUKA」によるCG女子高生「Saya」もご紹介したことがありますが、今回の記事は高山沙織さんがSayaのモノマネをしてとても似ていたと言う話題です。元記事は、ITmedia NEWSのニュース記事です。

 何はともあれ、まずはCG女子高生Sayaと高山さんの比較写真から(↓)。写真を並べてみると、どっちがCGか分からない...というのはちょっと言い過ぎですが、こんなにもソックリだということに驚きです。高山さんご本人も、ガッツリ似せようとしたと言うよりは制服とウィッグだけの自撮り写真なので、反響に驚いておられるようです。(正解を言う必要はないと思いますが一応、左側が高山さん、右側がCG女子高生のSayaです)


 ではもう少しガッツリ似せようとしたらどうなるのか。その写真がこちら(↓)。プロのカメラマンの撮影した写真で、Sayaに似せるために表情を柔らかく凛とした目線を意識したのだそうです(↓)。


 東京ゲームショウの時もそうですが、やっぱり高山さんってなりきった時はアンドロイドっぽいというか、造りもののような雰囲気がありますよね。生身の人間側がこれだけ寄せてくると、CGやアンドロイドと見分けがつかなくなるのも時間の問題といった感じがしますよね。高山さんご自身、東京ゲームショウからモデル人生が一変したと言われていますので、女性タレント・女性アイドルの新たな分野が誕生した瞬間だったのかもしれませんね。

2018年9月4日火曜日

テレパシーを実現する技術

Computer system transcribes words users “speak silently”

 今回の話題は、自分もコンピュータテクノロジーの発展の凄まじい一つの例をご紹介したいと思います。超能力者でもなければ使えないと思っていた「テレパシー」。実は技術的にはすでに実現済みだって知っていました? 元記事はMIT NewsのLarry Hardesty氏による記事です。

 何か考えごとをしているとき、ぶつぶつと独り言を口にしている人をたまに見かけるでしょう。実は自分も少し独り言を言ってしまう方なのですが、頭の中で考えていることを言葉としてアウトプットし、それをもう一度耳からインプットすることで、思考が整理される気がするのです。本当に口に出さないまでも、概念のまま考えるより、頭の中で言葉にしながら考えている人がほとんどではないかと思います。

 頭の中だけに存在して思考の道具として用いられる言葉は、「内言」といって、普通は自分の中だけの言葉ですが、マサチューセッツ工科大学(MIT)のMITメディアラボでその内言を読み取って音声として発する装置の開発が進められています。装置の仕組みは、顔と顎の筋肉の微細な電気信号を読み取って、人工知能(AI)で解析するということなんだそうです。

 装置はこのように耳から顎のラインに沿って装着され(↓)、唇の下と顎の部分に4つの電極が内蔵されています。人間が「内言」を発すると、筋肉が目に見えないくらい微細に動き、それを電気信号として検知します。得られた電気信号を機械学習によるAIで解析することで解読するわけです。


 実は、「内言」が筋肉の動きに現れることについては、1950年代から研究が進められてきています。しかし、筋肉の動きを解読しようという試みは、ほとんど進められてきませんでいした。埋もれていたこの研究に光を当てた今回の最新技術によれば、被験者が頭の中で思った言葉を92%の精度で解読することに成功したのだそうです。この装置は骨伝導ヘッドセットの役目も兼ねており、相手の「内言」が送られてきた場合、トランスデューサーによって振動に変換され、頭蓋骨を介して内耳を直接振動させることで言葉として聞くこともできる、つまり双方向にやり取りすることができるのです。もうこれは、テレパシーと言っても過言ではないのではないでしょうか。

 例えば、騒音の激しいところでも頭の中で思うだけで会話ができたり、逆に物音を立てることが許されない軍事作戦時のコミュニケーション手段としての活用も期待できます。何より、言葉を使うことが不自由な人のコミュニケーションを支援するツールとしても活用できそうで、いわゆるコミュ障の人にも朗報かもしれませんね(笑)。

2018年9月2日日曜日

「夢を諦める」ことの重要性

職業、出世…叶わぬ「夢」を正しく諦める方法

 今回は、何だか日本人的なマインドに合わないタイトルですが、諦めずに夢を追い続けることの重要性ばかりが説かれる世の中で、逆に夢を諦めることも重要なことだという話題です。元記事は、明治大学専門職大学院グローバル・ビジネス研究科の野田稔教授によるダイアモンドオンラインの記事です。

 この夏、吉田輝星投手を要する金足農業高校が、秋田県勢103年ぶりの決勝進出という偉業で甲子園を沸かせました。多くの強豪校は100人を超える部員がいると思いますが、そんな中からレギュラーを勝ち取り、予選大会を勝ち進んで甲子園に出場しただけでも十分ヒーローです。しかし、トップレベルの選手にはまだその先の勝ち残り競争が待っています。プロ野球、あるいは最近ですと大リーグを目指した闘い。その勝負の世界に飛び込んだ中でも、一軍を目指した勝ち残り競争があり、一軍のレギュラーを勝ち取ったとしても、現役引退後もコーチや監督などができるレベル、野球殿堂入りするようなレジェンド級に上り詰める選手はほんの一握りです。

 つまり言いたいことは、野球というスポーツで頂点を目指した選手のうちほとんどは、夢半ばで破れるのです。はたから見ていると、甲子園に出られただけでも十分ヒーロー、プロ野球に入れただけでも十分に凄いことじゃないかと思いますが、頂点を目指す選手にとっては慰めにならないと思います。

 少し極端な例を出しましたが、実際のところほとんどの人が人生の中で「夢を諦める」ことを経験しています。人生の成功者と言われる人たちでさえ、実は子供の頃は◯◯になりたかったんだけどねという話をされる人がたくさんおられます。そういう方々は、子どもの頃からの夢を正しく諦めて別の道を目指したからこそ、今の成功をおさめられたのでしょう。

 しかし、少なくとも日本で生きている限りは、「夢を諦めない」ことの重要性ばかりが説かれていて、「夢を諦める」ことの重要性が説かれていないと感じます。プロ野球に進めなくても、社会人野球や独立リーグなどに進んでドラフト指名を待つとか、メジャーデビューを夢見てバイトしながら音楽の道を夢見続けるとか、そんな「諦めない」姿勢こそが大切、途中で諦めて就職する人は負け組でカッコ悪いことだと。諦めないことの重要性ばかりが説かれる日本文化は、「努力」を過剰に重要視しているんだと思うのです。諦めることはいつでもできるが、諦めてしまったら夢はそこで絶たれてしまうと。

 もちろん「簡単に」諦めることがいいことだとは思いません。努力して夢を実現しようという姿勢も大切でしょう。しかし、モノにならないことが分かったなら、グズグズと夢にこだわり続けずにスパッと諦めて、別の道を探すということもまた重要だと思うのです。子どもの頃の夢をそのまま叶えて上り詰めた人は、いないわけではないもののごく少数派です。夢を諦めて別の道を進み、その道で成功をおさめている人の方が多数派だと思うのです。

 でもこの「諦める」という能力、一筋縄では行きません。夢を実現すべく努力を重ねた人ほど、諦めるとこれまでの努力を無駄にしてしまう気がしてしまいます。実は諦めることはつらいことで、努力を続けることの方がむしろたやすい道です。一体どうやって「諦める」というつらさを乗り越えることができるのでしょうか。

 野田教授も、まずは「負けを認める」しかないと言われています。努力した人ほど自分の能力の限界を感じますが、ほとんどの人はそこで「負け」を認めません。原因は自分の能力のなさだと考えず、努力の足りなさだと考えてしまいます。そして、ますます努力する方向へ行ってしまいます。しかし、一歩下がって冷静な目で自分を見つめ直してください。こんなにも努力したのにモノにならなかったのです。それは努力ではどうしようもない、能力の差だったのです。つらいことですが、素直に負けを認めましょう。

 そのうえで「できることなら嫌いになれ!」と野田教授は言われています。それまで全身全霊を捧げてきた対象を嫌いになることは、実際にはとても難しい。しかし、何とかして自分の人生をその道から遠ざけるのです。音楽の道を目指してきた人が、夢を諦める時に楽器を処分してしまったり、スポーツで一流になることを目指してきた人がその競技の道具を処分したりして、とにかく物理的にその対象から「逃げる」んです。日本では「逃げる」ことは卑怯なことだと考える風潮がありますが、決してそんなことはありません。

 「夢を諦めない」ということばかりが素晴らしいことのように思われていますが、「夢を諦める」こともまた人生の中で重要なことです。もっと言えば、「上手に」夢を諦める能力こそ、人生の成功のための秘訣と言っても過言ではないかもしれません。

2018年9月1日土曜日

漆黒のブラックホールにご用心

Visitor falls into Sir Anish Kapoor’s Descent into Limbo

 今回はちょっとした小ネタのようなものですが、ポルトガルの美術館に展示されていた穴にお客さんが落ちて病院に運ばれたというニュースが気になったので、取り上げさせて頂きます。元記事はTHE TIMESのニュース。

 自分は、単に穴に落ちただけでニュースになるって一体どういうことなのかと思いましたが、その穴の正体を見て納得(↓)。とにかく黒いんです。黒すぎるんです。「漆黒」という言葉は、この穴のためにあるのではないかと思うくらい。穴が空いているというよりも、真っ黒のカーペットが敷かれているだけのようにさえ見えます。この黒い穴、実は2.4mもの深さがあって、その内部が「世界で最も黒い物質」といわれる「Vantablack(ヴァンタブラック)」で塗られていたのです。


 とにかく、このVantablackという物質。こんな風にコーティングしたアルミホイルをしわくちゃにしても、とてもしわくちゃになっていると分からないくらいです(↓)。Vantablackが世界で最も黒いと言われるのは、その圧倒的な可視光吸収率にあります。通常は、黒色の可視光吸収率は95~98%程度なのにも関わらず、Vantablackの吸収率は99.965%。まるで、光を全て飲み込んでしまうブラックホールであるかのようです。


 ちなみにお客さんが落ちてしまった穴は、インド出身の彫刻家アニッシュ・カプーア氏の作品で、作品名は「Descent into Limbo(辺獄への転落)」。お客さんが本当に転落してしまったというオチですが、大怪我になっていなければいいのですが... これからは、漆黒を見つけても迂闊に近づかないほうがいいかもしれませんね。

2018年8月30日木曜日

AIの弱みとは

人工知能vs.プロゲーマーの闘い、人間が制する──その戦術から見えたAIの「弱点」と可能性

 昔はコンピュータゲーム(ビデオゲーム)と言えば子どもの遊びのように扱われてきましたが、最近は「eスポーツ」なんて言われ方をして、遊びから競技へワンランクアップした気がします。eスポーツの土俵はコンピュータな訳ですから、人工知能(AI)が得意とするフィールドで人間は敵わないかと思いきや、実はまだギリギリ人間のチャンピオンが面目を保っているのだそうです。今回はそんな話題を、WIREDに投稿されていたTom Simonite氏(Asuka Watanabe氏の翻訳)の記事を元にご紹介したいと思います。

 元記事で取り上げられているのは、先日行われたコンピュータゲーム「Dota 2」の国際大会「The International」の初戦。あのイーロン・マスク氏が共同創設した「OpenAI」が開発した人工知能は、ブラジルのプロチーム「paiN」に敗れました。Dota 2というゲームは、Raidiant・Direという2つのチームに5対5に分かれたプレイヤーが戦い、相手のタワーを破壊しつつ敵の本陣を先に破壊した方が勝ちという対戦型戦闘ゲームです(↓)。毎年8月にシアトルのキーアリーナで開催されるThe Internationalは、世界最高賞金(なんと2,500万ドル(約28億円)!!)のeスポーツ大会として有名です。


 実は8月はじめに行われたウォームアップマッチでは、AIが人間の強豪チームを破っていましたので、チェッカーズ・チェス・囲碁と次々と制覇してきたAIが、次の段階としてeスポーツも飲み込むのかと期待されていたところでした。ところが蓋を開けてみれば、試合内容は人間チームの圧勝と言っても過言ではなかったのです。その時間、わずか52分。

 実は1つ1つの戦いを取ってみると、OpenAIはpaiNよりもキル数が多く、完璧なタイミングで繰り出される組織的な攻撃は、とても人間チームには真似できない攻撃でした。しかし一方で、OpenAIは戦略面で遅れを取り、勝利に必要となるリソース収集と割当てで多くのチャンスを逃していました。英国ファルマス大学とドイツのマックス・プランク・ソフトウェアシステム研究所でAIを研究するマイク・クック氏は、「ボットたちは一瞬一瞬の身の振り方がとても上手だが、マクロレベルの意思決定が苦手なようだ」と述べています。

 OpenAIのAIボットは、強化学習(Reinforcement Learning)と呼ばれる手法でDora 2を学習しました。強化学習は機械学習のうちの1つで、試行錯誤を通じて「価値を最大化するような行動」を学習するものです。簡単に言えば、AIにランダムな行動をさせ、良い行動には高い報酬が与えられ、報酬を最大化するように学習させていくシステムです。面白いのは、その時点での報酬(即時報酬)だけでなく、中長期的にもらえる報酬を最大化するという点です。例えば、皆さんはテトリスというゲームをご存知でしょうか(↓)。その時点で一番スコアが高くなるのは、1列でもいいのですぐに消すという方法ですが、より長期的には、できるだけ溜めてから一度にたくさんの列を消したほうが高い報酬をもらえます。

 OpenAIのDota 2プロジェクトでソフトウェアエンジニアを務めるスーザン・チャン氏によれば、訓練中、ボットは自分の行動の影響を最大14分先まで考えていた。単純に、15分以上先のことを「計画する」メカニズムが備わっていない、と述べています。つまり、強化学習はある行動に対するその時点での報酬ではなく中長期的な報酬を最大化するよう学習するとは言っても、現時点のテクノロジーでは、まだ長期的と言えるほど先までは見通せないということなのでしょう。結果的に、長期戦略の欠如という弱点になってしまったようです。

 AIの得意とするのは、多くの経験値を学習することでそれに似た新たな状況に対して答えを出すことです。それぞれの局面でどんな手を打ったら効果的か(即時報酬を最大化する)というのは、過去に学習したあらゆる局面の中から答えを出せますが、それらの経験値を長期戦略に昇華させるというのはもう一段高いレベルのテクノロジーが要求されるのかもしれません。当面は、その辺に人間のつけ入るスキがあるのかもしれませんね。

2018年8月26日日曜日

これからはギークが主役の時代だ

Geek vs. Nerd

 今回の話題は、最近耳にすることが多くなった「ギーク(Geek)」という言葉。英語ではよく「ナード(Nerd)」と対比され、日本語ではどちらも「オタク」と訳されています。元記事は、GeekとNerdの違いがわかりやすく解説されているMastersInIt.org(↓)です。

Geeks vs Nerds
From: MastersInIt.org

 Geekという言葉は、もともと英語の方言で、ドイツ語のgeck(fool、freak)やアフリカーンス語のgek(crazy)などにたどり着きます。その後、サーカスなどの場でヘビを食いちぎったり昆虫を呑み込んだりといったパフォーマンスをする芸人を指すようになりました。そこから「社会に適応できない者」という意味を持つようになり、現代では特にコンピュータ・マニアを指すことが多くなりました。

 一方でNerdは、ジョック(Jock)という言葉の対義語です。Jockというのは、狭義ではアスリートのことですが、広義にはスクールカーストの頂点に君臨する人気者の男性のことを指します。Nerdは、内向的・文化部に所属・スポーツに興味なし・恋愛に奥手といった特徴があり、スクールカーストのかなり低いところに位置します。現代の日本風に言えばさしずめ、「Jock=陽キャ、Nerd=陰キャ」と言ったところでしょうか。

 GeekとNerdは似てはいますが、Geekがここ最近プラスイメージが強くなったのに対して、Nerdはいまだにマイナスイメージが残っているようです。

 Geekは、アーリーアダプターで、自分がここぞという分野(特にコンピュータ系やテクノロジー系であることが多い)の知識は専門家顔負けで、その分野について聞かれようものなら延々と喋り続けられられます。関心があるのはゲーム・映画・コレクション・ガジェットやテクノロジー・コンピューター・プログラミング・ハッキング・テクノ音楽など。

 一方でNerdは、学問好き、内向的で社会性は乏しい方です。ゲーム・映画・科学・コンピューターに対して広い知識とあまり実用的ではないスキルを持っていたりします。バトルスター・ギャラクティカのようなサバイバル系、ライブアクションRPG、物理学、チェス、ファンタジーやSFなどです。

 日本ではGeekもNerdも「オタク」と一括りにされてしまいますが、どちらも、この山ちゃんウェブログでたまに取り上げる「理系脳」をもっと突き詰めた人たちかも知れません。Geek・Nerd・オタクといった人たちはどちらかというと社会の日陰者の存在でしたが、GAFA(Google・Apple・Facebook・Amazon)と呼ばれる巨大IT帝国を築き上げた創業者たちはいわゆるGeekと言っても過言ではなく、彼らの偉業によってGeekに陽が当たるようになったのかも知れません。そして、これからはSTEM教育(Science, Technology, Engineering, Mathematics)が重要だなんて最近よく聞くようになりましたが、これも同じ流れなのかも知れないなんて思う今日この頃です。

2018年8月24日金曜日

理論的にありえない雨粒が存在し得る残念なカラクリ

Why Raindrops Are Mathematically Impossible
Rain's Dirty Little Secret

 夏休みの宿題のラストスパートに勤しんでいる小学生も多いかもしれませんが、今回は自由研究ネタのような雨粒の不思議を取り上げようと思います。元記事は、YouTubeの二つの動画です。

 まず最初の動画はこちら(↓)。実は自分も知りませんでしたが、数学的には雨粒というものは存在しえないのだそうです。


 そんなことないよ、上空は気温が低いので気体の水蒸気は液体の水になり、次にその水が集まって水滴になるだけ。そう思ったアナタ。実はこの説明、数学的には成り立ちません。いや前半は成り立ちますよ。確かに温度が下がると気体の水蒸気は液体の水になります。しかし後半がいけません。数学的には、水が集まって水滴になるということはありえないのです。

 水には、表面積を大きくするときにエネルギーを吸収し、体積を大きくするときにはエネルギーを放出する性質があります。水滴が十分な大きさを持つ場合であれば、体積が増えることで放出されるエネルギーの量は、表面積を増やすことで吸収されるエネルギーより大きくなり、水滴は体積を増やす方向に向かいます。しかし、水滴の大きさが小さい場合、エネルギーの放出・吸収の関係性は逆になり、水滴は体積を小さくする方向に向かうのです。これは、体積が半径の3乗に比例し、表面積は半径の2乗に比例するという単純な理屈です(↓)。


 y²ー³ のグラフを描いてみると、あるところに極大点を持つ(↓)ことでも理解できるかもしれません。水はある大きさを境界(実際には水分子1億5000万個くらいの体積)として、それより小さい場合は分裂して小さくなろうとし、それより大きい場合は集まって大きくなろうとするというわけです。気温が下がって水蒸気から水になったばかりの時、水分子1個という小さいサイズですので、互いに集まろうとする力は働かず、むしろ分裂しようとする力が働きます(もちろん水分子1個より小さくなれませんが)。水蒸気から水になったばかりの水が集まって水滴に成長することは、数学的にはありえないのです。


 しかし、現実的には雨粒が降ってきます。一体どうしてなのでしょうか。そのカラクリを説明しているのが、2つ目の動画です(↓)。


 先ほどの理論からすると、小さな水分子が集まってある大きさの水滴になるということは自然には起こりえません(↓)。


 水分子だけを考えていると自然には起こりえないという結論になるのですが、それは雨粒を形成するために重要な役割をするものの存在を忘れているからです。その重要なものとは....

  実は...その正体は「チリ」や「ホコリ」です。水分子1億5000万個の塊は自然にできませんが、同じくらいの大きさのチリやホコリなら空気中にたくさんあるのです。そして、チリやホコリに水分子がまとわりついて、境界以上の塊になると、あとはそれを核として多くの水分子が集まってくるというわけです。


 チリやホコリを核としてどんどん大きく成長した水滴は、一定の重さ以上となり重力で落下してきます。これこそが「雨粒」です。水が水滴に成長して大きく重くならなければ、地上から蒸発した水蒸気が上空で水になっても、地上に降ってくることはありません。水が、重力で落下するほどの雨粒に成長するためのきっかけはチリやホコリだったわけです。

 そして、雨が降ることで地上には川や海ができ、生命が育まれました。地球上に生命が誕生したのは、そしてわれわれ人類が生まれたのも、チリやホコリのおかげだったと言っても過言ではないかもしれませんね。

2018年8月23日木曜日

左足ブレーキのススメ

「左足ブレーキ」は踏み間違い暴走事故防止の切り札になるか

 自動車を運転する方は、ブレーキをどちらの足で踏むでしょうか。マニュアル車の方は間違いなく右足ですし、おそらくオートマ車の方でもほとんどの方は右足なのではないでしょうか。でも、現代はほとんどの車がオートマ車ですし、オートマしか乗らない人はブレーキは左足で踏んだらどうでしょうか。今回はそんな話題を、モータージャーナリスト・鈴木ケンイチ氏がDIAMONDオンラインに書かれていた記事を元に考えてみたいと思います。

 実用水準としてのオートマ車の起源は、1939年にゼネラルモーターズ(GM)がオールズモビルのオプションとした「ハイドラマチック」だと言われています。日本では岡村製作所が1958年に発売したミカサが最初と言われており、それから60年を経た現代、道路を走る車のほとんどはオートマ車と言っても過言ではなく、免許もAT限定で取る人が6割を超えていると言われています(逆に言えば、4割もの人がMTで免許を取るのが不思議ですが)。そして、オートマ車と切っても切れない事故が、ブレーキを踏もうとして誤ってアクセルを踏んでしまう「踏み間違い事故」です。

 マニュアル車であれば、エンストさせないために、完全にクラッチを踏んで動力を切り離す必要があり、よほどの急ブレーキでない限りブレーキとクラッチはセットで踏むことがドライバーに染み付いています。そのため、ブレーキペダルと間違ってアクセルを踏んでしまっても、クラッチで動力が切り離されているので空ぶかしになる可能性が高いのです。しかしオートマ車は、基本的に動力が常につながっている状態ですから、ブレーキと間違ってアクセルを踏んでしまうと、そのまま進んでしまうわけです。

 鈴木氏は、そもそもアクセルとブレーキがどちらも「ペダルを踏む」という操作で、かつ両方のペダルが隣に並んでいることがそもそも構造的な欠陥だと言われています。おそらくこれは、従来のマニュアル車に乗り慣れた人がスムーズにオートマ車に移行できるよう操作系を維持したことが原因なのでしょう。自動運転の実用化が間も無くという時代に、もう今さら操作系を変えることはできないでしょう。

 ならば、せめて踏む足を変えてみればどうでしょう。マニュアル車はペダルが3つもあって、クラッチとブレーキを同時に踏むためにはブレーキは右足で踏まざるを得ませんが、オートマ車はアクセルとブレーキしかペダルがないのです。そう、マニュアル車は2本の足で3つのペダルを踏まなければなりませんが、オートマ車は2本の足で2つのペダルです。それならば、役割分担を「右足=アクセル」「左足=ブレーキ」と決めてしまえば、いざという時に間違えることが少ないと思いませんか。

 オートマ車も、マニュアル車時代の名残でブレーキペダルは真ん中にあります(↓)。実際にやってみればわかりますが、真ん中にあるブレーキは右足でも左足でも踏めますが(慣れの問題で右足の方が踏みやすく感じるでしょうか)、右側にあるアクセルを左足で踏むのは至難の技です。つまり「ブレーキ=左足」を染みつかせていれば、いざという時に左足で一番右のアクセルを踏んでしまうことはほとんどないでしょう。


 実は自分はかれこれ10年ほど前から、左足ブレーキを実践しています。元はと言えば、踏み間違い防止というのではなく、当時買った新車で右足でアクセルもブレーキも踏むと、ものの1時間ほどの運転で右足のふくらはぎがパンパンになってしまったためでした。シートポジションやハンドルポジションなど色々試したのですが、どうしても右足だけでペダル操作をしていると、右足の疲労がハンパないのです。疲労が右足だけに偏るのがイヤで、左足でブレーキを踏むことによって疲労を均等にしようと思ったのです。そして、少しずつ左足ブレーキを練習して、今では左足ブレーキが当たり前になりました。

 鈴木氏は、左足ブレーキは疲れるので素人には勧めないと言われていますが、自分はむしろオススメしたいくらいです。というのも、運転中そうそういつもブレーキを踏んでいるわけではありません。信号で停止するとかスピード調節するとか、ブレーキの使用はポイントポイントです。実際にやっているものからすれば、「そんなに疲れないけど」というのが正直な感想です。それよりむしろ足の疲労を均等にでき、何よりも安全性の面で大きなメリットがあると思うのです。

 もちろん、初めての人がいきなり左足ブレーキをやると事故を起こしてしまいます。練習が必要です。自分が左足ブレーキを習得した練習法をご紹介しましょう。

 まず、当たり前ですが、練習は必ず安全な場所で行なってください。最初のうち、左足でブレーキを踏もうとすると、足の感覚が慣れていないので急ブレーキになってしまいがちです。そうならないよう、低速で車を走らせ、右足でブレーキを踏む時に一緒に左足も添えるということをします。つまり、両足ブレーキです。低速で走らせては両足ブレーキでスピードを緩める、また右足でアクセルを踏んで低速で走らせ、両足ブレーキで緩める。それを繰り返します。ブレーキを "そっと" 踏む感覚を、左足に覚えこませるのです。慣れてきたら、だんだん左足で踏むブレーキに右足を添える程度にしていきます。そして、やがては左足だけで踏めるようになっていくのです。

 特にAT限定の免許を持っている方は、そもそもマニュアル車を運転することがないわけですから、マニュアル車の操作系に則った右足ブレーキである必然性はないでしょう。思い切って「右足=アクセル」「左足=ブレーキ」と役割分担してしまえば、いざという時の踏み間違い事故も減るのではないかと思うんです。

2018年8月21日火曜日

Androidスマホの電池を長持ちさせるアプリ

MultiDroid: An Energy Optimization Technique for Multi-Window Operations on OLED Smartphones

 今回はこの山ちゃん上ブログでは珍しく (?)、身近で実用的な話題です。夜眠るときにスマホを充電し、朝はバッテリー100%の状態で出かけるにも関わらず、夜帰宅するまで持たないという人はいませんか。そんな人の中には、小さくて軽いスマホのために重いモバイルバッテリーを持ち歩くという、残念なことになっているかもしれません。今回はスマホのヘビーユーザーが喜ぶ、バッテリー長持ちアプリについての話題です。元記事はIEEE Xploreに掲載されていた、University of WaterlooのKshirasagar Naik教授らの研究論文です。

 Naik教授らが注目したのは、Android Nougat以降に搭載されているマルチウインドウ機能(↓)です。そう、つまりはAndroidスマホを使っている人には朗報ですが、自分のようにiPhone使いの人は残念ながら恩恵を受けられません。Naik教授は「マルチウインドウ機能は不必要なエネルギー消費を招くものだ」と述べており、チームが開発したアプリは、複数画面のうち「重要でない」アプリの輝度を減らすことでバッテリーの消費量を節約します。ちなみに、200人のユーザーを対象に実験した結果、バッテリー持続時間は10~25%も伸びたとのこと。


 そう、Naik教授らの手法は、ユーザーが使っていない間にバックグラウンドで行われる通信を削減するようなものではなく、単純に画面の明るさを下げるという手段なのです。よく考えてみれば、画面の明るさを下げるのはスマホのバッテリー節約の王道ですから、有効なのは当然と言えば当然です。しかし、重要でないアプリの輝度だけを下げるわけですから、使い勝手にほとんど影響を与えず自動的に10%以上バッテリー節約できると思えば、なかなか有用ですよね。ただ.....自分はiPhone使いなのでよく分かりませんが、マルチウインドウ機能ってそんなに頻繁に使うんでしょうか.....

2018年8月20日月曜日

ディベートや口げんかに強くなるためのポイント

断りたいのに、断れない人が、覚えておくと役立つ言葉「挙証責任」とは?

 今回の話題は、ぜひ覚えておきたい、ディベートや口げんかに強くなるためのポイントです。元記事は、心療内科医である松田ゆたか氏によるものです。ディベートや口げんかと言いましたが、交渉全般に言えることなので、日常のコミュニケーション全体に言えることだと思います。

 そのポイントとは、「挙証責任」というキーワードに集約されています。この言葉は裁判などで登場する法律用語ですが、読んで字のごとく証拠を挙げなければならない責任のことです。裁判には通常、原告(訴える側)と被告(訴えられる側)がありますが、挙証責任は原告(訴える側)にあります。Aさんが「BさんがAさんから借りたお金を貸せさない」ことでBさんを訴えた場合、Bさんがあれは借金ではなく贈与だったと主張すれば、あげたのではなく貸しただけだということをAさんが証明しなければならないのです。

 これは、ディベートや口げんか・議論などありとあらゆるコミュニケーションに応用できる考え方です。例えば、松田氏の出されている例で、AさんがBさんをマラソン大会に誘うケースを考えてみましょう。Bさんはマラソンなんてしたくないのですが、次の例を見てみましょう。

Bさん:だって、40キロも走る体力ないよ。
Aさん:だったら、10キロコースとか5キロコースもあるよ。
Bさん:5キロも走り続けられない。
Aさん:疲れたら途中で歩いてもいいんだよ。
Bさん:でも、熱射病が心配。
Aさん:こまめに給水ポイントで水分補給して、休憩すればいいよ。そもそも早朝マラソンだから日差しも強くないし。
Bさん:.....

 いかがですか。Bさんのように、こんな会話のなかで、気が進まないことを押し付けられたことってないでしょうか。Aさんのような口の上手い人って、いますよね。いわゆる「論破される」とでも言いましょうか。

 気が進まないのにいつの間にか押し切られてしまうとき、論破されてしまうとき、あなたが挙証責任を負ってしまっていませんか。この例では、Bさんがマラソン大会に出るか出ないかは、本来はBさんの勝手ですし、Bさんの時間の使い方はAさんにとやかく言われることはありません。そこを、Aさんと一緒にマラソン大会に使ってくれませんかとAさんが提案するわけですから、本来の挙証責任はAさんが負っているのです。つまり、Bさんの時間をAさんと一緒にマラソン大会に費やすべき理由を挙げて、Bさんをその気にさせる必要があるのはAさんです。

 もう一つの例は、セールスマンとお客の次のような会話です。

お客:我が家に金目の物なんかないから、防犯システムなんか要らないよ。
セールスマン:命という一番大切なものがあるでしょう。
お客:命を狙われるようなことはしていないよ。
セールスマン:人というのは、思いも寄らぬところで恨みを買ってることもあるんですよ。油断大敵です。
お客:でも、ちゃんと戸締まりしているから。
セールスマン:マンションのドアのロックなんて、プロなら1分で開けますよ:
お客:.....

 いかがですか。このケースも本来は、防犯システムを売り込むセールスマンがその必要性をお客に納得してもらうために、許容責任を負っています。しかし、いつの間にか立場が入れ替わってしまって、お客側が挙証責任を負ってしまっているのです。

 マラソン大会にいやいや参加するハメになったBさんや、必要もない防犯システムを売りつけられたお客のように、論破されてしまうという人は、本来は挙証責任は相手にあることを思い出すようにしましょう。そして一番大切なことは、相手を納得させようとしてはならないことです。相手こそが、こちらを納得させなければならないのです。それが、挙証責任が相手にあるということです。なぜマラソン大会に参加しないといけないのか、なぜ防犯システムを買わないといけないのか、納得できる説明を相手に求めるのです。自分が納得できないのはなぜか、相手に説明してはいけませんよ。そんなことをしたら、挙証責任を押し付けられてしまいます。

 日常のコミュニケーションの場では、挙証責任を「説明責任」と言い換えてもいいでしょう。質問する側とされる側と言い換えた場合、質問される側にならないようにしましょう。それでも言葉巧みな人は、こちらに挙証責任を押し付けようとしてくるでしょう。そんなときも、「あなたの方こそ、自分の正しさを私に納得させてみなさいよ」と押し返さなければなりません。

2018年8月17日金曜日

不安しかないプログラミング教育必修化

プログラミング教育必修化に漂う大きな不安

今回の話題は、2020年度から小学校でプログラミング教育が必修化されるという話題です。実は自分の長男が現在小学校3年生で、この波をもろに被りそうということもあって、この山ちゃんウェブログでも何度か取り上げました。今回の元記事は、ミスターフュージョン代表取締役でプロスタキッズ代表という肩書きをお持ちの石嶋洋平氏が東洋経済ONLINEに書かれたものです。

 プログラミング教育必修化の目的は大きく2つあります。1つ目は、今後不足が予想されている「IT人材の育成」です。そして2つ目は「プログラミング的思考の育成」となっています。そして、この2つの目的のために、小学生からプログラミング的思考を学ばせるという理屈なのですが、石嶋氏が言われているのは、プログラミング教育必修化には基本的には「賛成」だが、一方で「現在の状況では十分な教育効果は得られない」というご指摘です。

 実は、自分も石嶋氏と近い意見を持っているのですが、自分の場合はまず目的の1つ目「IT人材の育成」に対しては、日本という国の国際競争力を左右する喫急の課題であって、小学校のプログラミング教育より先にやることがあると思っています。

 例えば、別の分野ですが、介護人材や保育士の人材不足が言われています。少子高齢化や女性活躍社会など、大きな社会的なうねりの中にあって、こちらの分野の人材不足も喫急の課題ですが、小学生のうちから介護の勉強をしたり保育の勉強を必修科しようという動きは見られません。どちらかというと、低賃金と重労働という処遇を改善して、介護士や保育士を魅力ある職業にして、人材が集まってくるようにしようという動きだと思います。IT人材の不足についても、これをやることが先だと思います。我が国のIT業界は、多重下請け構造によって一次受けで技術力のない大手SIerが比較的処遇がいいのに対して、二次下請け・三次下請けと下るに従って、本当の意味での技術力が要求されるにも関わらず、「IT土方」と呼ばれるほど処遇が悪いケースが見られます。受注した案件を下請けに流すだけの大手SIerは処遇がよく、丸投げされた仕事をこなさなければならない下請け企業は処遇が悪くなる構造は、建設業界にも少し似ていますが、建設業界のような肉体派の現場でない分、問題が顕在化しにくい状況があると思います。

 つまり、「IT人材の育成」のためにまず手を打たなければならないのは、小学校のプログラミング教育よりも先に、プログラマーの地位向上と処遇改善だと思うのです。米国のIT業界の世に、プログラマー業界で高給を取れるとか一攫千金を目指せるとなれば、国内の優秀な頭脳は海外に流出することなく我が国のIT業界の発展に貢献してくれると思うのです。

 次の「プログラミング的思考の育成」という目的に対しては、石嶋氏の言われる通り、現在の環境では効果が薄いだろうと思っています。現在の環境と言っているのは、
(1)「プログラミング」という教科(科目)があるわけではない
(2) 教員の多くがプログラミングを理解していない
(3) ICT(情報伝達技術)環境が整備されていない
ということです。中でも特に問題なのは、(2)だと思っています。(1)問題で、「算数、国語、理科、社会、音楽、学級活動などを通して論理的思考力を伸ばしていく」なんて綺麗ごとは、教員が高いプログラミング能力を有していなければ成り立つわけがありません。そんなアバウトな方針を示して、プログラミングの知識がない教員に丸投げしても、教育効果が上がるとは到底思えないのです。不幸にも、プログラミングの素人に教えられた子ども達はプログラミングの楽しさが理解できないどころか、嫌いになってしまって逆効果を生むかもしれません。

 ちなみに、プログラミング教育を小学校1年生から必修化しているイギリスでは、民間企業のプログラミング教育を教員が受講したのだそうです。日本でも何らかの研修制度が設けられるのかもしれませんが、移行期はロクな教育を受けられないことが予想されます。幸いにプログラミングスキルを持っている親は、率先して子どものプログラミング教育を導いてあげるようにするのが良さそうです。

2018年8月13日月曜日

年を取ることは幸せに近づくこと

歳をとることは不幸か、幸福か?ありのままに生きる…高齢化とは幸せなこと

 この山ちゃんウェブログでは以前、「生きててよかったと思えるピークは80代」という記事の中で、実は人生の中で幸福感を感じるピークは老齢なんだという記事を書いたことがありますが、今回も実はそんな趣旨の内容です。元記事は、慶應義塾大学教授の前野隆司氏によるものです。

 まずは元記事からその主張の根拠となるデータを(↓)。必ずしも「幸せ」とイコールではないものの、それと近いものとして「生活満足度」を縦軸にとって年代別に調査されたデータです。調査された時代の社会情勢などにより多少上下に変わりますが、大きな傾向として は、若年から中年に向けて下がって行き、30〜50代で底を打ってからは、最終的には老齢に向かって上昇しています。

 仏教の世界では、人生における免れることのできない4つの苦しみとして「生老病死」という言葉があります。読み方が少し難しく「しょうろうびょうし」と読みますが、この中で生まれることは別として、年をとること・病気すること・死ぬことという4つの苦しみは、どう考えても若者や中年代よりも老齢の方が身近な存在で、その分苦しみも大きそうに思いますが、老いは苦しみどころか幸福度の上昇に繋がるように見えます。一体どういうことなのでしょう。

 その答えのヒントになるのが「老年的超越」という考え方です。1980年代Tornstam氏によって提案された概念で、人がそれまでの物質主義的で合理的な世界観から、宇宙的・超越的・非合理的な世界観へ変わっていくことを指します。「老年的」と言うだけあって、高齢期に起きる世界観の変化で、具体的には、利他性の向上・物質論的な社会常識からの解放・他の存在とのつながり意識の増大などが挙げられています。そして、前野氏が言われるのは、この世界観の変化は、地位財型の長続きしない幸せから非地位財型の長続きする幸せへの変化に他ならないと言うことなのです(↓)。
つまり、若者時代から中年期にかけて「幸せ」だと思っているカネ・地位・モノといった要素は、長続きしない幸せであるばかりでなく、もっともっととエスカレートしがちです。そして、多少のものを手に入れたとしても、もっと上を目指す追求心により、なかなか満足できないものです。それに対して、老年期に「幸せ」だと思う安心・健康・心といったものはエスカレートというよりは「噛みしめる」タイプの幸せです。それはなんどもなんども噛みしめることによって、増幅されていく幸せなんだと思うのです。具体的には、老年的超越という概念は、以下のような8つの因子で表せるそうです(↓)。


 高齢化社会というと、介護問題や年金問題など暗い話題が多いのですが、一方で目先を転じてみるとそれはつまり幸せな人が多い社会ということができるかもしれません。自分はこれまで、大人になってからは誕生日を迎えるのが嬉しくないと思っていましたが、誕生日は幸せに一歩近づいたと言えるかもしれません。自分が年を取ることも社会が高齢化社会に向かうことも、深刻に考えすぎずに、幸せに向かっているのかもしれないと思えば楽しみも出てくる気がしますね。

2018年8月11日土曜日

東京医大はそんなに悪いのか

東京医大の点数操作「もはや女性差別以外の何物でもない」と指摘。内部調査委が会見

 今回の話題は、ちょっと前から世間を賑わしている東京医科大学(以下、東京医大)の入試における点数操作の問題です。元記事は、Shino Tanaka、泉谷由梨子の両氏によるHUFFPOSTの記事です。元記事では、この問題のこれまでの経緯と問題点が簡潔にまとめられています。

 東京医大では、内部調査委員会が8月6日に調査報告書をまとめました。報告書では、過去の医学科の入試について、特定の個人に対する点数調整と、個人の属性(現役か浪人か、男子か女子か)による得点調整の2種類の不正が行われていたとしています。個人に対する点数調整としては、文部科学省前局長の佐野太被告氏の息子に対する加点が行なわれていただけでなく、過去2年間で合計19人に対する個別の加点が行われていたとしています。

 一方で属性に対する得点調整の方は、例えば2018年度の入試の場合、二次試験の小論文(100点満点)で、全員に係数0.8を掛けて80点満点とした上で
  a. 現役から2浪までの男子は+20点
  b. 3浪男子は+10点
という加点が行われていました。つまり、4浪以上の男子と女子は仮に満点を取ったとしても80点になる、「不公平」な入試になっていたというわけです。調査委員会長の中井憲治弁護士は、「不正疑惑は偽りの募集要項で受験生や、家族、社会全般を欺くもの。重大な女子差別的要素を含んでいる。さらに、国を欺いて公的資金を得たという事実もある」と話しています。

 自分は、この問題が国立大学あるいは私立大学でも医学部以外だったら、不公平な入試や女性差別はまかりならんというご意見にまだ賛成できるのですが、起きたのが私立大学の医学部ということで、全面賛成するのは躊躇してしまいます。

 というのも、まず第一に大学入試というのは、資格試験ではありません。選抜試験です。過去にこの山ちゃんウェブログで、脱「公平」を打ち出した東大入試の話題を取り扱ったことがありますが、選抜試験は選ぶ側が自らのためにポリシーに合った学生を選ぶ場です。資格試験のように「公平性」がマストではありません。

 選抜試験の最たるものは「就職試験」です。就職試験では、学校名によっては面接どころかインターンにも参加させてもらえない「学歴フィルター」とか、不透明な選抜基準、縁故採用などがあることは公知の事実になっています。もちろん募集要項や求人情報には、学歴フィルターがありますよとは告知されていないでしょう。それでも、企業の就職試験が不公平だと糾弾する意見はあまり見られません。それは、試験の点数だけで仕事遂行上の能力がすべて測れるわけではないこと、採用する側とされる側の相性の問題もあるなど、「公平性」を担保する必要性が低いという共通認識があるのだと思うのです。「公平性」を担保するために莫大なコストをかけるだけのメリットが企業側にない、と言ってもいいかもしれません。

 就職試験で「公平性」の重要度が低いことを確認した上で、東京医大の問題に戻ってみましょう。医学部の入試というのは一種独特で、卒業生は大学の付属病院に勤務する前提で入学者が選抜される側面があります。その意味で、入試でありながら就職試験だとも言えるのです。就職試験だとしたら、女性医師は長時間勤務などに耐えられず出産を機に退職してしまうので、どちらかと言えば男性を採用したいとか、卒業後も2年間の初期研修と3~5年間の後期研修という人材育成にかかるコストを考慮して、あまり浪人していない人を採用したいという論理は、それほど非難されるべきことではないと思います。

 付属病院が働き方改革を進めて、女性医師が出産後も退職せずに働き続けられるようにすればいい。それをせず入試で女子受験生を不利に扱うなど間違っている。そういったご意見もごもっともです。しかし、このご指摘はほとんどの日本企業にも当てはまる話で、東京医大学だけを責めるのも変な話です。医師不足が深刻な医療現場では、せっかく育てた人材に長く活躍してもらう必要性が高く、働き方改革などの社会制度が道半ばである以上、このような選抜を行なうのもやむを得ないのではないかと思うのです。

 社会では「公平」でないこともたくさんありますし、国民の生命を預かる医者になるような人物を選抜するときに、本当に試験の点数だけで判断するのが公平なのかという問題もあるでしょう。「公平」な試験をした結果、日本の医師不足がもっと深刻化することに対しては、一体どうすれば良いのでしょう。「公平」にこだわり過ぎる潔癖症は、公平でないことだらけのこの社会で生きづらく、結果的にネットやメディアの中だけで正論を振りかざすクレーマーに似ている気がします。

2018年8月10日金曜日

サマータイム導入で2000年問題ふたたび

酷暑対策でサマータイム導入へ 秋の臨時国会で議員立法 31、32年限定

 自分が子供の頃は「夏休みは早起きして涼しいうちに宿題をしましょう」なんて言われたものですが、今年の猛暑は少々の早起きでは足りないほどです。そんな中、政府・与党が東京オリンピック・パラリンピックのために、2019年・20年限定で夏の時間を2時間繰り上げるサマータイム(夏時間)導入の検討に入ったというニュースが流れて来ました。今回の元記事は、産経ニュースの8月6日の記事です。

 正直言って、自分はこのニュース記事を見たとき「嘘だろ」と思いました。サマータイム導入なんて、まして2年間限定なんて、あまりにリスクが高すぎてそんな馬鹿げた議論が政府で行われているなんて、フェイクニュースかエイプリルフールのたぐいかと思いました。しかし、いくつかのサイトを見ている限り、半分は冗談かもしれませんがどうやら半分は本気のようなのです。

 例えば、精神科医で早稲田大学教授の西多昌規氏は、サマータイムを導入すると不眠になるとか自殺が増加するとか睡眠障害・精神障害が悪化するなど、社会的な見地から反対を唱えられていたりしますが、自分はそんなことより日本が壊滅してしまいやしないかと思っています。それは何と言っても、国際化対応していないコンピュータシステムなんてゴマンとあって、2時間も時刻がずらされたら何が起きるかわからないという不安です。

 これに似た問題として、昔、2000年問題(Y2K問題)というのがありました。当時の多くのコンピュータシステムは「年」情報を2桁で管理していて、例えば1999年は99というわけです。そのため、2000年になった途端に00年つまりは1900年にシステム時刻が戻ってしまって、弾道ミサイルが誤発射されたり発電・送電システムの暴走で世界的な大停電が起きるかもしれないなど、ノストラダムスの大予言とはこのことだったのかと思えるほどの社会不安に陥ったものでした。結果的には、何年も前から周到な対策が打たれていたので大きなシステムトラブルはありませんでしたが、システムエンジニアの長年の努力の賜物だったと思います。

 ところが今回は、実施が来年に迫っているのに、この秋の臨時国会への議員立法提出を目指すという余裕の無さなのです。十分な検証と対策が行なわれないまま、ぶっつけ本番を迎えることになります。政府としては、2019年は予行演習という程度のつもりかもしれませんが、東京オリンピック・パラリンピックの前年にミサイル誤発射や大停電・経済の壊滅で日本を沈没させてしまった日には目も当てられません。

 ちなみに、サマータイム導入でなぜそんなことが起きるかと言うと、例えば原子力発電所の冷却水の排水を9:30から10:30の1時間行なうというプログラムがあったとしましょう。平常時間からサマータイムへの移行時は時刻が戻るわけですから、10:00に切替えが行なわれると、1時間の排水のはずが3時間排水されてしまうかもしれません。そうなると、冷却水が底をついて核分裂が臨界点を迎えてしまうかもしれません。サマータイムから平常時刻に戻る場合は逆に時刻が進むわけですから、10:30という時刻が飛ばされてしまい、排水は開始されても停止せずもっと危険かもしれません。

 もちろんそうはならないよう、今どきならば時刻をUTC(世界標準時刻)で扱うとか、クリティカルなシステムにはフェールセーフの機構が入っていたりするものですが、なにしろ実運用で動いたことがない機構ですので、もう一度きちんと検証されないと不安でいっぱいです。

  実は自分にはシステム時刻の進み・戻りには苦い経験があります。若い頃、JavaのTimerとTimerTaskを使って10分周期でタスクを実行するプログラムを書いたことがあるのですが、自分がロングラン試験をしても問題ないのに、QA部門の人がテストするとなぜか途中で止まってしまう(タスクが実行されなくなってしまう)という事象が起きたのです。それは、まるでプログラムが人を見ていて、設計者が見ている時はうまく動くのにテスターが見ていると動かなくなるかのようでした。

 ところがこの事象の原因は、意外なところにあったのです。QA部門のテスターは、ロングラン試験中にシステム時刻を1年早めたり1年遅くしたりしていたのです(かつ、そのことを設計者である自分に伝えず、何もしていないのに止まったと報告していました。無知ってコワイ...)。今の実装は違うのかもしれませんが、当時のJavaのTimerとTimerTaskの実装は、タスクが実行された時に次に実行すべき時刻を決めるアルゴリズムになっていたようなのです。例えば10:00にタスクを実行した時に次は10分後の10:10に実行するようスケジューリングされても、システム時刻が1年戻されてしまうと、次のタスク実行は1年と10分後ということになっていたのです。見た目的には、タスクが動かなくなってしまったのです(根気よく1年と10分待っていれば、次回のタスクが実行されたのですが...)。

 QAのテスト担当者がシステム時刻をこっそりいじっているなんて夢にも思わなかった自分は、ログを見ても「時分秒」のところに注目してしまって途中で「年」が変わっていることに気づかず、なかなか原因究明ができなかったのです。最終的には、システム時刻が大きく変えられたことを検出した場合はTimerとTimerTaskを作り直すような対策を施したわけですが、アプリケーションレベルで問題ないと思っていたプログラムが実行環境の実装によっては問題を引き起こす場合があり、システムの時刻を変えるというのはコンピュータシステムにものすごく大きなインパクトを与えるのです。

 単に今年の猛暑から「日本の猛暑は選手がかわいそうや。せや、スタートを2時間ほど早めたろ」的な発想をしただけだったら、悪いことは言いません。日本を沈没させるかもしれない大博打はやめときなさい。サマータイムを導入すること自体には反対しませんが、やるならやるで、何年も前から周到な準備をしたうえでなければなりません。わざわざ日本という国家の存亡を賭けてまで、サマータイムを導入しなくていいじゃないですか。2時間早起きじゃダメなんですか。

2018年8月8日水曜日

思わず目を疑ってしまうムンカー錯視

この円すべてがどれも同じ色だと!?色の同化や対比で違った色に見える「ムンカー錯視」の新作

 今回は軽い話題ではありますが、「ムンカー錯視」という目の錯覚に関するものです。元記事はカラパイヤのもので、実はすべての円が同じ色であるにも関わらず、目の錯覚で違った色に見えてしまうという絵です(↓)。


 自分も初めてこの絵を見たときは、スマホの小さい画面だったからか、赤っぽい円・黄色っぽい円・オレンジっぽい円・ピンクっぽい円の4種類くらいの色に見えました。しかし、実はぜーんぶ同じ色。大きめのディスプレイを使って絵を拡大して見ると、黄色っぽい色の一色しかないことが分かると思います。

 実はコレ、ムンカー錯視と言われる種類の目の錯覚で、周りの色から同じ色あいの色に誘導される「色の同化」と、反対の色あいに誘導される「色の対比」によって、「違って見える」と考えられています。最後に、元記事でも紹介されている、ムンカー錯視の効果がよく分かる動画をご覧ください(↓)。コレはさすがに全然違うじゃない...と見えます...が、コレも実は...


2018年8月7日火曜日

クロールのバタ足は無駄だった!?

Effect of leg kick on active drag in front-crawl swimming: Comparison of whole stroke and arms-only stroke during front-crawl and the streamlined position

 今回は、今まで常識だと思っていたことが実は違っていたというお話。夏真っ盛りのこの季節、プールや海で泳ぐこともあると思いますが、クロールで早く泳ごうとしたときに自分は一生懸命バタ足していましたが、実は無駄どころかかえって遅くしていただけかもしれないというのです。元記事は、Journal of Biomechanicsに寄稿された、Kenzo Narita, Motomu Nakashima, Hideki Takagi氏による論文記事です。


 クロールのバタ足は下半身を持ち上げて水平に近い姿勢をとるために必要で、水の抵抗を減らしたり推進力を得るためことに貢献していると考えられてきました。しかし、バタ足は腕で水を掻く動作と連動しますので、水を掻く回数を増やすとバタ足のキックも増えます。論文における実験は、ワイヤを付けた水泳選手が水槽内で①腕と足で泳ぐ②腕だけで泳ぐ③体をまっすぐに伸ばすの3パターンで泳ぎ、水の抵抗力を計測したものです。

 その結果、かなり遅い秒速1.1メートル(100m換算90.91秒)ではバタ足が推進力になるものの、少し早めの秒速1.3メートル(100m換算で76.92秒)以上では、足の動きが水の流れを妨げ抵抗が速度の3乗に比例して大きくなっていったとのこと。100m自由形の世界記録は、オーストラリアのイーモン・サリバンが北京五輪で出した47.05秒。小学生の日本記録でも54秒台後半ですので、ダイエットやリハビリ目的の水泳ならいざ知らず、競技水泳の世界ではバタ足はむしろ水の抵抗を大きくしてしまう傾向があるというわけです。

 これまでクロールは腕で水を掻く動作とバタ足の両輪で推進力を得るものだと思っていましたが、どうやら腕の動きが支配的だというのが実際のとことのようです。バタ足は上半身の動きに応じて抵抗にならない程度にしておく、というのが科学的な泳ぎ方なのかもしれませんね。

2018年8月6日月曜日

貧しい親には貧しい子しか育たない

貧困家庭の子供が成長してもお金を稼げない本当の理由

 今回の話題は、子どもを持つ親として信じたくないことですが、親が貧しければ子どもも貧しくなるという話題です。いわゆる貧困の連鎖と言ってもいいかもしれません。以前、親の学歴が子どもに影響するとか遺伝と家庭環境が子どもの学業の大部分を決める、あるいは親が貧しいと勉強で不利だという記事を書きましたが、その延長線上のようなイメージでしょうか。元記事は、松原麻依氏によるDiamondオンラインの記事です。

 松原氏が言われているのは「文化資本」という考え方です。文化資本というのは、いわゆる金銭などの経済資本とは異なる、個人的な資本というものがあるという考え方です。文化資本について、フランスの社会学者ピエール・ブルデュー氏は「身体化された文化資本」「客体化された文化資本」「制度化された文化資本」という3種類に分類しています。身体化された文化資本というのは、仕草や立ち振る舞いあるいは知識や技能など、その人の身体に染み付いているものを指します。「客体化された文化資本」は美術品や書籍などの物、「制度化された文化資本」とは学歴などを言います。そして、経済資本がカネそのものかカネと交換できるものを指しますが、文化資本というのはカネを稼ぐ力と密接に関わるのです。

 しかし、親に教養や学歴がなくたって、子供が一生懸命それらを身に付けてカネを稼ぐようになることは十分に可能だと思いませんか。自分も我が子にはそうあって欲しいところですが、現実はそんなに甘くないようです。ブルデュー氏は、経済資本と同じように文化資本も親から子へと受け継がれていくと言います。例外的に宝くじに当たったとか事業で一山当てた成金という人もいるでしょうが、何代にも渡って財を成してきた人とは子ども・孫へと繋がる経済的繁栄には大きな違いがありそうです。

 文化資本が親から子へと受け継がれていくことを「文化的再生産」と言うのですが、それは家庭環境が最も大きな影響を与えます。幼少期に、いつでも本が読める環境だったか、音楽や美術に日常的に触れることができたか、マナーを求められるような場所で食事した経験はどれ程あったか。そういった家庭内での経験によって、親から子へと受け継がれるのが文化資本なのです。よく「親の背を見て子は育つ」なんて言いますが、親が本を読んだり勉強したりする姿を見せる、学問的な議論を子供と戦わせる、美術や音楽を子供と一緒に楽しむ、そう言う姿を見せることで子どもに伝わっていくのでしょう。

 そして、ライターでコラムニストの北条かや氏は、その人が文化資本的なものに価値を見出すかどうかは、属しているコミュニティに影響を受けやすい、と話しています。富裕層のコミュニティは文化資本に価値を見出す傾向が強く、対して貧困層・ヤンキー層はそういったものに価値を見出さず目先のカネに汲々としている傾向があります。平たく言うと、ヤンキーとお坊ちゃんがいたとして、学校ではヤンキーがスクールカーストの上位にいる場合もありますが、社会ではむしろ底辺になり下がるのに対して、お坊ちゃんは高い文化資本を有し、社会では高い階層と経済的な有利を手にするのです。

 社会学の階層調査においては、親から子・子から孫へと年代を重ねるごとに親の地位が再生産されやすくなっていると分かっています。つまり、成り上がりとか身一つで階級間を逆転するというのは、世代を経るごとに難しくなり、それはすなわち、経済格差が固定化されるということに他なりません。つまり、文化資本の格差が経済資本の格差を産み、格差は埋まるどころかどんどん広がっていくということです。

 社会人として評価される、コミュニケーション能力、マナーや作法、お金の管理能力、机に長時間座っていられるような持久力、そういったものもすべて文化資本です。そして重要なことですが、社会システムは文化資本を持っている人が有利に、持っていない人は割を食うようになっています。階級上位の人たちはそのことを知っているので、我が子には家庭環境や学校教育を通じて文化資本を身につけさせます。一方で、その重要性を知らない貧困層は、社会が悪いと言って暴れたりお酒で現実逃避したりする子どもが育ってしまいます。子どもを持つ親としては、勉強ができる・学歴があるといった文化資本を持つことのパワーを謙虚に受け止め、我が子には負のループを抜け出せるよう援助したいものですね。

2018年8月3日金曜日

年収重視女と容姿重視男が結婚できないワケ

収入重視女と容姿重視男に未婚が多いワケ

 今回は、東洋経済オンラインの荒川和久氏の記事を元に、結婚におけるミスマッチを考えてみようと思います。荒川氏は、ソロもんLABOリーダーそして独身研究家という珍しい肩書きをお持ちで、この山ちゃんウェブログでは、これまでも「『結婚しない男』急増は『やせ我慢』が理由?」「40代独身者が「幸せになれない」根本原因 | ソロモンの時代―結婚しない人々の実像―」といった記事を取り上げさせて頂いてきました。

 荒川氏の記事で言われているのは、いわゆる「婚活」の現場では、男女のマッチングにかなり希望のミスマッチが起きているのだそうです。昔から女性が結婚相手に求める大きな条件に「経済力」がありますが、結婚式情報検索サイト「ぐるなびウエディング」が2018年6月に発表した最新婚活事情調査によれば、女性が結婚相手に求める理想の年収は「400~500万円未満」が19.4%で最も多く、400万円以上と答えた女性の合計は68.9%にものぼります。男性が結婚の市場で女性に選んでもらえるためには、年収400万円というのが一つの目安と考えてもいいかもしれません。

 実は、つい先日「幸せのお値段、たった1,055万円」という記事で、収入は多いほど幸福感が増しますが、それが頭打ちになるのが年収1,055万円だと書きました。80年代のバブル期など、3高(高学歴・高収入・高身長)なんて言って、1,000万円を超える年収を求めた女性も多かったのですが、現代女性が求めるのは、はるかに妥協した400万円なのです。バブル期に高望みした女性が結婚できていない現実を見て、女性側はずっと希望レベルを下げているんだと思います。

 しかし実際に未婚男性の年収分布を見てみると(↓)、未婚男性のうち年収400万円を超える人はわずか25%です。結婚適齢期と言われる20~30代の若い世代に限定するとさらに少なく14%です。結婚市場では、7割もの女性が、わずか14%しかいない年収400万円以上の男性を奪い合うことになり、半数以上の女性はマッチングれないことになるのです。


 男性側にも大きなミスマッチがあります。それは結婚相手に求める容姿です。なかなか容姿を数値化することはできないのですが、荒川氏が「モテ要素」という指数を作られており、それは容姿のよさ(自己評価で「容姿に自信がある」)に過去の「付き合った異性がいた」「異性から告白されたことがある」などの要素を加味した数値で、この数値である程度代用できるでしょう(↓)。いわゆる「モテる」人は、男性は26%、女性は31%います。グラフは年収別になっていますが、実は年収が多いことと「モテ要素」の数値にはあまり関連がなく、男女とも全体のおよそ3割が「モテる」人というのが荒川氏の長年の研究結果なのだそうです。


 そして、結婚相手の条件として「容姿」を重視するのは、男性は77%、女性は50%です(↓)。男性の方が相手の容姿を重視する傾向があり、かつ年収が高い男性ほどその傾向が強いのです。「トロフィーワイフの心理」と言って、カネを稼いだ男は美人と付き合いたがる傾向が現れているのかもしれません。ただ、女性は逆に自分の年収が高い人ほど、相手男性に容姿を求めない傾向があり、男性と女性で逆の傾向になるのは面白いですね。


 しかし、男性の8割近くが容姿重視だとしても、「モテる(≒容姿のいい)」女性は全体で3割しかないわけで、5割の男性は希望が叶いません。もちろん、容姿のよさというのは絶対的なものではなく個人の感覚ではありますが。

 つまり現代の結婚市場では、女性が男性に求める年収と実際の男性の年収には大きなミスマッチがあり、一方で男性が女性に求める容姿にも大きなミスマッチがあるということになるのです。女性側はおそらく妥協してストライクゾーンを広げているつもりですが、現実との乖離はまだまだ大きいというのが現実でしょう。男性は、能天気に本能のままに美人を追いかける傾向があるのかもしれません。年収重視の女性と容姿重視の男性。需要と供給のバランスからいえば、少ない相手を多くのライバルと奪い合うのですから、結婚できない人が多いと言われるのもわかる気がしますよね。

2018年8月1日水曜日

Webサイトは爆速こそ正義

Making dev.to Incredibly fast

 この山ちゃんウェブログはGoogleのBloggerというサービスを利用しているのですが、Googleのサービスだけあって表示速度は比較的早い方だと思います。しかし、世の中にはとんでもなく表示速度が速いWebサイトが存在します。今回はそんな話題を、Ben Halpern氏の記事からご紹介したいと思います。

 まずは、こちらのサイトを開いてみて下さい(スピードだけ体感したら、もう一度戻ってきて下さいね)。むしろ不安になるくらいすぐに表示されませんでしたか。


 実は自分もメーカーの開発者として、SaaS(Software as a Service)型システムのWeb画面の設計開発を行なったことがありますが、表示速度については特段の注意と労力を払いました。というのも、一般的なWebサイトを表示するときでも、ユーザーが待てる限界は3秒程度だと言われています。これより時間がかかるサイトは、57%のユーザーは待ちきれずに諦めてしまうという記事もあります。しかし、自分のところが扱うようなIoT(Internet of Things)系のSaaSは、エッジデバイスと呼ばれる現場系の装置類はネットワークも遅く性能も低いので、せめてクラウド側のWebサーバーでスピードを稼がなければなりません。CSSを工夫したりキャッシュを工夫したり、色々なことをしてWebサーバーを研ぎ澄ませましたが、このdev.toほどのスピードには遠く及びませんでした。

 dev.toの創設者であるHalpern氏によれば、米Fastlyが提供するCDN(Content Delivery Network)を活用しているのだそうです。CDNは、世界中にキャッシュサーバを分散配置して、ユーザーに一番近い(ネットワーク的に)キャッシュサーバからコンテンツを配信します。またコンテンツそのものも、外部CSSリクエスト、カスタムフォント、JavaScriptなど、レンダリングをブロックしているスタイル・スクリプトを削除して、レンダリング時間を短縮しています。他にも、画像管理クラウドサービス「Cloudinary」を使って画像の圧縮を最適化し、ブラウザごとにもっとも高速に表示できる画像フォーマット(Google Chromeならwebp形式、Safariならjpeg形式など)を選んでいるのだとか。

 Webサイトは、いくら綺麗な映像や使いやすいUI(User Interface)でも、表示速度が遅ければ台無しです。スピードこそ最重要のユーザーエクスペリエンス。爆速こそ正義。dev.toを開いてみると、ホントそう思います。

2018年7月30日月曜日

幸せのお値段、たった1,055万円

Happiness, income satiation and turning points around the world

 今回の話題はなんとも下世話ですが、幸せはカネで買えるのか。そしてカネで買えるとしたら、それはいくらなのかという話題です。最初の命題「カネで買えるのか買えないのか」については賛否両論ありますが、ここでは一旦カネで買えるものと仮定します。あるいはカネで買えるレベルの生活満足度と考えてもいいでしょう。元にしているのは、Purdue UniversityのAndrew T. Jebb氏、Louis Tay氏、Ed Diener氏、Shigehiro Oishi氏による論文記事です。

 ここに33歳の未婚の女性が3人いるとします。Aさんは年収4万ドル(日本円で444万円)、Bさんは年収12万ドル(1,333万円)、Cさんは年収20万ドル(2,221万円)です。Aさん・Bさん・Cさんのうち、一体誰が一番幸せでしょうか。4氏の研究によれば、AさんよりもBさん・Cさんの方が幸せを感じる傾向が強いそうです。しかし、一方でCさんがBさんよりも幸せというわけではありません。

 基本的には年収は多ければ多いほど幸福度も上がるのですが、ある一定の金額で頭打ちになるのです。この頭打ちになる金額は収入の「飽和点」と呼ばれます(↓)。単純に右肩上がりにならず頭打ちの飽和点ができる(いやむしろ徐々に幸福度が下がってしまう)のは、高収入な人ほど拘束時間が長かったりストレスが多い仕事に従事していることが多く、趣味や余暇の過ごし方で得られる幸福が少ないのかも知れません。


 そして「飽和点」は地域や性別などによって異なるのですが、グローバルでは9.5万ドル(1,055万円)という研究結果が出ています(↓)。つまり、幸せをカネで買おうとしたとき(カネで買えるレベルの生活満足度を完全に満たすには)、その値段は9.5万ドル(1,055万円)と言えるかもしれません。


 地域別に少し細かく見ていくと、オーストラリアとニュージーランドは12.5万(1,388万円)、中東と北アフリカは11.5万ドル(1,277万円)もないと幸せを買えないのに対し、アフリカでは4万ドル(444万円)、ラテンアメリカとカリブ海周辺は3.5ドル(389万円)とお得になっています。また性別では、男性が9万ドル(1,000万円)に対して女性の方が10万ドル(1,110万円)と少し高めなのも面白いですよね。研究チームの解釈は、男性はカネだけでなく仕事の成果や社会的地位に幸せを感じる分、カネに関しては女性より少ない金額で満足するのではないかと分析しています。

 もちろん、ことはそう単純ではありません。例えば、インディアナ大学のダン・サックス助教授は「画期的な研究だが、これだけで幸福と年収の関わりについて判断できない」と言われています。幸福感という尺度は非常に個人的で曖昧なものですし、別の研究では、年収の高い人は低い人よりも自らを過小評価する傾向も見られるそうです。そもそも、幸せはカネで買えない、プライスレスだと主張される方もいるでしょう。

 しかし、自らを幸せだと言えるためには、ある程度のカネが必要だということも紛れもない事実です。そして、カネで買えるレベルの生活満足度という意味で「幸せ」を捉えたとき、年収9.5万ドル(1,055万円)がひとつの目安になるということです。カネで買える「幸せ」の頂点は手の届かない高みにあるわけではなく、億万長者にならなくても彼らと遜色のない幸せが得られるんです。あえてこういう言い方をしますが、年収たった1,055万円で、ジェフ・ベゾスやビルゲイツと同等以上の「幸せ」を手に入れられるのです。

2018年7月29日日曜日

視力をアップさせる検査表

思わず食い入るように見入ってしまう、画期的な男性向け視力検査表

 いきなりですが、あなたは視力はいい方ですか。最近目が悪くなった気がするんだよね、なんていう方もこれなら視力が回復してしまうかもしれないという画期的な視力検査表があります。と言っても、効果があるのは男性諸氏だけ。元記事は、Gigazineのだいぶ古い記事です。

 その視力検査表がこちら(↓)。思わず目を細めてしまったあなた。普段の2割増の視力になったかもしれません。

2018年7月28日土曜日

AIに仕事を奪われた人間は同時に生きがいも奪われるのか

「人間不要社会」でヒトはどう生きるのが正しいのか

 今回のは、この山ちゃんウェブログでよく取り上げる、人工知能(AI)とシンギュラリティの話題です。シンギュラリティというのは、技術的特異点などと訳され、AIの持つ知能の総和が人類の知能の総和を越える時とか、テクノロジーが指数関数的に発展することで、AIやポストヒューマンが人類から文明の主役を奪う時などと定義されています。元記事は現代ビジネスのもので、多様煽りが入ってはいますが、自分は本当にこんな世界が来ると思って備えておいたほうがいいと考えています。

 文明の主役が人類からAIに変わった近未来。元記事ではフィクションですが、あるビジネスマンの日常を描いています。

 朝。目を覚ますのはAIスピーカーから流れて来る女性の優しい声。起床とともに、天気が良い時はIoT化(Internet of Things:あらゆるモノがインターネットに接続された世界)されたカーテンが自動的に開き、太陽の光を取り込んでくれます。天気が悪い時は、やはりIoT化された照明が自動的に点灯します。今日の天気やニュースなどを伝えてくれるAIスピーカーの声を遮り、カーシェアリングの車の手配を依頼します。AIスピーカーが車の到着を知らせてくれると、家の前に止まっている空調の整った車に乗り込みますが、運転そのものは自動運転にお任せです。

 オフィスに到着したら、AIが指示してくる仕事をこなしていくことになります。つまり、経営方針や日常の営業戦略などを立案するのはAIで、経営者や上司・マネージャーといった役割はすでに人間からAIに移りました。AIは我々の表情や体温までも正確に読み取って、リアルタイムで一挙手一投足をマネージメントしてくれます。もちろん書類の作成や経費の計算など事務的な仕事もほとんどAIがこなしてくれるので、人間がやるべき仕事は劇的に減り、「働き方改革」はテクノロジーの進化で自動的に実現されたのです。

 では、オフィスで人間に残された仕事とはどんなものでしょうか。それは、自動運転で運ばれてきた積み荷を社員別の宅配ボックスに入れたり、システムがエラーを起こしたときに修復したり、関係各所に謝罪の電話を入れたりする仕事です。むかし「AIアシスタント」なんて言われた時代がありましたが、AIと人間の立場が逆転した世界では、判断を下したり選択したりするのはAIの役割。アシスタント的な仕事は人間の役割となっています。

 近未来のビジネスマンの日常を少し垣間見ましたが、いかがでしょうか。仕事の中核はAIなので、人間には仕事に「やりがい」「生きがい」のようなものを見いだすのは難しそうです。今のような週5日勤務ではなく、週3日勤務くらいで十分に仕事は成り立っていくでしょう。人間の上司と違って、AIの上司はセクハラやパワハラをすることはないので、今よりストレスも減りそうです。余暇の時間もたっぷり取れそうですから、ジムに通って健康になったり趣味に時間を費やすのもいいでしょう。

 仕事から解放された、夢のような未来。でも、このストーリーに一抹の寂しさを感じるのは自分だけではないはずです。仕事に「やりがい」や「生きがい」を持てなくなった人間は、一体どうなってしまうのでしょうか。モーレツ会社員を続けてきた人が、定年退職後に急に趣味に生きようとしても難しいように、AIに仕事を奪われた人間は、長い人生を単に時間を潰して生き長らえるだけの存在になってしまうのでしょうか。

 そうはならない、と言われるのは哲学者の岡本裕一朗氏です。岡本氏は「フランスの思想家であるドゥルーズは『人間の欲望は多様な方向で常に変化していく』と語っています。欲望が時代とともに変化するように、人間にとっての幸福も時代や社会によって新しく規定されていくことになります」と。しかし、一生懸命仕事をして誰かの役に立ったり豊かさを手に入れたりすることに生きがいを見出す社会から、一体どんな社会になっていくのでしょうか。仕事をAIに奪われた人間は、一体何を生きがいにして生きるようになるのでしょう。

2018年7月25日水曜日

日本人と中国人が相容れないワケ

列に割り込む中国人は、怒られたらどうするか?

 今回の話題は、日本人(的な考え方をする人)と中国人(的な考え方をする人)が互いに理解できないのは、考え方の根本が異なっているからだというお話です。元記事は、日経ビジネスオンラインの田中信彦氏の記事です。

 家族か友人との食事に、中華料理のお店で大皿料理のエビチリを注文したとします。みんなお腹いっぱいですが、お皿にはあと2つほど残っています。2つほど残ったお皿を店員さんは何も言わずに持って行きました。こんなシチュエーションに、ちょっとイラっときませんか。

 また、行列のできる人気ラーメン店に並んでいたとします。そこへ誰かが、あなたの前に平然と横入りしました。見とがめたあなたが注意すると、その人物は、一旦列を離れましたが、あなたの後ろに横入りし直しました。いやいやいや、そうじゃないだろと再び注意するでしょうか。声に出して注意しなくても、少なくともイラっときませんか。

 少し残った食事を勝手に下げられる例も横入りの例も、当たり前のこととして平然としていられる人は、中国人的な考え方の根本を持っている人です。これらに目くじらを立てたくなるのが、日本人的な考え方の根本を持つ人です。ちなみに自分は、典型的な日本人的考え方で、口に出して注意はしないかも知れませんが、かなりイラっとしそうです。

 では、日本人的な考え方の人は、なぜイラッとするのでしょう。残ったエビチリ2個を食べないとお腹が空いてしまうからでしょうか。行列で自分の前に横入りされると、ラーメンを食べるのが遅くなってお腹が空いてしまうからでしょうか。おそらく、お腹いっぱいの状態でエビチリ2個を食べ損なっても、どうせ長い行列で1人分の待ち時間が増えても、あなた自身にとってはあまり現実的な影響はないでしょう。日本人的な考えの人が腹を立てているのは、そこじゃないんです。エビは客がお金を出して買ったものなのだから、店員が客に断りもなくそれを処分するとは何事だ、というのが怒りの元です。横入りの例では、あなたの後ろに横入りしてもあなたの待ち時間は変わりませんが、もっと後ろに並んでいる人に迷惑がかかる行為で、自分さえ良ければいいわけじゃないからです。

 自分にとってだけの合理的な考え方をするなら、どちらの例も大して腹をたてることでもないはずです。現に中国人的な思想の根本を持つ人は、残り2つのエビを持って行かれて文句を言ったり、横入りされて怒りをあらわにする人は少数派です。しかし、日本人的な考え方をする人が腹が立てるのは、「スジが通らないから」です。日本人的な考え方とは「スジ論」です。一方で、自分にとっての影響度だけを合理的に判断しようとする中国人的な考え方は「量(個人への影響度)の論理」です。

 特に、横入りの例が典型的です。あなたの前に横入りした人物はおそらく中国人的な考え方の人で、彼は横入りを咎められた時、こう考えます。ああこの人は急いでいて待ち時間がたった1人分伸びることも許せないんだ、と。それならば、この急いでいる人の後ろに入れば問題ない、と。それなら文句を言われる筋合いはない、と。しかし、日本人的な考え方のあなたは、自分さえ良ければいいわけではありません。再びその人物に注意するかもしれません。しかし彼は、なぜあなたが怒っているのか、全く理解できないでしょう。

 日本人的な考え方の人は、自分だけでなく全体の規範を重視するのに対し、中国人的な考え方の人は、自分だけの合理性を重視します。考え方の根本が異なるのは、様々な理由があるでしょうが、例えば日本は歴史的な経緯もあって、いまだに社会的「連座制」が色濃く残っていることがあるかも知れません。一方で、中国は人口が多すぎるということもあって、コミュニティ全体よりも個人の利益を重視する風潮があるのかも知れません。何れにしても、日本人的なスジ論と中国人的な量(個人への影響度)の理論は、互いに理解し合うのは相当に難しいと言わざるを得なそうです。

2018年7月23日月曜日

過程と結果はどちらが大切なのか

「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる

 今回は、タイトルの結論を最初に言ってしまいますが、結果よりも過程重視でいたいという話題です。元記事はPRESIDENT Onlineの松尾英明氏の記事です。自分は子どもの頃からそう育てられたからかもしれませんが、どちらかと言うと「過程重視」に偏っています。もっと結果にこだわらなければと思う場合もありますが、概ねそれで良かったと思っていて、子育てもそうありたいと思っているところです。そして、元記事で松尾氏も子育ては過程重視であるべきと言われていますので、考え方自体は間違っていなかったんだと心強く思っているところです。

 元記事で問いかけられているのは、子どもが100点満点を取った時に、親として何と声掛けするのがよいかという問題です。皆さんは何と声をかけるでしょうか。
A:100点なんてすごい!おめでとう
B:気を抜かないで、次も頑張ってね
C:よく頑張っていた結果ね

 Aは100点という結果を褒めているので、90点ではダメというメッセージにも受け取れます。Bはもっと悪く、1度の100点ではダメ、継続しないと褒めてやらないぞということになります。いずれも結果主義で、子どもとしては「いい点を取れない自分は価値のない存在だ」と無意識に思い込んでしまい、学年が上がるにつれて100点が取れなくなったとき、糸が「ぷつっ」と切れたように勉強への意欲をなくすのだそうです。

 一方、Cは過程主義で、100点に至る努力を評価しています。Cの声かけの良い点は、「たとえ次が100点でない場合でも成長につなげられる」ということです。結果は良いときも悪いときもあり、本人にはコントロールできないことです。それに対して、それに至る過程は本人がコントロールできる部分です。もちろん過程をしっかり頑張れば、結果も付いてくることも多いでしょう。しかし頑張って勉強しても、結果が出ないこともあるのが世の常です。結果に一喜一憂するのではなく、しっかり準備して良い結果が出る可能性を高めたことを褒めてあげれば、子供は結果にビクビクしなくなるのではないかと思うのです。

 結果重視か過程重視かという話で思い出したのは、今年からシアトルマリナーズの特別補佐に就任したイチロー選手の、結果とプロセスのどちらが大切かというインタビュー記事です。イチロー選手は、プロの野球選手である以上結果が大切なのは間違いないと言われてはいますが、ただもっと重要なこととして次のように言われています。

負けには理由がありますからね。たまたま勝つことはあっても、たまたま負けることはない。
本当の力が備わっていないと思われる状況で何かを成し遂げたときの気持ちと、しっかり力を蓄えて結果を出したときの気持ちは違う。

 最初の松尾氏の記事からは、「結果を出せ!」とか「結果を出さなくてはならない」といった強要やプレッシャーは、かえってマイナスの面が出やすいということが言えそうです。そして、イチロー選手の言葉からは、結果は嘘をつくことがあるが、積み重ねた努力の過程は嘘をつかないと言えるでしょう。結果はたまたま出てしまう場合があります。しかしそこで慢心してしまうと、後が続きません。長く成功し続けるためには、過程を大切にしないといけないということなのです。

 自分たちが子供の頃、日本文化的な発想はまだ色濃く残っていて、過程重視の教育のもとで育ったと思っています。しかし、西洋化とグローバル化が進むにつれ、結果の華やかさに目を奪われるのか、結果重視を掲げる人が増えてきたような気がします。もちろん、結果を軽視しろというわけではありません。しかし、結果にこだわりすぎると、かえって結果が出ないというジレンマも多そうです。むしろ過程を重視して、結果は後からついてくる、くらいになれば一番いいですね。