2018年7月19日木曜日

窓は右側を開けるべし

意外な落とし穴!? 蚊や虫の侵入を防ぐ 網戸・窓の使い方

 今回はちょっと軽めの豆知識ですが、網戸を正しく使うための窓の開け方のお話です。ここのところの猛暑で、窓を開けて網戸をするというよりは、締め切ってエアコンという方が多い気もしますが、秋に備えて少しお付き合いください。元記事はYahoo!ニュースのものです。

 ノイズキャンセル付き窓の記事を書いた時に述べたように、実は自分のマンションは車通りの多い通りに面していて鉄道の駅も近いので、うるさくて窓を開けることはほとんどありませんでした。なので、意外にもこのことを知りませんでした。

 網戸の役割は「風は通すけど虫は通さない」、これに尽きると思います。しかし、正しく窓を使わないと「風も通すけど虫も通す」ということになってしまうのです。その誤った使い方がこちら(↓)。そうです。窓を半開きにしているケースです。一見、窓を全開にするより、虫の侵入が少ないように感じられますが、実はこの使い方はNG。窓と網戸の間にすきまがうまれ、虫が入りやすくなっています。


 正しい使い方は、このように窓を全開にすることです(↓)。網戸と窓のフレーム部分が重なってしっかりと虫の侵入経路を防いでいます。


 窓を全開にするほどじゃないんだよなあという場合、こちらのように半開は半開でも、右側を開けるようにするのです(↓)。こうすれば、網戸と窓のフレーム部分が重なるので虫の侵入を防いでくれます。


 うちもそうですが、ほとんどの窓は構造的に右側を開くようになっていると思います。したがって、全開でも半開でもいいので「窓は右側を開けるべし」と覚えておけば良さそうですね。

2018年7月17日火曜日

社会的連座について考えてみる

なぜ弱きものに優しくあらねばならないのか

 今回はWebマガジン Books&Appsの中から、高須賀氏の記事を元に、いまだ社会にはびこる「社会的連座」について考えてみようと思います。連座というのは、もともと罪を犯した本人だけでなくその家族などに刑罰を及ぼすことを言い、例えばクラスの1人の子どものいたずらでクラス全員が罰走になるというのもある意味で連座です。連帯責任という言い方をされる場合もあります。ここでは、「社会的な」連座、例えばある人が罪を犯した時にその家族や同じ組織に属する人まで社会から責められるということを言おうとしています。

 例えば、元記事でも取り上げられている秋葉原通り魔事件。2008年6月8日東京の秋葉原で、加藤智大被告がトラックトラックで歩行者5人をはねただけでなく、被害者の救護にかけつけた通行人・警察官ら17人をダガーナイフで立て続けに殺傷した事件です。事件から10年が経ちますが、画面に映し出された鮮烈で残酷な光景はいまだに記憶に残っている人も多いでしょう。しかし、事件はそれだけではありません。事件から6年近くが経った2014年、加藤被告の実弟は自らその命を絶ちました。実弟の手記からは、マスコミをはじめ社会が加害者家族を責め立て、やがて自殺にまで追い込んだ様子が見て取れます。犯罪者家族には人権などないとでも言わんばかりに、社会・マスコミは加害者家族がどこに引っ越しても執拗に追いかけ責め続けたのです。

 他にも、女優・高畑敦子氏の長男で、当時俳優だった高畑裕太被告が起こした性的暴行事件が思い出されます。2016年8月23日、前橋市内のビジネスホテルのフロント係Aさんが、映画の撮影のためホテルに宿泊していた裕太被告に性的暴行を受けたという事件です。すでに成人している裕太被告が起こした事件に、社会・マスコミは母親である敦子氏を責め立て、ついには女優としての仕事は激減したと言われています。

 2つの事件で思い知らされるのは、何も悪いことをしていなかったとしても、社会は犯罪者に関わりのある人間を許さないということです。加害者の家族だというだけで、人生が壊されるという、露骨な差別が行なわれているのが現実なのです。

 思えば、日本には古代律令制の時代から五保制(五保の制)というのがありました。保長が責任者となって相互扶助・治安や徴税などに関して連帯責任を負わされたもので、秦の商鞅が定めた什伍に元にした、唐の隣保の影響を受けた制度と言われています。つまり、遥か昔、しかも日本だけでなく中国でも連座というのは存在していたのです。犯罪を犯した者、年貢を納めず逃げた者、そんな者はすでに逃亡していたり逮捕されていたりして、人々の怒りの向け先がなくなってしまう。下手したら、社会不安や為政者に対する不満に繋がるかもしれない。為政者の地位を脅かす元になりますので、怒りの矛先を作るために連座が作られ、長い間有効に機能してきたのでしょう。家族など親族に対する連座は特に「縁座」と呼ばれ、ここで言う連帯責任の「連座」と区別されることがありますが、現代日本でいまだに「社会的縁座」「社会的連座」と姿を変えて残っていると言えそうです。

 じゃあヨーロッパなどでも連座というのはあったのでしょうか。自殺を重罪とするキリスト教社会の中世ヨーロッパでは、自殺者の死体が燃やされた上で引き回されるだけでなく遺族も処罰されたとか、魔女狩りにおいて火刑に処せられた者の子供も鞭打ちに処せられた例があるそうですので、ヨーロッパにも古くからあった考え方なのでしょう。ただ直感的には、現代においては日本ほど根強く残っていないような気もします。例えば、ある飲食店で店員がお客さんの財布を盗んだとします。日本だと、お店の責任者も社会的連座でお客さんに謝罪することが多いでしょう。一方でヨーロッパでは、犯人はその店員であってお店も迷惑を被った被害者なのだから、お店は謝らないことが多いという違いがあります。ヨーロッパにも歴史的には連座はあったものの、現代にも社会的連座として強く残っているのは、どうやら日本のようです。

 ただ日本人的感覚として、社会的連座が全くないというのも違和感がないでしょうか。先の、飲食店で店員が財布を盗んだ時にお店側も被害者ヅラするのは、なんだかしっくりきません。他にも例えば昨年、日産自動車が新車の完成検査を資格のない従業員に行わせ、提出書類上は有資格者が担当したと偽装した事件がありました。神戸製鋼所が強度などの性能データを改ざんしした事件もありました。例えば、これらが経営者の指示でなく、従業員が勝手に行なったことだったとします。経営者が記者会見で「いやぁうちも迷惑被っているんですよ、あいつが勝手にやったんでしてね」なんて言ったらどうなるか、火を見るより明らかですよね。政治家の秘書が収賄事件を起こした時、政治家自身が「私も迷惑なんですよ。あいつが勝手にやったことでして」と言ったら、どうなるか。せめて「監督不行き届きで、私の不徳の致すところです」くらい言って頭を下げるくらいしないと、納得しないでしょう。

 社会的連座。概ね無い方がいいと言えるでしょうが、全く無ければ無いで変な気もします。皆さんはどう考えるでしょうか。

2018年7月16日月曜日

もはや標準世帯は少数派。有業者ゼロ世帯こそ多数派という時代

総世帯数の5%にも満たない「標準世帯」

 あなたの世帯の人員構成はどんな感じでしょうか。自分の場合は、自分とオクさんは共働き、小学校3年生の長男と保育園の年中組の長女という4人家族の構成です。今回の話題は、「標準世帯」と言われる「夫が働いて収入を得て、妻は専業主婦、子どもは2人の4人世帯」というのは、もはや少数派になってしまっているという話題で、元記事は大和総研ビジネス・イノベーションの是枝俊悟氏のものです。

 テレビや新聞などで、家計とか税金関係・社会保障などの計算する上のモデルケースとされる「標準世帯」。自分たちが子供の頃は実感的にも、シングルインカムで2人の子どもという家庭は多かった印象です。実際、1974年はこの標準世帯というのは世帯構成の中で最も多いケースで、総世帯の14.56%もがこの構成です(↓)。そこから時代が下って、昭和も終わろうかという1988年には標準世帯は2位(9.67%)に、直近の2017年にはランク外と言えそうな9位(4.60%)に下がっています。代わって多くなっているのが、1人世帯です。それも、1988年には有業の1人世帯がトップ(15.78%)だったのに対して、2017年には無業の1人世帯(16.95%)がトップで有業の1人世帯(15.65%)と合わせれば、10世帯のうち3世帯もが1人世帯ということになります。


 他のデータを見ても、1人世帯や2人世帯がどんどん増える一方で、4人・5人といった人数の世帯は減少傾向が止まりません(↓)。


 その一方で、例えば「制度改正の家計への影響」といった議論がされる時、相変わらず標準世帯をモデルケースとして議論されたり報道されたりしています。是枝氏はご自身がレポートを作る側の方ですので、自戒が必要だと述べておられますが、自分としては画一的に世帯を捉える時代はとっくに終わっているんじゃないかと思うのです。

 なんとなく全世帯を代表させる形で「標準世帯」というものを定義し、その標準世帯に与える影響を考察するだけで済んでいた時代ではなくなり、個別議論が必要な時代。例えば最初の図で、1974年・1988年・2017年のトップ3を見ると、1988年までは有業者が1人以上の世帯がトップ3を全て占めていたにも関わらず、2017年の1位と3位は有業者はゼロなのです。お年寄りの1人暮らしやご夫婦の世帯が、グッと増えているのかもしれません。つまり、少なくとも有業者ゼロの少人数世帯は、標準世帯とは別にモデルケースとして考慮すべき時代はとっくに来ているんだろうと思います。

2018年7月14日土曜日

スマホ全盛時代は意外に短いかも知れない

「5G通信の超爆速社会ではスマホが不要になる」は本当か

 今回の話題は、来るべき5G通信で一体社会はどう変わるかというもので、元記事は現代ビジネスの小林啓倫氏の記事です。5G通信というのは、次世代無線通信システムで現在の4Gの次の世代という意味で、5th Generationです。例えばNTTドコモは、2020年のサービス提供を目指しているそうで、もうすぐ我々の手に届くようになりそうです。

 思えば最近のテクノロジーの発展は、通信技術それも無線通信技術が大きく牽引してきました。自分が初めてのスマホiPhoneを買ったのはたしか2010年。iPhone4の時代で、まだまだ無線通信規格は3Gでした。3Gの通信速度の最大値は14.4Mbpsですから、今と違ってWebサイトの表示にも時間が掛かったものでした。次に登場した4G(現在も自分のiPhoneXは4G通信ですが)は、最大速度が150Mbpsですので、通信代さえ許せば外出先でYouTubeの動画でさえも見られます。そして次の5Gでは一体どうなるのか。5Gの通信速度は4Gの100倍とも言われていますので、社会が大きく変わる可能性に期待が膨らみます。

 5Gで期待されるのは、速度だけではありません。密かに期待するのは、同時接続数の増加で、1平方キロメートル内で100万台の接続を可能とすることが目指されています。自分もその業界の片隅にいる「IoT(Internet of Things)」では、さまざまなモノがインターネットにつながって情報をやり取りします。すでに200億台ほどのIoTデバイスがインターネットに繋がっていて、それは40億人と言われるネットユーザーの実に5倍です。この後もこの差はどんどん開いていくことと予想されます。総務省の2016年の「電波政策2020懇談会」では、「工場・製造・オフィス」や「建設・土木」「農林水産業」といった分野で、5Gによるプロセス全体の自動化が実現可能になるという話もあります。

 他にも、VR(バーチャルリアリティ)の発展や、デジタルサイネージやウェアラブル端末を通じて運動を管理・計画したり、冷蔵庫が自動で中身を判断してレシピを提案したりといった世界が予想されています。私たちは、電話がスマートになったら便利になることを経験済みです。家電や家具・衣服など身の回りのあらゆるものがスマートになったら、一体どんな便利な社会になるのでしょうか。

 逆説的かもしれませんが、5Gが当たり前の世界はスマートフォンが要らなくなる世界かもしれません。つまり情報インプット側のセンサー類はIoTと称してインターネットにつながりますが、その情報がクラウドで加工された後、アウトプットされるデバイスもありとあらゆるデバイスになるかも知れないのです。つまり5Gが発展した社会とは「社会全体がロボット化した社会」かも知れないのです。もはや、個人が端末を持つ必要がなく、行く先々で、AIにつながったスマートなモノたちが私たちをサポートしてくれるというわけです。

 家というものの将来を考えた時、家事ロボットがお風呂を沸かしたり料理してくれたりするのではなく、家全体がスマートハウスとなって、さしずめスマートお風呂・スマート冷蔵庫・スマートオーブンなどが家事をこなしてくれる世の中に向かっています。他にも、昔流行った「ユビキタスコンピューティング」。コンピュータがいたる所に存在していつでもどこでも使える状態を言いましたが、5Gになってこそ陽の目を見るのではないでしょうか。最近ですと、iPhoneのFaceIDなど手を触れることもなく見るだけで認証されるデバイスも増えていますので、もう少し先には「アンコンシャスセキュリティ」なんて言われた、全く意識することなく行く先々でデバイスたちに認証され、その人にパーソナライズされた情報が提供される。そんな世の中になってもおかしくないでしょう。わざわざ個人の専用端末を持ち運ぶなんてスマートじゃない、なんて言われる世の中が来るかも知れません。

2018年7月12日木曜日

人間になりきるAIとAIになりきる人間

Human labor is propping up some companies’ fake AI software

 今回はこの山ちゃんウェブログでよく取り上げている人工知能(AI)ネタですが、元記事はMIT Technology ReviewにおけるErin Winick氏の投稿記事です。

 最近Google HomeやAmazon Echoのようなスマートスピーカーが流行っていますが、人間がしゃべる言葉をAIに解析させることで、「キーボード」「マウス」「タッチパネル」と続いてきたコンピュータインタフェースを、次の段階である「声」に移行しようという革新的なものです。まだ "OK Google!" とか "Alexa!" のようなキーワードが不自然で、命令も自然な会話というよりは少し窮屈な言葉が必要ですが、そのうち人間と区別がつかないほどの会話相手になって行くだろうと期待が膨らみます。他にも、DeepMind社のAlphaGoがもはや囲碁の世界では人間の敵なしになったとか、トレーダーの仕事がごっそりAIに持って行かれたとか、AIの最先端技術の勢いはとどまるところを知りません。

 遅ればせながら自分が務める電機メーカーでも「AIを使用したIoTデータ解析」なんてソリューションを提案したりしていますが、実際のところ、その技術の内幕が自分にはイマイチわかっていません。AIのことがもっと分かっていないお客さんからすると、何だかスゴいことをしてくれそうな提案に思えます。Winick氏の記事は、そんな我が社のような会社が他にもあって、人間にAIのフリをさせているケースがあるという指摘なのです。

 よく考えれば、AIの開発には莫大なコストが掛かります。AI開発の急先鋒であるAmazonは160億ドル、Alphabet(Googleの親会社)は139億ドルもの研究開発費を投じているというデータもあります。正直言って、多くの企業にとって、そんな莫大な費用をAI開発に掛けられないんじゃないでしょうか。中小ながらも技術系として知られる日本企業として、全くAIは分かりませんとも言えない。一方でそんな莫大な研究開発費を掛けることもできない。そんな我が社と同じような境遇の企業には、悪魔の誘惑があると思うのです。(我が社の名誉のために言っておきますが、もちろん我が社は悪魔の誘惑に負けてはおりません。念のため)

 そう...人間にAIのフリをさせようという作戦です。いかにもAIがスマートに解決したかのように見せて、裏では人海戦術で必死にデータ解析をする。そんな悪魔の誘惑に負けてしまった企業があるというのが、Erin Winick氏の記事で言われていることなのです。例えば、経費レポートを作成するアプリ「Expensify」は、アマゾンのクラウドソーシング「Mechanical Turk」にレシート画像を投稿し、人海戦術で画像に含まれているデータを入力させていたのです。ちなみに、同社は独自のSmartScanソフトを使って作業していたと主張していましたが、人海戦術であることに違いはありません。もちろんかなりの人件費が掛かりますが、それでもAIをイチから開発することに比べればずっと安いはずです。

 何だか面白いと思いませんか。AIの開発者はAIをどんどん人間に近づけようと躍起になっていますが、一方ではAIのフリをする人間がいるというこの皮肉。純粋にコストベースで考えるとAI開発よりも人件費の方が安いからこういうことが起きるのですが、何だか人間の価値がAIより下になってしまったかのようで、悲しい気もします。

 そう言えば以前に、大阪大学の「リプリーQ2」や@mojeyuka氏の「Saya」など、アンドロイドやCGを人間と見まごうばかりにしようというテクノロジーの記事を書きましたが、一方でアンドロイドになりきる美女もいるという記事も書きました。人間とAI。人間とアンドロイド。その垣根がどんどん下がってきているのかも知れないと思うと、何だか背筋が寒くなってしまいます。

2018年7月10日火曜日

ハンドスピナーの次はThinking Eggだ

忙しい日常生活の中で自分だけの時間を取り戻す癒しツール。Thinking Egg

 この山ちゃんウェブログでは商品紹介をすることは滅多にないのですが、なんと二回連続の商品紹介。自分にとって報酬をもらえるわけでもない商品紹介なのですが、ハンドスピナーの次はコレというやつを見つけたので、コレが流行った時に真っ先に見つけていたよと言えるために、ここで紹介しておこうかと思います。

 ハンドスピナーはキッズを中心に2016年くらいから流行りましたが、次にクルのはこの卵型アイテム「Thinking Egg」じゃないかと。「Makuake」でクラウドファンディングを実施しております。ストレスを感じる時、イライラしている時、ついつい指先で机の上をトントンとやっていたり両手を何度も組み替えたりなど、指先が落ち着かないものです。そんな時に触って心を落ち着かせようというアイテムが、このThinking Eggです(↓)。


 仕事や家事・育児に追われる日々、TwitterやLINEも事あるごとにあなたを振り向かせようとしますし、スマホでの情報収集も欠かせません。もちろんリアルな人付き合いも必要で、息つく暇もないという毎日を送っている人は多いのではないかと思います。そんな忙しい現代人に束の間のひとときを与えてくれるというのが、このThinking Egg。ちょっと一息という時間にThinking Eggを手に取り、その手触りと重みを感じることで、あなただけの「考える時間」を作ってくれます。こんな風にコロコロと転がしても構いません(↓)。


 それだけのものに1個1,980円もお金を出すかな、と思うかもしれません。しかし、あのハンドスピナーも単にクルクルと手の中で回すだけのものに、キッズだけでなく大人も夢中になりませんでしたか。ハンドスピナーの次は、「考える卵」。コレじゃないかと思うわけです。

 ちなみに、素材も重さも違う4種類が展開されています(↓)。銅と亜鉛を含有すBRASSは、25.5gと少し重めで「活力」をキーワードにしています。Pineは2.8gと非常に軽く、「集中力」をつかさどります。Howliteはちょうどいい11.3gで「安定」を、そしてLavaは8.5gで「力強さ」というキーワードです。大きさの情報がありませんが、見たところウズラの卵くらい。手持ち無沙汰な時のお供におひとついかがでしょう。

2018年7月9日月曜日

ノイズキャンセル機能つきの「窓」はいかが?

Noise cancelling device by NTU scientists halves noise pollution through open windows

 今回は自分が「コレ欲しい!」と思ったテクノロジーをご紹介します。元記事は、シンガポールのNanyang Technological Universityが発表した「ノイズキャンセル機能つき『窓』」の技術発表記事です。

 少し高級なヘッドホンやイヤホンのなかに、ノイズキャンセル機能付きというものがあります。通勤時に電車の中で音楽を聴くという自分のような人には、ノイズキャンセル機能はとても重宝します。音質そのものよりも、電車や線路の音などの雑音が入らないことの方が音楽に没頭できるというわけです。実は、自分もDENONのAH-GC20というノイズキャンセル機能付き・Bluetoothワイヤレス接続のヘッドホンを使っています。「アクティブノイズキャンセル」と呼ばれる技術の仕組みは、集音マイクで拾った外部ノイズの逆位相の信号を作り出し、ノイズとぶつけ合うことで相殺させてしまうという方法で、毒をもって毒を制すというわけではありませんが、音を使って音を消してしまうという面白い技術です。

 今回ご紹介するNanyang Technological Universityから発表されたノイズキャンセル機能つき「窓」も技術的には同じ仕組みです(↓)。同大学の発表によれば、最大50%のノイズを軽減できるのだとか。


 例えば自分の家は、車通りの多い通りに面していて鉄道の駅も近いので、うるさくて窓を開けておくことができません。遮音性の高い窓を閉めて、室温はエアコンで調節しています。もしこのノイズキャンセル機能付き「窓」が実用化されたら。自分のような環境の人は、真っ先に購入するんじゃないでしょうか。窓を全開にして、外を電車が走ったりトラックが走ったりしているのを見ながら、静かに読書したり音楽聴いたり。近い将来、都市部でそんな不思議な光景が見られるかもしれません。あ。騒音の次は、排気ガスとかの問題もありますが。

2018年7月7日土曜日

AKB48の祖先、RUK48の選抜総選挙とは

明治期のスカイツリー、浅草「凌雲閣」 経営危機を救ったアイドル総選挙

 先日行われた第10回AKB48選抜総選挙は、SKE48の松井珠理奈さんが見事に一位の栄冠を勝ち取りました。今回の話題は、AKBではなくRUKです。とは言っても、もちろん現実のアイドルグループにそんなグループなく、RUK48はこの山ちゃんウェブログにおける架空のグループですが。RUKとは、「凌雲閣(りょううんかく)」のこと。元記事は、最近のお気に入りのTHE PAGEから、大阪学院大学経済学部教授の森田健司氏によるものです。

 さて、さしずめ明治時代のスカイツリーとでも呼べそうな「凌雲閣」ですが、1890(明治23)年11月に東京浅草に開業。その高さ52メートルです。え? 東京タワー333メートルやスカイツリーの634メートルに比べると、ちっとも高くないじゃないかって? そりゃそうですよ。現代の建築技術からすれば大したことのない建物ですが、武士が腰に刀を差していた江戸時代からわずか23年、当時とすればこれでも空前の高層建築物だったわけです(↓)。


 凌雲閣は、実は日本初のエレベーターが設置された建物としても有名です。15~20人乗りで、1分間で1階から8階まで到達し、凌雲閣の観光の目玉の一つでもありました。入場料は「大人8銭、子ども4銭」。当時の1銭は現在の200円程度と言われてますので、「大人1600円、子ども800円」といったところでしょうか。工学の入場料にも関わらず、開業当初は1日に6千人もが詰め掛けた記録があるようですが、エレベーターの故障・撤去などがあり、開業半年で1日の来場者数は3百人にまで落ち込みました。

 そこで起死回生の策として考え出されたのが、美人コンテストです。今のAKB選抜総選挙の祖先は、傾いた経営立て直しのための客寄せだったのです。コンテストは、東京中から選ばれた100人の芸妓の写真が凌雲閣内に掲示され、推しメンに投票するため、多くの人が凌雲閣に押し寄せたのです。面白いのは、1人1票ではないことです。票数は、「登覧券(入場券)」の購入枚数によって決まり、推しメンを勝たせたい男性は、懐の許す限りの登覧券を購入したのです。なんだか、AKBのCD販売戦略と極めて似ている気がします。いやむしろ、AKBグループの生みの親・秋元康氏がRUK48を真似したのかも...なんて。

 そして、激戦を制して1位に輝いたのは、新橋玉川屋の玉菊という芸妓でした(↓)。江戸時代は、美人といえば面長で目が細く口の小さな女性とされてきたのですが、明治に入って20年ほど経ったRUK48選抜総選挙のグランプリは、どちらかというと現代の美人に近い美貌の持ち主のように思います。


 RKU48総選挙で経営が持ち直した凌雲閣ですが、その終焉は突然にやってきます。そう、1923(大正12)年9月1日。関東大震災。わずか33年。建築物としては極めて短命でしたが、東京タワー・スカイツリーそしてAKB48グループの元になったとも言える凌雲閣は、後世に大きな影響を与えた建物だったようです。

2018年7月6日金曜日

働かなくてもお金が入るなら仕事を辞める?

働くって何?一生困らないお金がもらえたら仕事を続けますか、やめますか?

 今回はちょっと哲学的な話題です。近い将来、人工知能(AI)全盛の世の中が来ると考えられています。現在の人間の仕事のうち半分近くがAIに取って代わられると予想する人もいますし、9割以上もの仕事がAIに奪われると予想する人もいます。もちろんこの議論は、AIの登場で新たに生まれる仕事のことを考慮しないと片手落ちですが、社会全体における人材シフトは容易でなく社会的不安が大きいことも事実です。

 一方で、肉体的労働はロボットに取って代わり、頭脳系の労働はコンピュータやAIに取って代わると、人間は労働する必要がなくなるという極論もあります。そうなると人は仕事をしなくなり、ロボットやコンピュータが仕事をこなして得られた富を人間に分配するというシステムが現実的だろうと考えられています。人間は、分配される「ベーシックインカム」で生活には困らない、仕事をしなくてもお金が入ってくる。そんな夢のような生活が現実になったとしたら、それはそれで時間を持て余してしまいそうな気もします。

 前置きが長くなりましたが、今回のテーマは「一生お金に困らないなら仕事を続けますか、それとも辞めますか」というお話です。元記事は前回と同じTHE PAGEから、宇部工業高等専門学校で教鞭を取られる小川泰治氏によるものです。小川氏は「哲学対話」の専門家なのですが、哲学対話というのは対話を通して今まで自分がわかっていたつもりのことが実はよくわかっていなかったということを浮き彫りにしていきます。ちょうどソクラテスの「無知の知」のようなものでしょうか。今回は、お金に困らないなら仕事を辞めるかというという問いから、一体自分にとって仕事とは何なんだろうかという点を浮き彫りにしていこうという趣旨なのです。

 「辞める派」の言い分はおそらく、お金があるならわざわざ苦しい思いして働く必然性がないというものでしょう。一方で「続ける派」の言い分は、仕事で得られるのはお金だけじゃない、働くことで得られる達成感や充実感は何事にも代えがたいというものでしょう。そして中間派、もっと家族との時間や自分の時間を取るために仕事の量は減らすけど辞めはしないという人もいるでしょう。

 小川氏が言われるのは、どの答えが正しいとか間違っているとかいうわけではなく、それぞれ考え方にはある暗黙の前提があるということなのです。「辞める派」の人の前提は「仕事とはお金を稼ぐためのもの」ということです。こう考える人は、仕事以外の部分に本当にやりたいことがある人です。本当にやりたいことが仕事以外にあるのですから、仕事しなくてもお金があるなら喜んで仕事を辞めて本当にやりたいことに時間をかけるでしょう。一方「辞めない派」の前提は「仕事で得られるのはお金だけではない」というものです。こう考える人は、日々の仕事に辛さを感じていたとしても、それを乗り越えた先にある『なにか』のために働きます。つまり、仕事をすることによって得られるものの中でお金を重要視している人は「辞める派」、お金以外の充実感や達成感・自らの成長などを重要視している人は「辞めない派」というわけです。

 さてこの辺で自分の立場と考えを明らかにしておきましょう。自分の場合は、絶対的に「辞めない派」です。自分は電機メーカーで働く普通のサラリーマンなので、仕事をすることでお金をもらっています。しかし、誰かの役に立っているという満足感や自分が成長しているという充実感を得るために仕事をしていると思っていて、お金がもらえるのは結果論だと考えています。お金を得ることだけが目的なら、もっと給料のいい会社に転職しようとかそういう考えになるでしょうが、自分の場合は給料はほどほどでも技術的なチャレンジを自由にやらせてもらえている今の会社が居心地よく感じています。自分が今後転職を考えるのは、チャレンジングで面白い仕事をさせてもらえなくなった時じゃないかなと思うわけです。統計結果などはないのですが、自分と同じように「辞めない派」が多いんじゃないかなと想像しています。

 しかしここで考えさせられるのは、「仕事には、楽しい仕事と楽しくない仕事がある」ということを、無意識に前提を置いてしまっていることです。楽しいと感じる仕事・楽しくないと感じる仕事は個人差はあるでしょうが、自分はどちらかというと肉体派よりも頭脳系の仕事、単純作業よりクリエイティブな仕事の方が楽しいと感じます。同じ感覚を持つ人はきっと多いと思います。従来のロボットやコンピュータが代替してきた仕事はどちらかというと肉体派の仕事か単純作業のような仕事でした。しかし、今後AIが代替しようとしている仕事は、どちらかというと頭脳系でクリエイティブな仕事の方です。人間にとって「楽しい」と感じる仕事の方が、むしろAIに取って代わられることになるのです。そうなると、やりがいとか充実感とか成長とか、そんな自己実現のような欲求を満たすことを仕事に求める「辞めない派」「仕事は金だけじゃない派」は一体なにでその欲求を満たせば良いのでしょか。

 しかし、小川氏はこんな指摘をされています。本当にそういった充実感や達成感は、働くことでしか得られないものなのか、と。仕事には仕事でしか得られない価値や達成感があると思い込んでいますが、それは余暇に行うスポーツやゲームでは代替できないものなのか。自己実現の欲求を満たすものは仕事以外にないと思い込んでいないだろうかと。これに対する明確な答えは出ません。でも、感覚的には「仕事以外にない」だと思っています。ここでいう「仕事」は、お金をもらえる仕事だけじゃなく直接的にお金をもらえないボランティアや地域活動、家事・育児といったものも含む大きな概念としての「仕事」です。そういう大き広義の「仕事」でしか、少なくとも誰かの役に立っているという感覚は味わえないんじゃないかと思います。あなたは、働かなくてもお金が入るなら、仕事を辞めますか。

2018年7月3日火曜日

「私」って一体何だ。「意識」なんて幻想かもしれない

自分たちで判断しているという「錯覚」……人間の脳はなぜ心を作ったのか

 以前、人間もこの世界も実は誰かのシミュレーションかもしれないという記事を書いたことがありました。今回はそんなシミュレーション仮説に通じる、なんだか薄ら寒い話題です。元記事は、慶應義塾大学教授の前野隆司氏が、ご自身の著書「脳はなぜ「心」を作ったのか ─「私」の謎を解く受動意識仮説」(筑摩書房)について書かれた、THE PAGEの記事です。

 誰しも不思議に思っていると思いますが、「私」って一体何でしょう。例えば私にとって、あなたと彼の違いは、彼と彼女の違いと同じようなものなのに、私とあなたの違いはあまりにも大きい。しかしそれは、例えば、「私」には自らで感じることのできる「意識」があることが、私と他人の何より大きな違いだと言えるかも知れません。そして、この世の中で「私」は自らで感じることのできる「意識」があるのでリアルな存在ですが、「私」以外の他人は全部シミュレーションだと言われたら、反論が難しいと思いませんか。

 例えば、ドラマ「ウエストワールド」の世界。この物語は、AIとロボット技術に支えられた体験型テーマパークが舞台で、そこではホストと呼ばれるアンドロイド(ロボット)があたかも人間のように暮らし、人間のゲストはホストからの報復を恐れることなく欲望のままにホストを殺したりレイプしたりします。ホストは人間と見分けがつかないほど精巧に作られており、あたかも自意識があるかのように振る舞います。人間のゲストは彼らがアンドロイドだと知っているからこそ乱暴な振る舞いをしますが、もし彼らがアンドロイドだと知らされていなければどうでしょうか。アンドロイドたちが暮らすウエストワールドの仮想世界は、人間たちが暮らすリアル世界と見分けがつかないと思いませんか。

 ドラマでは、デロス社のエンジニアたちが、殺されたりレイプされてしまったりしたホストを回収して修理して再びウエストワールドへ戻していますが、ウエストワールドの世界はまさに、エンジニアたちがシミュレーションしている世界だと言っても過言ではないでしょう。これこそが「シミュレーション仮説」の世界。我々が住んでいるこの世界も、デロス社のエンジニアのような何者かが作り上げたシミュレーションの世界で、「私」という存在も実はウエストワールドのホストのようなアンドロイドかもしれないのです。

 「私」も含めた世の中が全てシミュレーションだと言われて納得できないのは、やはりリアルに感じる自らの「意識」というやつがあるからでしょう。例えば、「私」は誰にも指図されることなく、自らの意思で行動しています。もしこの「意識」というやつが誰かのシミュレーションだとしたら、あらかじめプログラムされた行動をしているだけだとしたら。こんな仮説は、明らかに変じゃないでしょうか。「私」は自らの「意識」で指を曲げようとし、その結果、脳からの命令が指に届いて指が曲がるはずです。決して自らの意識に反するようには身体は動きません。

 しかし。しかしです。自分は、前野氏が紹介されいる、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のベンジャミン・リベット教授の実験結果に衝撃を受けました。リベット教授は、被験者の脳に電極を指し、「指を曲げよう」と意識した瞬間と「指よ曲がれ」という筋肉への指令が脳の運動野で出た瞬間の時間差を計測したのです。その結果はあまりにも衝撃的です。実は、「指を曲げよう」と意識した時刻は、筋肉への指令よりも平均0.35秒も後だったのです。指を曲げようと意識したから指が曲がるのではなく、指が曲がった後に指を曲げようという意識が生まれたということなのです。この時間的前後関係の逆転は、あまりにも衝撃的です。単純な言い方をすると、「意識→行動」ではなく、本当は「行動→意識」だったということなのです。

 全く何もないところから「行動」は起きませんから、実際のところは「何か→行動→意識」という順番だと考えるのが自然でしょう。そしてこの「何か」というのは、一体なんなんだというわけです。ウエストワールドの世界のように、あらかじめインプットされていたプログラムがこの「何か」ではないと、どうして言えるでしょうか。つまり、誰かのシミュレーションの結果として「行動」が起きたにも関わらず、あたかもその行動は自らの主体的な「意識」で起きたかのように思い込まされている。これこそ事実かもしれないのです。

 あまりにも生き生きと意思決定している「私」を感じるせいで、我々は「意識」のことを判断を下す司令塔のように感じています。しかし「意識」とは実は「幻想」で、あたかも存在するように感じられますが、本当は存在しないものかもしれないのです。「意識」というのは、誰かのシミュレーションによる結果を受け取り、あたかも自らが主体的に意図したかのように感じる機能かもしれないのです。幻想をリアルであると錯覚させる機能、それこそが「意識」の正体かもしれません。

 もしそうなら、人間には自由意志なんてものはないかもしれないのです。私たちは自分の意思で人生を生きているように思っていますが、全て誰かが書いた筋書きかもしれない。誰かの引いたレールの上の人生を、あたかも自らの自由意志で選び取ったかのように錯覚しているだけかもしれない。そんなふうに考えると、この世界が妙に恐ろしく感じてきます。

2018年7月2日月曜日

本に擬態したスマホケースが秀逸

【再販予約開始】新書風手帳型スマホケース「スマホをやめて本を読め」

 今回はこの山ちゃんウェブログでは珍しく商品紹介なのですが、その風刺というか皮肉が効いた面白い作品なので、あえてここで紹介させて頂こうと思いました。元記事は、エコードワークスのスマホライフ充実化プロジェクト「Project ApplePie」商品ページです。

 その作品というのが、こちら(↓)。スーツ姿の男性が手にするのは、電車の中でスマホばかりいじる人に対して「スマホをやめて本を読め」という新書です。しかしこの新書、よく見てみるとちょっと普通の本と違うようです。よーく見ると、実は新書に見えるコレ自体がスマホケース。周囲に対して「本を読め」といっている本人が、実はスマホをいじっているという二重の皮肉。


 税込¥3,240という値段が安いと思うか高いと思うかは微妙ですが、個人的には、ひとネタだけのためならちょっと高めかなと思ったりします。初めての相手に対してはネタとして笑えますが、いつまでも着けているのはさすがに恥ずかしいかなと思うわけです。

 実はこの記事を通勤電車の中で書いていますが、周りを見渡すと目を閉じている人・本や新聞を読んでいる人も見られますが、やっぱりスマホを触っている人が半数くらいいます。電車の中でこのスマホカバーを広げて、周りに「なんだお前もかーい」と呟かせるのも一興かもしれません。

2018年6月30日土曜日

男・西野監督が "持っている" もの

“持ってる男”西野朗が持っているものとは何か

 前回サッカーの話題を取り上げましたが、その後、日本代表がロシアワールドカップ決勝トーナメント進出を決め、めでたしめでたし...なのですが、その予選突破を決めた運命のポーランド戦の戦い方が引っ掛かるという指摘があります。そういう指摘はあるものの、3連敗で予選敗退だろうと言う大方の予想を覆す、決勝トーナメント進出を決めた西野監督の手腕はやはりキラリと光ります。

 自分もこの試合を自宅のテレビで観戦しましたが、まず驚いたのが、すでに敗退が決まっているとは言えグループH最強のポーランドを相手に、先発6人を入れ替えるという大胆な選手起用です。成熟したチームはどの選手を起用してもチームとしては同じ力を発揮できると言われていますが、日本はそのレベルには到底至っていないチームです。そんなチームで、運命のポーランド戦で6人もの選手入れ替えを決断できるという肝の座り方は、この監督なら決勝トーナメントに連れていってくれるんじゃないかと予感させました。

 そして驚きの2点目はもちろん、残り時間10分のあの戦術。先発出場を回避させた長谷部選手を投入してまで徹底させた「時間稼ぎ」戦術です。残り10分の時点で、日本はポーランドに0-1とリードされ、同じ時間に開催されているコロンビア対セネガルは、1-0とコロンビアリードです。両会場の試合がこのまま終わると、コロンビアは文句なしで一位通過。セネガルと日本は勝ち点・得失点・総得点・直接対決のどれも決着がつかず、フェアプレーポイントという謎のポイントで日本とセネガルのどちらが2位で決勝トーナメントに進出できるかが決まるのです。フェアプレーポイントの計算は
・イエローカード:-1
・間接レッドカード:-3
・一発レッドカード:-4
・イエローカードを既に1枚受けている選手による一発レッドカード:-5
の総合計で、この時点で日本−4、セネガル−6と日本が2ポイントリード。つまり、このまま両試合とも動くことがなければ、ほんの僅差ではありますが、日本が上へ行ける切符を手にできるというわけです。そしてその僅差に運命をかける決断ができたのが、我らが西野監督だったというわけです。

 ちなみに今回の出場国のフェアプレーポイントを計算して、ワースト順に並べるとこんな感じになります(↓)。

 ワーストは、1試合平均3.6枚イエローカードを貰ったパナマ。ファウル数の多さでも5位と、フェアじゃない戦い方をしましたが、G組はイングランドやベルギーといった強豪国がいたために何とか食らいついた結果とも言えます。2位の韓国も「死の組」と言われたF組で、スウェーデン・メキシコ・ドイツといった強豪相手にがむしゃらに戦った結果とみられます。日本は24位。H組の中で最弱のチームであるにも関わらず、比較的フェアプレーだったと言えます。

 日本のフェアプレー精神がセネガルとの紙一重のところを分けることになりましたが、フェアプレーポイントで勝ち上がった日本の時間稼ぎ戦術は決してフェアプレーじゃないだろうという批判が強いのも事実です。しかし自分は、相手を怪我させる可能性があるラフプレーと、ルールで認められた範囲内の消極戦術には天と地ほどの差があると思います。確かに感情的には、日本代表には最後まで攻めて欲しかった。ただ、時間稼ぎ戦術が批判されるなら、オフサイドトラップも、わざと転んでファールをアピールすることもフェアーでないプレーとして批判されるべきです。ましてや、勝っているチームが残り時間をボール回しで時間稼ぎする光景はこれまでも多く見られた戦術です。

 負け試合でも、ブーイングの嵐に選手たちを晒しても、裏目に出たら自らも集中砲火間違いなしのリスクの大きな賭けであっても、決勝トーナメントに行くために最も確率の高い戦術を冷静に選択できる「決断力」。そして、普段はキャプテンマークをつける長谷部選手をピッチに入れ、戦術を徹底させた「実行力」。この決断力と実行力こそ、西野監督の "持っている" ものなんだろうと思うのです。結果的に、決勝トーナメント進出を決めただけでなく、主力選手を休ませることもできて一石二鳥。いや、ひょっとしたらひょっとするかも。そんな期待を抱かせてくれる、素晴らしいリーダーじゃないかと思います。

2018年6月28日木曜日

サッカーでは幸せにはなれない!?

Football makes fans less happy

 ワールドカップが盛り上がっていますね。今夜、グループリーグH組の日本代表は決勝トーナメント進出をかけて、運命のポーランド戦を迎えます。一方グループリーグF組では、ドイツが韓国に0-2で敗れ、史上初のグループリーグ敗退という波乱がありました。今回は、そんな悲喜こもごもの盛り上がりを見せているロシアW杯に水を差すような内容で恐縮ですが、トータル的な幸福度という観点では、実はサッカーでは幸福感を味わえないという話題です。

 元記事は、サッカーの本場イギリスのUniversity of Sussexから出されたPatrick Reed氏の記事です。研究結果によると、応援するチームが勝利すると最高の喜びを味わえるものの、チームが敗北した際に負う心の痛みは勝利の喜びの倍以上だというのです。単純に言えば、常に2勝1敗の勝率を誇るチームを応援している場合は喜びと心の痛みが釣り合うのでしょうが、これを下回るチームなら応援しない方がいいと言えるのです。つまり、リアルマドリードやバイエルン、バルセロナといった常勝軍団のサポーターでいるぶんには幸福で切られますが、弱小チームのサポーターになると不幸感が勝ってしまう。

 そういう意味で、我らが日本代表は予選リーグをここまで1勝1分けですので、ポーランド戦を勝利か引分けで決勝トーナメント進出すれば天国ですが、万一予選敗退にでもなると、不幸感の方が増してしまうかもしれないわけです。

 この研究は、スマートフォンのアプリ「Mappiness」を利用して、サッカーを観戦する約3万2000人の被験者に対し、「試合後どのように感じているか」「何をしているか」「どこにいるか」「誰といるか」などの質問をして、その回答を分析するという手法です。分析の結果は、サポーターにとって意外であり残念でもありますが、サポーターを続けることによる累積的な幸福度への影響は、圧倒的にマイナスのものであるということでした。具体的には、贔屓のチームが勝利した場合、幸福度は1時間で平均3.9ポイント上昇しましたが、2時間後には1.3ポイントまで低下しました。一方でチームが敗れた場合は、幸福度は1時間で平均7.8ポイントも下がりました。勝利の美酒で上がる幸福度よりも、敗北で心が受ける痛手の方がざっと二倍というわけです。

 ちなみに、この幸福度ポイントの上がり下がりは、スタジアムに駆けつけた場合と自宅でテレビ観戦した場合を両方含んで平均化されていますが、スタジアムに駆けつけた人の分だけを取り出してみると、勝利で平均10ポイント上がり敗北で14ポイント下がるといううように、圧倒的にその振れ幅が大きくなります。

 全体的に見れば幸せになれないのにも関わらず、なぜ人は熱心にサッカーチームを応援するのでしょう。それは、実は試合開始前の高揚感ではないかと考えられます。試合開始のホイッスル直前、スタジアムに駆けつけたサポーターの幸福度は7.9ポイント上昇するのです。幸福度の浮き沈みの振れ幅という点では、自宅でテレビ観戦するよりもスタジアムで応援する方が圧倒的に大きいので、サッカーはスタジアムで見るべしというのは真実かもしれません。

 データが示しているのは、サッカーチームのサポーターになることはメリットが少ないように思えます。しかし、そういった科学的な根拠を示されても、やはり日本代表を応援する自分がいます。運命のポーランド戦にボルゴグラードへ駆けつけられない多くの日本人の方は、自分と同じように今夜テレビにかじり付くと思いますが、この中毒感こそサッカー人気の源なのかもしれません。

2018年6月27日水曜日

スマホやパソコンは子どもが何歳くらいから?

今がチャンス 情報化社会で子を勝ち組にする方法 | 舞田敏彦のデータで読み解くDUALな疑問 | 日経DUAL

 この山ちゃんウェブログではこれまで、子どもを持つ親として知りたくなかった事実について、舞田敏彦氏の記事を何度か取り上げてきました。舞田氏の元記事は基本的に数字をベースに書かれており、数字の説得力を強く感じます。今回はそんな舞田氏の記事を元に、情報化社会で我が子を勝ち組にしようというお話です。

 突然ですが、子どもにスマホやパソコンを買い与えるのは、何歳くらいがよいでしょうか。ちょっと古いですが、2015年度の調査では、スマホの利用率(≒所持率)が50%を超えるのは、男子は15歳、女子は13歳なのだそうです(内閣府『青少年のインターネット利用環境実態調査』)。男子は高校生になった時、女子は中学生になった時に買い与えるという親御さんが多いのかもしれません。実は、自分の小学5年生の姪っ子も、中学生になったらスマホを買ってもらえるから早く中学生になりたいと言っているので、中学生くらいでスマホデビューする子が多いのは感覚的にも正しそうです。しかし、目を海外に向けてみると、スマホに限らずもっと早くから情報機器を与える国が多いようです(これも古いデータですが、2013年の内閣府の国際調査によるもの↓)。

 他にも、OECDの国際学力調査「PISA 2009」によると、日本の15歳の子どものうち、コンピュータを使って自分で「グラフ作成」「プレゼンテーション資料作成」を上手にできると答えた子どもの割合は3割ほどで、調査対象45カ国の中で最低だったそうです。もちろん日本人はこう言った質問に謙虚に答えることが多いので、実際にできるかどうかとはまた違うことも考えられますが、少なくとも先進諸国の中で下位の方にいそうです。

 ICT先進国のデンマークなどでは、学校からの連絡事項はWebサイト経由、授業で使う資料はネットワーク経由で各自の端末にダウンロード、宿題や課題の提出もネットワークからアップロードする、学校行事への出欠もWebサイト上から登録するといった光景が普通だそうで、情報リテラシーがないと学校生活そのものが成り立たなくなりそうです。それに比べて、自分の長男などは小学校からの連絡は紙のプリントを持って帰ってきますし、行事への出欠も紙で提出、宿題の提出も当然紙のノートです。数字ベースの統計でも、学校のICT化という意味では、先進諸国に比べて日本はかなり遅れをとっているようです(↓)。

 なんだ、子どもが小さいうちからスマホを買い与えると、ゲームかYouTubeばかりだから躊躇していたけど、世界的にはもっと小さいうちから買い与えているのか。それなら、うちもまだ小学生だけど、スマホを買い与えてもいいかな。と思ったら、それはちょっと待ってください。

 舞田氏も言われていますが、スマホで情報を「消費」しかしないのであれば、世界で戦える情報リテラシーは身につきません。大きくなってから、情報リテラシーの高い諸外国の人たちと競争していくことを考えると、情報は「消費」ではなく「創造・加工・発信」する側に回ることができないと、本当の意味での情報リテラシーは身につきません。アプリで遊ぶのではなく、アプリを作れるようになる。ゲームをするのではなく、ゲームを作れるようになる。動画を見るのではなく、作れるようになる。小学生のなりたい職業で、YouTuberが上位に入って嘆かわしいという論調の記事を見たことがありますが、自分はむしろ動画を見てばかり(消費してばかり)いるよりは、創造・発信しようとするだけ立派だと思います。もちろん、YouTubeに代わる新しい動画サービスを作り上げようというのが最高ではありますが。

 そういう意味で、最初の「子どもにスマホやパソコンを買い与えるのは、何歳くらいがよいか」という質問に対して、自分なりに答えるとすると、「スマホではなくパソコンを小学生のうちから買い与える」のがよいと思います。情報は「創造・加工・発信」するよりも「消費」する方がはるかにラクで、人間はラクな方に流されやすいのです。スマホは情報の「消費」に最適化されたデバイスですので、それよりも情報の「創造・加工・発信」に優れたパソコンに早いうちから馴れ親しむ方が将来のためだと思います。小学校でプログラミング的思考の授業が始まる2020年度に向けて、プログラミング教育には親が付いて一緒にプログラミングすることが一番と書きましたが、これをきっかけに子ども専用のパソコンを買い与えるのが最適かもしれません。

2018年6月25日月曜日

AIがアイドルの生みの親になる時代

クリエイティブAI開発のデータグリッド、アイドル自動生成AIを開発

 AI・AIって騒ぐけど、人工知能だって所詮コンピュータプログラムなんだから、人間の代わりなんてできない。そんなことをうそぶく人がいますが、私たちが思った以上に現時点のAIの実力は上がっている。今回はそんな話題です。

 まずはこちらのYouTubeの動画をご覧ください(↓)。アイドルの女の子の、顔から顔に次々と滑らかに映像が変わっていく。今どきのAIはこんなにも滑らかに映像を切り替えていけるくらいになったんだ。そう思ったアナタ。残念ながらハズレです。


 実はここに登場するアイドルの女の子は、全て実在しないアイドルなのです。全てAIが作り出した「架空の」アイドル。架空のアイドルを生み出すAIを開発したのは、京都大学を拠点にAI関連システムの開発やコンサルティングなどを手がけるデータグリッド(代表 岡田侑貴氏)です。

 元記事によれば、GAN(Generative Adversarial Network、敵対的生成ネットワーク)と呼ばれる技術が使用されているそうです。GAN自体は「教師なし学習」の技術ですので、最初からGANが使用されたのではなく、多くのアイドルの女の子の写真を学習させたニューラルネットワークを2つ準備し、片方が相手を欺くための写真を生成してもう一方がそれを見破るということを繰り返して精度を高めていくという手法なんだと思います。

 でもこの動画を見て、架空のアイドルだなんて気づきました? どこかで見たことがあるような、それこそAKBグループにいそうな女の子なので、自分が歳を取って、最近のアイドルの子が全然分からなくなった...そんな風に錯覚しませんでしたか?

 そういえば最近は「バーチャルYouTuber」なんてものが登場して、顔出ししなくても動画を配信できるようになっていますが、「バーチャルアイドル」が出てきたら、もう何が何だかわかりませんよね。架空のアイドルに恋する「バーチャルアイドルオタク」なんて人たちが現れるのでしょうか。実在のアイドルよりもアニメの中のキャラクターに恋する人もいるくらいですから、日本では意外に受け入れられるやもしれませんね。

2018年6月22日金曜日

効果的なプログラミング教育とは

小学校のプログラミング教育、埼玉8校でモデル授業

 今回の話題はプログラミング教育。元記事はちょっとおカタく、日経新聞の記事です。以前この山ちゃんウェブログで、プログラミング教育は夏休みの工作に似ているという話や、農業を学ぶには教室の授業より実際の田んぼで稲を植えたり稲刈りしたりという体験をする方がいいという話を書いたりしました。今回その思いが一層強くなったので、もう少し深掘りを。

 元記事にも書かれていますが、「20年度から全面実施される小学校学習指導要領では、全小学校がプログラミング的思考の育成に取り組む」ということになっています。実は自分にも小学生の息子がいますので、指導要領の変化は我がこととして興味があるところです。まず、気をつけなければならないのは「プログラミング能力の育成」ではなく「プログラミング的思考の育成」。つまり、実際にプログラミングできるようになることがゴールではなく、プログラム的な考え方ができるようになることがゴールというのです。でも、これって実際にプログラムを書いている人からすれば、大きな矛盾を感じませんか。

 ソフトウェアやプログラムの世界は、よく建築の世界に例えられます。例えば、ソフトウェアの構造を決める人をアーキテクトと呼んだりしますが、自分はソフトウェアの世界を建築の世界に例えるのは、正しくないどころか誤解の元だと思います。というのも、建築の世界ではデザイナーや建築家・設計者は自分でカンナやトンカチを使えなくても仕事ができますが、ソフトウェアやプログラムの世界は自分でプログラミングできないと設計はできないからです。

 自分でプログラミングできないと設計できないと言うと、いやそんなことはない、プログラミングなんていうものは外注先のITドカタがやる仕事で、大企業のSIerは上流工程として要件定義や基本設計・アーキテクチャ設計を行なうんだと反論する方がいるでしょう。そして、現実的にはそういう意見を持つ人が多く、「プログラミング能力の育成」でなく「プログラミング的思考の育成」と言っていることからもよくわかります。

 しかし自分の経験上、自分でプログラミングできなくても要件定義や設計ができると言う人は、そもそもエンジニアではない人か、エンジニアだとしても実装不可能な設計書を書いてしまって後工程のプログラマーに尻拭いしてもらわなければならない人のどちらかです。本当の意味での「プログラミング的思考」は「プログラミング」でしか身につきません。

 この山ちゃんウェブログでも何度かこの図(↓)を出したことがありますが、ソフトウェアは形が目に見えず想像もしづらいものものですから、目に見えて想像しやすい建築の世界とは違って、人と人の間を伝わる「伝言ゲーム」でどんどん姿が変わってしまうのです。この図では目に見えて想像しやすい遊具に例えているので、まさかそんな伝言ミスや実現不可能な設計、本来の目的を見失った設計が起きるはずがないと思えますが、目に見えず想像もしづらいソフトウェアの世界では実はしょっちゅう起きることです。


 伝言ゲームでこんな馬鹿げた伝言ミスや実現不可能な設計、本来の目的を見失った設計が起きないケースは、自分でプログラミングできる人がアナリストや設計者だったりする場合です。自分でプログラミングできる人は、目に見えないソフトウェアをリアルに想像できる人です。つまり、伝言ゲームで伝えるべき対象を、少なくとも正しく捉えることができるという点で、そうでない人よりもはるかに正しい伝言ができる可能性が高いのです。ソフトウェアをリアルに想像できる人は、つまり頭の中にあるソフトウェアが実際にコンピューター上で動く姿が想像できるということですから、そもそも実現不可能な設計はすることがありません。

 つまり言いたいことは、やはり小学生が「プログラミング的思考」を学ぶためには「プログラミング」を実際に経験してみることが何よりも近道だということです。自分がプログラミングしたソフトウェアがパソコン上で動いたり、ロボットを動かすことができたりする経験をすることが、何よりも大切なんです。そして、息子がやっているオンラインプログラミング講座を一緒にやっている自分の経験からは、これは親が一緒に考えたり手を動かしてあげないと、子供だけでプログラミングを学ぶのは難しいと思うのです。先日も、ちょっとした環境の違いで、オンライン講座の先生の書く通りのプログラムが動かないという事象に出くわしました。そんな時、子どもだけだと解決できないので、先生の言う通りにしたのに動かないと、プログラミングそのものが嫌いになってしまいかねません。

 また、プログラミングでつまづくところは一人一人違いますので、算数や国語以上に大教室で1人の先生が多くの児童に教えるというスタイルは絶対的に向いていないと思います。少なくとも1対1の環境。そして、一緒に考え一緒に手を動かすという最も効率的な学びのためには、やっぱり「夏休みの工作の宿題」と同じように、親が付いて一緒にプログラミングすることが一番なんだと改めて思うわけです。

2018年6月21日木曜日

たかがケーブル、されどケーブル

「白い製品」に「白いケーブル」を添付できないメーカーの裏事情

 今回の話題は、最近ツイッターで話題になった「なぜ日本のメーカーは、海外のメーカーのように、白いボディーの製品に白のケーブルを添付することができないのだろう」という話題です。元記事は、ITmediaの牧ノブユキ氏のもので、牧氏はメーカー事情などその背景などを書かれています。

 正直言ってこの話題を聞いた時、自分の頭の中はハテナでいっぱいになりました。海外メーカーはみんな白いボディに白いケーブルを付けていることが議論の前提になっているようですが、「え、そうなの??」と思うわけです。製品というのが曖昧ですが、自分が持っている海外メーカーのBluetoothヘッドホンやスピーカーなど、黒いUSBケーブルが付属していましたが、これは例外?? 

 いやもちろん、ツイート主が言わんとするところはわかっていますって。あれでしょ。iPhoneとかiPadとかMacBookとか。要するに、Appleのお洒落ガジェットには白いLightingケーブルやUSB-Cケーブルなどが付属してきて、ACアダプターも白いということを言っているんですよね。

 でも、元々の命題「白いボディーの製品に白のケーブル」には、Apple製品も合っていないですよね。実は自分も、Apple製品はiPhoneとMacBookを持っていて、そういう意味ではAppleファンの1人なのですが、持っているのはいずれもスペースグレイです。ボディーが黒っぽい色なのに、白いACアダプターと白いケーブルが付いてきます。むしろ、スペースグレイには黒のケーブルが付いてきて欲しいんですけど... iPhoneやMacBookは、シルバー・ゴールド・ローズゴールドなどの色もありますが、いずれもACアダプターとケーブルは白です。白いケーブルに合う、ホワイトのボディーはないんじゃないでしょうか。

 つまり、日本メーカーがボディーの色によらず黒いケーブルを付けるのに対して、Appleは白いケーブルをつけているだけじゃないかと。メーカー都合によって、ボディーの色とケーブルの色を合わせる気がないという意味では、同じじゃないかと思うんです。そして、日本メーカーは黒を選びAppleは白を選んだ。日本メーカーだけでなく海外メーカーも、汚れや黄ばみが目立つ白よりも汚れが目立たない黒を選ぶことが多いのは、むしろ当然の帰結だと思います。自分の場合、iPhoneにもMacBookにも、スペースグレイのボディーに合わせてサードパーティ製の黒いケーブルを買っているくらいです。

 実は自分が中学生くらいの時、ボディーの白に合わせて白いケーブルが使われていた日本メーカーの製品を愛用していました。それがコレです(↓)。そう、ソニーのウォークマン。確か中学2年生くらいの頃、友達が使っていたこの機種がとてもカッコよく見えて、それまで持っていた黒のアイワ製プレイヤーからわざわざ乗り換えたんです。当時のソニーは今のAppleのようにデザインがシンプルでカッコよく、この製品はイヤホンケーブルもリモコンも白で統一されていて、今でも通用するデザインだと思います。

 しかし。しかしです。この白いケーブルが半端なく汚れるんです。黄ばみも激しく、お店やカタログだとお洒落に見えたウォークマンが、いざ使ってみると薄汚れて見すぼらしくなってしまいました。中学生だった自分は、せっかくデザイン重視で乗り換えたこのウォークマンが、本体のことではなくケーブルのことで薄汚く見えるのが我慢ならなかったことを覚えています。

 白いケーブルは一見デザイン的に優れているように思えますが、一方で汚れにくさというユーザーにとっての重要な価値(品質)が損なわれます。カタログや店頭でお洒落に見える白ケーブルを選択するか、製品のライフサイクル全体で汚れにくさという価値を提供する黒いケーブルを選択するか、あるいは余計なコストをかけてでも製品のカラーと合わせるか。たかがケーブル、されどケーブル。悩ましいところですね。

2018年6月18日月曜日

AIがもたらす学歴社会の崩壊

人工知能革命によって「学歴社会」は崩壊する

 今回は、この山ちゃんウェブログではよく取り上げている人工知能(AI)ネタ。元記事はForbes JAPANの記事で、田坂広志氏によるものです。田坂氏の書かれていることはこれまで自分の書いて来たことにも近く、人工知能(AI)の発展によって大きく社会の価値観が変わってしまうだろうというものです。

 2018年6月の今現在は、まだ「知識修得力」と「論理思考力」に優れるという意味での「頭の良さ」に高い価値が認められていると思います。例えば、東大ブランド。最近テレビをつけると、現役東大生という若者がクイズを出したり答えたりしている番組をよく見かけます。視聴者は彼らの頭の良さに「さすが東大」と感嘆したり、「よくそんなこと知っているなあ」と驚いたりします。

 そしてここで我々が認識している彼らの頭の良さは、先に述べた「知識」と「思考力」なんだと思います。そして現時点ではまだ、多くの知識と優れた思考力を持つ人は、それらを持ち合わせない人より高く評価されていると思います。評価と言っているのは、就職のしやすさや先の東大生がメディアでチヤホヤされることなど定性的なものも、企業から示される給与額のような定量的なものもあるでしょう。そして、「知識」と「思考力」を持ち合わせていますよという証明書が、いわゆる「学歴」というヤツです。つまり、東大卒とか早慶卒のようなピカピカの学歴は、「知識」と「思考力」に優れていますよと言っているに近いわけです。

 しかし田坂氏が言われているように、「知識修得力」と「論理思考力」は実はAIのもっとも得意な分野です。これらの力に優れていることで評価されて来た人材は、どんどんAIに置き換えられていくでしょう。特にAIの格好の餌食になるだろうと言われているのが、いわゆる「士(サムライ)職業」で、具体的には税理士、会計士、弁護士、司法書士といった職種です。自分はこれらの職業にさらに、医者、裁判官といった職業も加えたいと思います。つまり言いたいことは、従来「頭の良さ」を武器に高い報酬を得ていた職業ほどAIの餌食になりやすいということです。それに対して、プロ野球選手、芸能人、ホスト、ホステスのような、「頭の良さ以外」の部分で高い報酬を得ていた人は安泰というわけです。

 知的職業の危機は、現在の学歴社会の崩壊を意味します。先に述べたように、学歴があるというのは「知識」と「思考力」に優れるという意味ですので、AIの普及でこれらの能力に対する需要が劇的に下がるとすれば、現在の意味で言うところの「学歴がある」ことの評価は下がります。

 では、「知識修得力」と「論理思考力」に代わって重要度が上がる能力とはどんなものなのでしょうか。田坂氏は次の3つの能力だと説明されています。

(1)職業的能力
 いわゆる教科書的な知識ではなく、経験を通じて掴むようなノウハウ。スキルやテクニックも重要ですが、マインドやパッションのような心の能力もより重要です。

(2)対人的能力
 コミュニケーション能力ということですが、言語的なものよりもむしろ眼差しや表情、仕草や姿勢、空気感など非言語的なものでメッセージを出したり受け取ったりする能力。

(3)組織的能力
 コーチングということですが、単にスキルを伸ばすというだけでなく、メンバーの人間的成長を支え創造力を引き出すような「心のマネジメント」や「支援型リーダーシップ」の力。

 従来重要視されていた「知識」と「論理的思考力」がデジタル的な能力と表現できるのに対して、田坂氏がAI革命によって重要になると言われる能力は、総じてアナログ的な能力ではないかと思うのです。ナレッジやロジックのような冷たさよりも、パッションやハートのような暖かさ。

 しかし、ちょっと思い出してください。例えば昭和初期から大正・明治のような時代、人々の価値観はアナログ的なものじゃなかったでしょうか。数字で冷徹にビジネスをする時代ではなく、義理と人情で商売をしていた時代。知識と論理性ではなく、感情と情熱が重視されていたんじゃないかと思います。つまりとても不思議なことですが、最先端のAIがもたらす世界は、懐かしい価値への原点回帰なのかもしれません。

2018年6月16日土曜日

信じるものは救われる?

「宗教を信じること」が長寿につながるかもしれないという研究結果

 今回は新約聖書の最も有名な言葉の一つ「信じるものは救われる」が、ある意味本当かもしれないというお話です。元記事はGigazineのものですが、このGigazineの記事もオハイオ州立大学で心理学を専攻するLaura E. Wallace氏の論文記事を元に書かれています。

 Wallace氏の研究は、2010年から2011年の1年間にアメリカ42都市で発行された1096人分の死亡記事を分析したものです。その結果、何らかの宗教を信仰していたり宗教活動に関わっていた人は、そうでない人に比べて3.82年長生きしていたということでした。わずか1年分、わずか1000人強のデータであること、アメリカの42都市だけのデータであること、死亡記事に明示的に宗教的な活動について言及があったかどうかという点だけの調査であることを考えると、まだまだ「仮説」の域を出ないとは言えるでしょう。が、それでも宗教というものが、実際に人間の健康や長寿に影響があるかも知れないというのは納得性が高い気がしませんか。

 宗教を信じることが長寿につながることの理由は、それこそ推測に過ぎませんが、1つは宗教を信じる人はアルコールや薬物使用などの不健康な習慣がない人が多いと考えられます。宗教の教えには「禁欲」を説くものが多く、三大欲求(性欲・食欲・睡眠欲)のうち睡眠欲を制限する宗教はまれですが、多くの宗教で性欲と食欲は制限が課せられます。もちろん、これらの欲求を制限することが必ずしも健康上プラスばかりではないかも知れませんが、概ね禁欲的な人はそうでない人に比べて健康的な生活をしていると言えるのではないでしょうか。

 禁欲は宗教が「身体の健康」に与えるプラス影響についての仮説ですが、もう一つ、論文記事の共著者でもあるオハイオ州立大学心理学准教授のBaldwin M. Way氏の「多くの宗教が戒律として定めている祈りや瞑想はストレスを軽減する」というコメントのように「心の健康」への影響もあるかも知れません。祈りや瞑想あるいは神を信じる心によって心の安寧が得られ、それが結果的に長寿につながるという仮説です。

 さらに、宗教と長寿の関係性において興味深い示唆が得られています。それは、住民の「経験への開放性」が高い都市は、低い都市に比べて「宗教を信仰する人」と「無宗教の人」の平均寿命の差が小さいということです。いきなり「経験への開放性」と言われてもピンと来ませんが、人の性格を
(1)経験への開放性 (Openness to Experience)
(2)勤勉性 (Conscientiousness)
(3)外向性 (Extroversion)
(4)協調性 (Agreeableness)
(5)情緒不安定性 (Neuroticism)
という5つの性質で説明しようという心理学的な分類です。この中で「経験への開放性」という特性だけが分かりづらいですが、文化的・芸術的活動への関わり度合いとか好奇心の強さとか様々な説明の仕方がされていて、いわゆる詩人やアーティスト系の特性と言えるでしょう。そういう特性を持つ人が多い都市では、宗教を信仰する人と信仰しない人の寿命差は小さかったというのです。そして、宗教を信仰する人の寿命に有意な差がないことから、「無宗教の人の寿命」が長い傾向にあると言えます。これは、宗教がもたらす健康へのポジティブな効果が、宗教に関係しない人たちにも間接的に影響を与えているのかも知れません。

 どちらかというと宗教は自分からは遠い存在で、他の人が宗教に時間を費やしてるのを見て、時間がもったいないなくらいに思っていた自分なのですが、健康に対してプラスの影響があるというのは目からウロコでした。宗教の持つ禁欲の戒律が身体の健康を促進し、救われると信じる安心感が心の健康を促進する。そう思うと、過度にハマり過ぎない程度にうまく宗教と付き合うのは悪くない気がしてきます。

2018年6月11日月曜日

日本って思ったより大きいんだ!

https://thetruesize.com/ :

 今回は日本の国土って意外に大きいんだという話題です。元記事はJames Talmage氏とDamon Maneice氏が製作した「The True Size Of...」というサイト。国名を入れるとその国を世界地図上のいろいろなところへドラッグでき、大きさを比較できるという面白いサイトです。そして試しに「Japan」と入力して表示された日本をヨーロッパにドラッグしたものがこちらです(↓)。

 どうです? 日本って思ったより大きくありませんか。ヨーロッパが実際より大きい印象があるのに対して、日本は実際より小さい印象がある気がします。例えばイギリスが244,820km²なのに対して、日本は377,914km²と、日本の方がだいぶ大きいのですが、なんとなく同じくらいかなと思っていませんでしたか。

 日本を実際より小さく、ヨーロッパ諸国を実際より大きいと錯覚させている元凶が、小学生か中学生くらいの時の授業で習った「メルカトル図法(Mercator projection)」。子供の頃から見慣れているこの地図は、地理学者ゲラルドゥス・メルカトル氏が1569年に発表した投影法の地図です。等角航路が直線で表されるので、海図・航路用地図としては極めて有用なのですが、世界地図をこれで表すのには極めて大きな弱点があります。その最大の弱点とは...面積が不正確なことです。しかも極めて不正確なのです。何しろ北極と南極は本来は点であるにも関わらず無限大に拡大されるのですから。

 つまりメルカトル図法の地図では、赤道に近いほど小さく、北極・南極に近いほど大きく表示されるわけです。例えばメルカトル図法では、日本が実際より小さく表示されるのに対して、グリーンランドは実際より大きく表示されます。元記事のサイトでグリーンランドを日本のすぐ横に持ってきてみると、思ったほど大きくないことに気づきます。実際は日本の面積の5.7倍あるので決して小さくはないのですが、それでも、メルカトル図法の地図で馬鹿でかく描かれている印象から、もっともっと大きいと錯覚していませんでしたか。

 面積の大きな国を順番に赤道上に並べてみましょう(↓)。確かに、ロシアやカナダ・中国の国土は大きい。大きいですが、メルカトル図法に騙されて、もっともっと大きいと錯覚していませんでしたか。

 自分もそうですが、子供の頃から一番見慣れている世界地図はメルカトル図法のような気がします。日本以外の国の小学校や中学校でどんな地図が使われているのか知らないのですが、日本におけるメルカトル図法の「印象操作」は強烈なものがあります。子供の頃から、こんな地図(↓)を見せられて視覚的に「日本は小さい」「小さい国土しかない日本」と刷り込まるわけです。もちろん、国土の大きさが全てではありませんが、小さい国土しかないと思い込まされている日本人は、精神的にもどこか引け目というか腰が引けてしまうところがある気がします。


 国土の広さランキングでは日本は第62位。ジンバブエ(61位)とドイツ(63位)の間で、世界196カ国の中ではどちらかというと大きな方だと言えるでしょう。先に述べたように、国土の広さで精神的に強気・弱気になるわけではないのですが、もともと控えめというか自らをへりくだる傾向がある日本人の精神構造に、「小さな国土」という先入観が加わることで、必要以上にへりくだったり自らを下に考えてしまっているのではないかと思うのです。そして、言い過ぎかもしれませんが、国際社会における日本人の弱腰ぶりとか、ワールドワイドなビジネスの場において日本企業がリードできないのも、この「日本は小さい」という刷り込みにも一因があるのではないかと思うのです。

 実は面積をできるだけ正しく表現できる地図図法というのもたくさんあります。例えばこちらのサイトでは、様々な地図図法が解説されていますので、その中から2つほどご紹介しましょう。1つ目は、サンソン図法という、すべての緯線と中央経線の長さが正しい地図です(↓)。高緯度の歪みが大きいので、ヨーロッパや米国など緯度の高い国々がだいぶ変な形になります。

 2つ目はモルワイデ図法(↓)。サンソン図法ほど極端な歪みを避けた表現で、これくらいなら高緯度の国々でも受け入れられるかもしれません。

 面積をそれなりに正しく表現できる地図があるのですから、自分は、小学校・中学校で子供に見せる地図はこちらを使って欲しいと思うのです。そして「日本は決して小さな国じゃない」という正しい認識を持って育って欲しい。例えば、帰国子女など幼い時期を海外で過ごした人の方が、物怖じせず世界の人とも対等に渡り合っていける人が多い気がしますが、それも海外で見せられる地図に日本が大きく載っていて、自分は日本人だというプライドが育つという理由もあるのかもしれない。「小さな日本」を刷り込まれて大人になった人よりも、「日本はそれなりに大きな国」という教育を受けて育った人の方が、世界に対しても臆することなく渡り合っていけるんじゃないかと思うのです。

2018年6月9日土曜日

大谷投手ばりのスピードボールを投げる方法

大谷に挑戦! 高いマウンドから投げれば素人でも球速165キロ出せるのか?:

 相変わらず「Blog This!」が使えないので、手動操作で元記事のリンクを作りましたが、今回はあの二刀流・大谷投手に挑戦しようという話題です。元記事はねとらぼのQuizKnock氏によるものです。

 さて、挑戦とは言いましたが、大谷投手の165km/hの豪速球を素人が打ち返せるわけありませんので、ここは大谷投手と同じスピードボールを投げてみようという話題なのです。ん? 165km/hのボールを打ち返すより、投げる方がむしろ絶望的に無理・ムリ・むり。素人が同じ条件で大谷投手と張り合うことはできないので、ここは大きなハンデを貰おうというわけです。そう、「マウンドの高さ」というハンデを貰うことで、大谷投手と同じ豪速球を投げてみようという思考実験なのです。

 ピッチャーがボールを投げるマウンドというのは、グランドの他の部分よりすり鉢を逆さにしたように少し高くなっています。そしてピッチャーは、マウンドの傾斜を利用してスピードボールを投げているのです。公式ルールでは、高さは10インチ、傾斜についても規定がありますが、ここは思考実験ですので、我々素人に与えられるハンデではこの高さをもっともっと貰えるものとして、一体どれくらい高いマウンドから投げれば大谷投手と同じスピードボールが投げられるかということを考えます。


 話を簡単にするために、ここでは高校物理でやるような「エネルギー保存の法則」で考えます。マウンドの高さh(厳密にはマウンドの高さ+ピッチャーのリリースポイントの高さ)で速さvのボールを投げた時に、この高さというエネルギー(位置エネルギーと言います)がホームベース上でスピードのエネルギー(運動エネルギーと言います)に変わって速さuになるとすると、下の図のような計算式が成り立ちます。これがエネルギー保存の法則です。

 ここまで話を単純化してしまうと、我々素人が使う高いマウンドh' と大谷投手が使う普通のマウンドhでそれぞれエネルギー保存の式を書いてみて、ホームベース上でのスピードが同じ(uu')とすれば、下のように素人の使うマウンドの高さh'は、普通のマウンドの高さhにハンデ分を足した式で表されます。
この式に、ちょっと乱暴ですが大谷投手の手を離れた瞬間のスピードをv=165km/hとし(本当は手を離れた瞬間はもっと速い)、素人の投げるスピードv'=60km/hとし、本当のマウンドの高さh=0.254m、重力加速度(定数)じは9.8m/s2を使用すると、必要なマウンドの高さh'は..................なんと、93m!

 ピッチャーとホームベースの間は18.44mですから、20m弱のところに高さ93mもの山がそびえ立っているという奇妙な図(↑)になります。バッターはほとんど真上に感じるであろう78.6° という角度で大谷投手と同じスピードのボールがくるわけですから、角度がついている分、むしろ大谷投手よりも打ちづらいかも知れませんね。

 今回は話を簡単化するためにかなり無理な前提を置きましたが、素人が大谷投手ばりのスピードボールを投げるにはここまでハンデをもらう必要があると思うと、大谷投手の凄さをより一層実感する気がします。すでに投手として4勝、野手として6ホームランと、メジャーでも二刀流の活躍を見せる大谷投手。この勢いで活躍して欲しいですね。

2018年6月7日木曜日

Blog This! が使えなくなった?!

 これまで、この山ちゃんウェブログの記事投稿には、Blog This!という拡張機能を使っていました。この拡張機能は、気になった記事をもとに自分なりの考えや意見を書いてログ(記録)を残しておく「当初の意味でのWebログ」には非常にマッチしていました。


 「Blog This!」を追加したGoogle CromeにはURL入力欄の横に上のようなアイコンが表示され、気に入った記事を表示させてこのボタンをクリックすると、その記事を元に自分のブログ記事を書けるというもので、この山ちゃんウェブログの記事はほとんどこの機能を使って投稿してきたのです。それが、...今週月曜の時点では大丈夫だったのですが、今日久しぶりに投稿しようかと思ったら、ないのです。アイコンが。もう一度Chrome Webストアで探してみても見つからないですし、過去のリンクから辿ってみましたが、Google Chromeへ追加しようとするとエラーになってしまいます。

 もちろん手作業で元記事へのリンクを作っておけばいいのですが、これまでなかった手間が増えるというのは、なんだか煩わしいですよね。どなたか解決法ご存知の方は教えてもらえるとありがたいです。(ちなみに自分の環境は、macOS High Sierra 10.13.4でGoogle Chromeは67.0.3396.62。おそらく現時点では最新に近いと思うのですが)

2018年6月4日月曜日

勉強しない仕事しない人間はAIが排除する社会

Chinese school uses facial recognition to monitor student attention in class:

 今回の話題は「監視社会」。元記事は、The Telegraphの掲載されたNeil Connor氏によるものです。もともと監視カメラの映像は監視と監査(何かがあった時の検証)目的であることが多かったですが、最近は人工知能(AI)の発展によって、映像を積極的に解析して新たなサービスを展開しようという動きが活発です。しかし、今回ご紹介する中国の事例は、なんだか背筋がゾッとする気がします。

 画像解析を積極的に利用する例としては、例えば空港やビルでのセキュリティ。従来より監視カメラが設置されていて、中央監視室のようなところでたくさんのモニターにその映像が映し出されていましたが、実際のところ人がじっと映像を見続けるのは拷問に等しく、映像は垂れ流しでした。しかし、画像解析にAIが活用されるようになった最近では、問題がある映像を検出した時にアラートが出てその時だけ人がチェックするという運用になっていますので、効率的で現実的な監視がなされるようになっています。例えばブラックリストに登録された人物が映った時にアラートを出したり、用もないのにウロウロしているなど怪しげな動きをしている人がいるとアラートを出したり。監視カメラ映像を活用したそんな応用例の一つに、今回ご紹介する中国の事例も当てはまるかもしれません。

 前置きが長くなりましたが、杭州のある高校では、教室の黒板の上に3台の監視カメラが設置されています。教室内に監視カメラを設置する時点で、日本よりも監視社会が進んでいることがよくわかりますが、ここからが画像の応用例。「スマートアイ」と呼ばれるシステムによって、授業を受ける高校生の映像をAIがリアルタイムに分析します。そして、授業を真面目に受けていない生徒を見つけ出すのです。単純に授業中に寝ているとか、ふざけているとかいうだけでなく、このAIは感情分析を行なうことで授業に集中できていない生徒がいれば、直ちに誰が授業に集中していないかを教壇の先生に通知します。そして、先生がその生徒に注意を与えるという運用なんだそうです。逆に授業態度が常に良い生徒は、成績に加点がなされるのだそうですが、その判断も先生の判断ではなくAIによる判断。

 よく考えると、AIによる判断で生徒が授業に集中していないとか、授業態度が良いとか判断するのは、先生の独断と偏見によって判断される従来の仕組みよりもずっと公平で透明性が高いと言えるかもしれません。人間の先生は間違いも多いですし、えこ贔屓もあるかもしれません。普段の生活態度が気にくわないとか、親が資産家で学校に影響力を持っているとか、そんな余計な情報やバックグラウンドは影響しません。

 しかしそれでも、この仕組みに対して背筋がゾッとするのは自分だけではないと思います。自分が高校生だった時、どの授業もずっと集中して聞いていたかを思い出してみればわかるでしょう。単に監視カメラで撮られているだけでなく、ずっとAIによる判断が下されているのは、気が休まる時間がない気がしませんか。生徒だけじゃありません。今は生徒が授業に集中しているかだけが監視されていますが、じきに先生側も監視対象になるはずです。同じクラスを教える英語の先生と数学の先生の授業を比べて、どちらの方が生徒が授業に集中しているかは全く同じ仕組みで判断できるわけです。そうすると、先生ごとの授業の品質もすぐに見える化されることでしょう。

 もう少し考えれば、学校の場だけでなく労働者全般にも同じことが適用される将来像にゾッとしませんか。工場労働者だけでなくホワイトカラーであっても、映像解析をもとに仕事に全力投球しているかどうかを常に関し続けられる。そんな社会。経営者側の視点に立てば、労働者をフル活用することが自らのメリットなのですから、当然真面目に働く社員を重宝して不真面目な社員は追放したいところです。従来は上司の判断という曖昧なものでしたが、AIによる公平な判断でクビを宣告されるわけですから、「それは不当解雇だ」という指摘は当たらないわけです。たとえ司法の場に持ち込んでも、証拠映像は企業側がしっかり握っていますから、労働者側の自分は頑張っていたという感情論は聞いてもらえないでしょう。

 監視カメラと画像解析による「見える化」。これまで見えなかったことが「見える」ようになるということは、それだけ気が抜けない・息苦しい世の中を生み出してしまう可能性が高いと思うんです。以前、タレントのふかわりょう氏が「ハイレゾ社会の息苦しさ」という表現をされている新聞記事を紹介しましたが、これまで聞こえなかったような音が聞こえる、これまで見えなかったことが見える。そんな社会は、人間が追求してきたテクノロジーの究極形のひとつかもしれませんが、逆に人間を追い詰めてしまうかも知れません。

2018年5月31日木曜日

成長は変化。最終的に元に戻ったとしてもそれも成長だ

『成長』の概念への再考 ~新しい認識に向かって~ | METHOD NETWORK【メソード ネットワーク】:

 今回はブログサークルで互いに切磋琢磨させて頂いているトニーマサキ氏の記事を元に、成長とは何かという話題です。自己実現とか成長というのは人生における大きな目標で、昨日の自分よりも今日の自分、今日の自分よりも明日の自分が成長できるようみんな毎日を懸命に生きています。

 そんななかでトニーマサキ氏の言われているのは、成長は一概に「プラス」だけだとは限らないんじゃないかということです。「昨日の自分+α=今日の自分」というように、プラスアルファをどんどん付け加えていくことがすなわち「成長」だというのはなんだか違うんじゃないかと。

 元記事を読ませて頂いて、自分は「マイナス」することが「成長」というケースもあるんじゃないかと考えました。例えば、禅とか宗教的な修行の世界。煩悩を断ち切ったり、余計な考えをそぎ落としていくことで高みに登っていこうという精神世界があります。他にも例えば、デザインの世界。余計な装飾をそぎ落として、シンプルさを追求していくことでスタイリッシュさを獲得する。必ずしもプラスすることだけが「成長」ではなく、マイナスすることが「成長」という世界はたくさんあると思います。そういう意味では、「変化」こそ成長ではないかと。プラス方向なのかマイナス方向なのか分かりませんが、成長とは昨日と同じ場所に止まらず歩みを進めること、それこそが成長だと思います。

 しかしトニーマサキ氏の記事は、さらに先を行きます。「プラス・マイナスという成長の尺度ではなく、『ただ、そこに在る自分』を感じ取れること」が大切だと。そうです、自分の考えではプラスかマイナスかはあるにしてもどちらかの方向に進むことが成長だと考えていましたが、トニーマサキ氏はその場で動かないこともまた重要なんだと。言葉を借りるなら「幸せを求めて長い間旅をしてきた。幸せを探し求めて遠い旅に出た。ところが、幸せは、自分のポケットの中に既に入ってあった」。

 世界中を旅した人が「やっぱり日本が一番だった」と言ったり、そこまでの経験でなくても、旅先から帰った時に「やっぱりうちが一番だ」と言う一言が漏れたり。そんな経験は誰にもあると思います。しかし、それはじっと日本にとどまっていたら、じっと家の中にとどまっていたら、出てこなかった感想じゃないかと思うのです。世界中を見聞きしてきて、旅先を楽しんできたからこそ、それとの比較で実は自分の元の場所はとても素晴らしかったんだと気づく。これも成長だと思うんです。つまり、実は「その場で動かないこと」ではなく、「動いた結果として元の場所に戻ってきた」ということもまた成長ではないかと。

2018年5月29日火曜日

人間もこの世界も誰かのシミュレーションかも知れない

現実世界はシミュレーションに過ぎないという「シミュレーション仮説」とは? - GIGAZINE:

 前回「数学的に『神が存在する』ことを証明しよう」という記事の中で、神が存在することよりも複数の神が存在することよりも、もっと確率が高いのは、「シミュレーション仮説」と呼ばれる、我々が誰かのシミュレーションのなかの登場人物だとする仮説だという話を書きました。今回はその「シミュレーション仮説」について、アニメーションムービー「Is Reality Real? The Simulation Argument」で解説されていましたので、紹介したいと思います(↓)。


 「シミュレーション仮説」というのは、私たち人間や私たちが生きているこの世界は、実は高度な文明をもつ宇宙人によってシミュレートされた世界ではないか、という仮説です。あのイーロン・マスク氏もこの説を支持しているのだとか。

 シミュレーション仮説に関する確たる方法論はないのですが、もしこの世界がシミュレーションだと仮定すれば、一体どういうことになるのかを考えてみましょう。ムービーで前提となっているのは、ニック・ボストロム氏の出した仮説で、それを元に5つの仮定を考えてみましょう。

(1)意識はシミュレートできる
 人間の持つ意識。人間の仕事を奪ってしまうと言われる人工知能(弱いAI)ですら持つことがないと考えられている「意識」。しかし、一体「意識」とは何でしょうか。「意識」を正しく定義できる人はいないのではないかと思います。それならば、外から見て「意識」がそこに存在すると見えるならば、それは「意識」を持っているとみなせるという立場に立ってみましょう。外から見て「意識」があるように見せることは、十分にコンピュータでもシミュレートできるでしょう。
 コンピュータで人間の脳をシミュレートして、意識があると外部に見せようと考えると、脳のシナプス間のやりとりは1秒間に1垓(10の20乗)回ですので、歴史上のすべての人間の意識をすべてシミュレートしようとすると、平均1人当たり50年間生きるとして、3000万秒/年×50年×のべ2000億人×1垓回/人・秒=3e+40=3正の計算が必要ということになります。(いやー「正」なんて単位は初めて見ましたね。それでも不可思議(e+64)、無量大数(e+68)といったところに比べれば、多すぎて手に負えないとまでは行かないでしょう...)
 ただし注意しなければならないのは、これは人間の脳の中の事象だけをシミュレートした時の計算回数ですので、この世界を構成するすべての要素をシミュレートしようとしたら、やはりとんでもない回数になるはずです。

(2)技術の進歩はすぐには止まらない
 これまでも人間はとてつもない技術の進歩を遂げてきました。自分が子供の頃は夢のまた夢だった人工知能(AI)も、あっという間にチェスや囲碁では人間を凌駕するまでになりました。この勢いでいけば、人間はいずれ神の領域にも達してしまうかもしれません。
 (1)で試算した「意識」をシミュレートする計算回数も、実行可能なコンピュータを発明してしまう可能性は十分にあります。(注目を集めている、量子コンピュータも大きなブレークスルーでしたし、今後も同じようなブレークスルーが起きるでしょう)

(3)高度に進化した文明は自滅を免れる
 アトランティスやムーのように、文明が高度に発展すると必ず滅びてしまうというなら、(2)の技術進歩が究極的なところに至ることはできません。文明が高度に進化して「Great Filters」と呼ばれるバリアを築くことで、核戦争や隕石の衝突・気候変動などのインパクトにも耐えられる世界が作れるでしょう。

(4)高度に発展した文明はシミュレーションを求める
 人類はこれまでも自らよりも下等な動物に対して、様々な分析やシミュレーションをしてきました。人類が高度に進化した先の存在「ポストヒューマン」なら、今の人類のレベルをシミュレーションしようという動機は十分かもしれません。

(5)大量のシミュレーションがあるならば、その中の一つに人類が住む可能性がある
 ポストヒューマンが際限のないコンピューターの力を手にし、数百万もの宇宙をシミュレートすれば、その中には数十億の意識ある(ように見える)生き物が存在することになり、その中は我々が含まれている可能性は十分にあるでしょう。

 ニック・ボストロム氏のこれらの仮説は、現時点で正しさを証明できない多くの仮定にもとづいていています。逆に言えば誤りを証明することもできない仮定ですから、「正しいとも間違っているとも判断できない」「可能性としてはあり得る」というのが自分の思うところです。もちろん、ここにリアルに存在する自分というものも、リアルに感じる太陽の光もそよぐ風も全てがシミュレーションなんだと言われると、感情的には違和感アリアリですけどね。

2018年5月28日月曜日

「神が存在する」ことを数学的に証明しよう

「神が存在する」と数学的に論理展開できるか? - GIGAZINE:

 今回はなんだか途方も無い命題ですが、「神が存在する」ということを数学的に証明してみようという試みをYouTubeで見つけたので、紹介させていただこうと思います。この動画は、YouTubeチャンネル「AsapSCIENCE」によるものです(↓)。
 

 「神は存在するか」。それは、宗教や思想・道徳といった世界の命題で、数学や科学・物理といった世界とは対極に位置するように思えます。しかしこの命題に誰もが納得のいく形で、論理的な答えが与えられたことは無いのではないかと思います。この動画で説明されているところも、そういう意味では本当に誰もが納得行くには至っていませんが、できるだけ論理的で冷静な態度で説明しようとしたというスタンスだと思います。

 論理は「背理法(あるいは帰謬法)」と呼ばれる証明方法です。前提となる条件「神はいない」を真とするならば、人間が現在の形で存在できるはずがない。現に私たち人間が存在している事実があるのだから、その前提条件は偽である...という論法です。これは次のような説明の方法もあるでしょう。神が存在するかどうか、人間が存在するかどうか、という2つの事象を2×2のマトリクスにします(↓)。しかし、現に人間は存在していますので、上半分は除外されます。左下の事象「神は存在しないが人間は存在する」と考えた場合、それはとんでもない偶然の代物ということになります。一方で右下の事象「神が存在し人間も存在する」と考えた場合、神が人間を創造するかどうか分かりませんが、少なくとも先ほどよりは確率が高いと考えられそうです。


 しかしこの論法は、大きな欠点があります。それは、存在するかしないかという二項対立で考えていることで、実際には存在するとしてもその存在の仕方は何通りも考えられるかもしれません。例えば、日本には八百万の神という考え方があって、それは唯一の神が存在するのではなくありとあらゆるところに神が宿るという考え方です。数学者のジョーダン・エレンバーグ氏によれば、「唯一の神を想定する場合に人間が存在する確率」は数10億分の1〜数10兆分の1という確率であるのに対し、「複数の神々を想定する場合に人間が存在する確率」は約40万分の1なのだそうです。いったいこの数字の根拠はなんなんだろうと思いますが、神が多ければ多いほど人間を創造しようという "変わり者" の神がいる確率が上がると考えれば、一応は納得できる考えです。二項対立ではなく三項で考えれば、複数の神が存在するという項目が一番もっともらしいということになります(↓)。


 しかしもっと突き詰めて考えれば、三項どころか四項も五項も、いやもっともっと出てくるかもしれません。例えば「シミュレーション仮説」という考え方です。ここに現に存在していると思い込んでいる私たち人間もこの世界も、実はもっと高度な文明を持つ存在(例えば宇宙人!?)がコンピュータでシミュレーションしている世界なんだという考え方です。例えば私たちがテレビゲームの中でロールプレイングゲームをするとき、そのゲームに登場するキャラクターたちは自分が誰かのシミュレーションの世界に生きているとは気づかないでしょう。同じように、我々が誰かのシミュレーションの中の存在だとしても、それを気づくことはありません。実はシミュレーション仮説については、一度この山ちゃんウェブログでも取り上げたことがあります。シミュレーション仮説を否定する人はいますが、否定派の根拠が納得性に乏しく、否定はできないという立場です(もちろん肯定するための証拠があるわけではありませんので、肯定も否定もできず可能性としてはあり得るというスタンス)。

 つまり、数学的な論理展開から「神が存在しない」よりは「神が存在する」確率の方が高いということは説明されます。しかしまた同様に、「唯一の神が存在する」よりも「複数の神が存在する」確率の方が高く、それよりもさらに「我々の存在や世界は誰かのシミュレーションである」確率の方がもっと高いということになるでしょう(↓)。もちろん、現在の私たちの考えが及びもつかない、もっともっと高い確率の前提が存在するのかもしれません。

2018年5月26日土曜日

「日大アメフト問題」で思い出す「星野君の二塁打」

 今回は旬の後半に差し掛かっている「日大アメフト問題」と、そこから思い出した、小学校の道徳の授業で使われる教材「星野君の二塁打」について。今さら言うまでもないですが、日大アメフト問題と言っているのは、5月6日の日本大学対関西学院大学のアメリカンフットボールの定期戦で、日大の宮川泰介選手が関西学院大学のクォーターバックの選手へ危険タックルした問題で、にわかに世間の話題となりました(↓)。宮川泰介選手が1人で開いた記者会見で「指示された」と名前をあげた日大の内田前監督と井上奨前コーチは、会見で宮川選手の証言を否定。「指示はしていない」「怪我をさせろとは言っていない」などと弁明し、お互いの主張が対立しています。


 ここで思い出すのは、今回元記事として挙げている「星野君の二塁打」という道徳教材です。今年の4月から小学校で道徳が教科化され、これまでは教科外の活動として成績評価の対象外でしたが、2015年の学校教育法施行規則改正を受けて、道徳は「特別の教科」に格上げされました。その道徳教材で、意見が真っ二つに分かれる「星野君の二塁打」。青空文庫の元記事を要約すると、こんなストーリーです。

 予選大会でバッターボックスに立つ星野君に対し、監督はバントの指示をします。星野君は今回は打てそうだから打たせてくれと監督に言いますが、監督は聞く耳を持ちません。星野君は、バントすることなくバットを振り、打球は伸びて二塁打に。この一打がチームを勝利に導き、選手権大会出場を決めました。しかし翌日、監督は選手を集めて重々しい口調で語ります。チームの作戦として決めたことは絶対に守ってほしいという監督と選手間の約束を持ち出し、みんなの前で星野君の行動を咎めます。「ティームの作戰としてきめたことは、これに服從してもらわなければならない」「自分勝手なわがままは許されない。ギセイの精神のわからない人間は、社會へ出たつて、社會を益することはできはしないぞ」と語り、星野君の本大会への出場禁止を告げます。(一部旧仮名遣いや旧字体は原文ママ)

 個人プレーとチームプレーのどちらを優先すべきか。なかなか悩ましいテーマですが、教材では迷うことなく前者を断罪しています。確かに、選手が監督の「作戰」を無視して、てんでバラバラにプレーしだすと、強いチームを作ることはできないでしょう。しかし「ティームの作戰」とは言ってはいますが、元記事を確認すれば、その「作戰」は選手みんなで決めたものではなく監督の一方的な指示です。ちょっと論理の飛躍はありますが、じゃあ監督がタックルで相手選手に怪我をさせろと言ったら、選手は危険プレーをすべきなのでしょうか。

 GREENY 隠さん氏のブログ記事では、「キャプテン翼」の中の似た話題としてロベルトが翼に自分の判断を大切にしていいと教えているシーンが紹介されています(↓)。


 教育の現場でもある学生スポーツという場であることを考えると、この問題は2つとも正解ではないかと思うのです。小学生の子どもを持つ親としては、星野君の二塁打のようなチームプレーの重要性も学び、同時にキャプテン翼のような「上の人に絶対服従ではなく自分の考えをしっかり持つ」ということの重要性も学んで欲しい。つまりは「多様性」。道徳の授業としては、どちらかが一方的を正解として押し付けるのではなく、両方の考えを持ちながら臨機応変に使い分けられるよう指導してもらいたいなあと思います。

2018年5月25日金曜日

もうJavaアプレットは使えない。Java8も11に移行しなきゃ

もうJavaアプレットは使えない、移行が急務に | 日経 xTECH(クロステック):

 先日、人気プログラム言語ランキングで、PythonがJavaを抜いて一位になったという話題について書きました。自分が入社した時まだ新興勢力だったJavaですが、自分はそこに明らかな勢いを感じて、これからの時代はC++じゃなくてJavaなんだなんて言っていたものです。その後、見立て通りにエンタープライズ系・Web系、最近ではAndroidスマホなど適用範囲が広がり、長年首位の座を守ってきたJavaですが、ついにその座を明け渡す時が来ました。その原因として、人工知能やデータサイエンス分野で人気のPythonの勢いもそうですが、一方でJavaの方も大きな転換点を迎えているようです。今回は大森敏行氏と安藤正芳氏の記事を元に、そんな話題を。

 Javaをもともと開発したのは米Sun Microsystems社でしたが、その後米Oracleに吸収合併され、現在はOracle社としてメンテナンスや継続開発が行われています。Javaの開発実行環境はJava SE(Java Platform, Standard Edition)と言いますが、今現在で最も長くサポート期間が残っているのは、Java SE 8と呼ばれるバージョンです。無償サポートは2019年1月、有償サポートは2025年3月までです。基本的には、この期間が過ぎると、セキュリティホールが見つかっても対策してもらえないということになります。

 その後の2つのバージョンJava SE 9と10は、残念ながらサポート期間は短いので、普通にJava SE 8から乗り換えようとすると、LTS(Long Term Support)のバージョンJava SE 11が最有力候補になります。このバージョンは、2018年9月にリリースして2026年9月まで有償サポートが提供される見込みです。少し複雑なのですが、Oracleが提供するJavaは有償サポートになりますが、基本的には同じ環境がオープンソースのOpenJDKとしても提供され、同じ環境が有償版と無償版の2種類あることになります。厳密には違いますが、ちょうどRed Hat Enterprise Linux(RHEL)とCentOSのような関係と理解しておけば、大きく外していないでしょう。そして、オープンソース版OpenJDKのJDK 11も、有償版と同じ期間サポートが提供される見込みです。

 なんだ、これまで無料だからJavaを使っていたのに、急にサポートが切られて有償版に移行せよと言われるのかと思ったら、ちゃんと無償版も準備されているじゃないか、これで一安心...だと思ったら実は大間違いだ、というのが大森氏と安藤氏の記事の主旨なのです。実はJava SE 8からJava SE 11(OpenJDKのJDK 11)へ移行するには、2つの大きな非互換性があるのです。それは「既存のライブラリやフレームワークが動作しなくなる可能性」と「JavaアプレットとJava Web Startの廃止」です。

 まず「既存のライブラリやフレームワークが動作しなくなる」という問題ですが、この問題を解く鍵は実はJava SE 9にあります。サポートが短いからとスキップしたこのバージョンで、実はモジュールシステムという大きな機能が追加されました。この機能は、あるアプリに必要最低限の機能だけを組み合わせた実行環境を作ることができるというもので、それに伴い「内部API」が使えなくなったのです。内部APIというのは普通のユーザープログラムが直接使うことはありませんが、仮想マシンやメモリーなどを直接操作できるAPI群のことです。ユーザープログラムが使うことがないならいいじゃないかと思うかもしれませんが、Javaプログラムは、Java SEとユーザープログラムだけで動いていることは滅多にありません。通常は、サードパーティ製の豊富なライブラリやフレームワークを組合わせ、ユーザープログラムはライブラリやフレームワークありきで作られています。そして、そういった便利なライブラリやフレームワークこそ、「内部API」がたくさん使用されています。大森氏と安藤氏の具体例によれば、Spring BootとWebSphere Application Server Libertyは少なくともJava SE 9で動かなくなったそうです。継続的に開発が続いているライブラリやフレームワークであれば、その対策版が出てくるので、我々があまり心配する必要はないかもしれません。しかし、問題は開発が終了してしまったようなライブラリやフレームワークです。そういったものは、今回のJava SE 11への移行で軒並み動かなくなってしまう可能性があるのです。

 そして、2つ目の「JavaアプレットとJava Web Startの廃止」です。JavaアプレットはもともとJavaの人気のきっかけになった技術で、ブラウザ上でJavaのUIプログラムを動作させられる技術です。FlashやSilverlightと同列の技術ですが、HTML5とJavascriptに取って代わられました。Java Web Startは、アプレットが廃れた後に出てきた技術で、JavaのGUIプログラムをユーザーに配布する技術でしたが、イマイチ広がらなかた気がします。このJavaアプレットとJava Web Startの廃止は、自分には大きなショックでした。自分がこれまで関わってきた製品の中にJavaアプレットを採用したシステムがあり、すでにその製品は他社に移管されてしまっているのですが、ちゃんと移管先でHTMLとJavascriptに移行計画が作られているかどうか心配なところです。

 ひとくちにJavaと言っても、アプレットやサーバーサイドJava、各種フレームワークやライブラリにスマホ上や組込み系で動くJavaなど、非常に広範囲にわたっています。これほど世界の隅々にまで行き渡ってしまったJavaが、Oracleというどちらかというとユーザに優しくない(失礼!偏見かもしれません)企業に持たれていることは、若干の不安を煽ります。実は自分はしばらくJavaの世界から遠のいていたのですが(Java SE 8までは追いかけていました)、その間にこんなにもドラスティックな変化が起こっていようとは。薄々聞いてはいましたが、いざ詳しく聞いてみると、その行く末が少し心配なところですね。

2018年5月22日火曜日

1÷0 は本当にルール違反なのか

Why can't you divide by zero? - TED-Ed - YouTube:

 今回はYouTubeの動画から、0で割れないという数学の特殊ルールについて。0というのは不思議な数字で、今のわれわれには当たり前に存在する数字ですが、古代インドで数としての「0」の概念が確立されたのは5世紀頃と言われています。それまで0が存在しなかったかといえば実はそうでもなく、紀元前500年頃のメソポタミア文明では例えば楔形文字で502のような数字を表すとき、十の位は専用の楔を書くことで52と502を区別していました。しかし、数としてのゼロ(0、何もなし)は、5世紀のインドまで確立していませんでした。

 数学の世界では、奇妙で不自然だとしてもそう定義してしまうことで論理がうまく展開できるという理屈で存在するモノがいくつかあります。例えば「虚数」。二乗して負の数になるという現実にはあり得ない数ですが、そういう数が仮にあるとすれば様々なことがうまく説明できる、そんな場合に、もうそういう数があるものとしてしまう。0という数はある意味これに近い出自かもしれません

 そして、0という数の特殊性は、0で割算することができないという特殊ルールがあることで際立っています。ようやく本題ですが、今回ご紹介する動画は、この「0で割れないワケ」を分かりやすく説明しています。


 例えば、 10÷1=10, 10÷2=5, 10÷5=2, 10÷10=1 のように割る数を大きくしていくと、答えはどんどん小さくなって行きます。この流れでいけば、0で割れば「無限大∞」になる、ということにすればうまく行きそうな気がしませんか。そもそも0も∞も本当にある数ではなく概念なんだと思えば、0で割れば∞、∞で割れば0 と "定義" してしまえば良さそうです。しかし、残念ながらその定義は、その後の論理に破綻をきたします。

 ある数で割るということは、その数の逆数を掛けるということです。つまり「1 ÷ 0 = ∞」とすれば、それはこういうことです(↓)。
この式は
  0 × ∞ = 1 …(1)
と変形でき、さらに同じ式を2つ足せば
  ( 0 × ∞ ) + ( 0 × ∞ ) = 1 + 1
  ( 0 + 0 ) × ∞ = 2
  0 × ∞ = 2 …(2)
と変形できてしまい、(1)と(2)から
  1 = 2 …(3)
が導き出されてしまい、これは明らかな矛盾です。「0で割ると∞」と仮定したところ矛盾が起きるのでその仮定は間違いだとする、「背理法」と呼ばれる論法です。

 この式の展開で、(3)は明らかな矛盾だと切り捨ててしまいましたが、現実の数学者はもっと深く考えるようです。(3)は本当に間違いなのか、(3)を間違いとするのは我々の自然数学の中ではそうですが、特殊な数学の世界観の中では正しいかもしれない...と。そして、そんな特殊な数学の世界が「リーマン球面」(↓)です。無限遠点を一点追加して複素平面を拡張する手法で、リーマン球面の考え方においては、無限遠点
  1 ÷ 0 = ∞
は、整合的で有用なのだそうです。

なんだか小難しい「リーマン球面」の世界では「0で割ると∞」という定義が意味をなしますが、普通の我々の世界ではこの定義は矛盾を導き出してしまう仮定ですので、0で割ると言うことそのものをルール違反とするのが都合がいいわけです。つまりは「ご都合主義」なんです。

 動画でも言っていますが、0で割ることは有用ではないので、0で割れないというルールは守るべきなのです。しかし、もし0で割れたらどうなるのだろうか、そこにはどんな世界があるのだろうか、という想像力は持ち続けたほうがいいのかもしれません。我々の日常生活でも当たり前だと思ってきたことをちょっと疑ってみる、当然こうだと思ってきたことがもし崩れたらどんな世界が広がっているだろうかと想像してみる。そんな自由な思考ができると素晴らしいですね。

2018年5月19日土曜日

PythonがJavaを抜いて初の首位に!

PYPL PopularitY of Programming Language index:

 今回はプログラミング言語に関する話題ですが、なんと、ついに、PythonがJavaを抜いたという話題です。元記事は、PYPL(PopularitY of Programming Language)の統計記事ですが、これはGoogleの検索エンジンでプログラミング言語のチュートリアルが検索された回数を元に、各言語がどれくらい話題になっているかを集計した結果です(↓)。

 もちろん、Googleの検索だけがプログラミング言語の人気を表しているわけではありませんし、他の調査では多少異なる順位を出しているものもあります。しかし、この調査結果からどの言語がホットなのか、傾向くらいはつかめるでしょう。そして今回、ついにPythonがJavaを抜いて首位に立ったそうです。これまでも、Pythonは右肩上がり、Javaは減少傾向だったので、やがて順位が入れ替わるのは時間の問題と言われていたわけですが、いざJavaがPythonに抜かれたことを目の当たりにすると、なんだか感慨深い気がします。

 Javaは、もともとブラウザ上で動くアプレット(Applet)という仕組みが注目を集めましたが、一部の計測系システムで使用されたもののあまり流行ることなく、やがてWebサーバー上で動く「サーバーサイドJava」と呼ばれる仕組みが一世を風靡しました。エンタープライズ系システムでは、今でも最もよく使用されている言語の一つですし、自分が仕事で使うメインの言語でもあります。一方、Pythonは、科学技術系や数学系を中心に発展してきた言語で、何と言っても人工知能(AI)の目覚ましい発展がこの言語の人気を支えています。GoogleのTensor FlowとかオープンソースのChainerやCaffeなど、AIの実装はだいたいPythonから使うことがきます。機械学習やディープラーニングで多用されるベクトルやテンソル(行列)の計算に長けたNumpy(ナムパイ)や簡単にグラフを描いてくれるMatplotlibなどのライブラリが揃っているのが強みです。

 実際、自分もディープラーニングのプログラムをJavaとPythonでゼロから作ってみたことがあるのですが、Javaで実装しようとすると、簡単なA・B(行列の内積)計算ですらfor文を使わなくてはならないのに対して、Pythonだと「numpy.dot(A, B);」と書くだけ。プログラムの見た目もスッキリするだけでなく、Numptyの内部は実はネイティブ言語で最適化されているので、コンパイル型のJavaよりもインタープリタ型のPythonの方が計算が早かったことを覚えています。

 プログラム言語の流行り廃りは、テクノロジーの変遷を反映しているような気がします。自分が会社に入った2000年前後は、Javaはまだ生まれたばかりでしたが、これからはJavaの時代だという気運がみなぎっていました。AIが3度目のブームを迎えた2015年〜16年ごろも、やはり今後はPythonという気運がみなぎっていました。ついに首位の座に立ったPython。今回のAIブームはもうしばらく続きそうな気がしますね。

2018年5月17日木曜日

KPIってナンだ!?

論理的なアプローチでビジネスを成功に導く――KPI設計の実践 - Insight for D:

 今回は昨年(株)ブレインパッドの佐藤洋行氏によって行なわれたYahoo! JAPANのセミナー報告記事を元に、「KPI(Key Performance Indicator)ってナンだ」という話題です。実は最近とみにKPIという言葉を聞くようになりました。KPIを可視化しろとかアクションプランにはKPIを添えろ、とか当たり前のようにKPIという言葉が出てくるようになりました。しかし自分のKPIの理解は、単に「成果を定量的に数値化できる指標」という程度の理解だったので、少しホントのところを調べてみようと思ったわけです。

 のっけから知らなかったことですが、KPIの前にはKGI(Key Goal Indicator)というのがあるそうです。KGIは、最終亭な目標(ゴール)がどの程度達成されているかを定量的に示す指標のことで、KPIよりも先にあるべき概念です。ここで「もし東京五輪日本選手団の強化責任者に任命され『よい成績を残せ』と命ぜられた場合」という佐藤氏のうまい例を引用させて頂きましょう。そうするとまずは「良い成績とはナンだ」ということになります。ここでは単純に「メダル獲得数を多くする」ことと考えると、「成績=メダル獲得数」ということになり、KGIはメダル獲得数としてしまいそうです。

 しかし佐藤氏によれば、KGIの設計手順は
(1)誰が、どのような最終目標を設定するか考える
(2)最重要指標を考える
(3)最重要制約条件を考える
というやり方をします。まず(1)ですが、先の考えではすぐに「メダル獲得数」にジャンプしましたが、ビジネス的にもう少し前の段階「支援団体が喜ぶ結果を出し、今後も資金援助してもらうこと」を最終目標としましょう。そして(2)ではこの最終目標をどうやって計測するかと考え、「メダル獲得数」へたどり着きます。そして自分はこれをそのままKGIとしてしまいそうだったのですが、佐藤氏の模範解答は(3)の概念を入れたものです。「制約事項」はビジネスの世界では、ヒト・モノ・カネのことだと考えればだいたい合っています。ここでは「カネ」、つまり費用が最重要の制約条件ということにしてみましょう。すると、KGIは
と表すことができます。ポイントは、実際のビジネスの場で制約がないシチュエーションはありませんので、制約事項との比の形で表すことでしょう。

 そして、目標の達成度合いは上記のKGIの数値を最大化することに置きかわります。KGIを最大化するためには、当たり前ですが分子を最大化し分母を最小化することです。この分子・分母の部分も立派なKPIで、KPIというのはKGIを達成するための中間的な目標指標ということになります。

 理想的で典型的なケースは、この図(↓)のように全てのKPIを組み合わせるとKGIになる、KGIをモレなくダブりなく分解すると個々のKPIになるというモノです。ちなみに、モレなくダブりなくというのは、ビジネスの世界ではMECE(読み方はミーシーかミッシー、Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)と言われます。しかし実際は全てをMECEに分解することはできませんし、たとえ分解できても全てを計測するのもバカげているので、こうやって分解された要素の中からKPIとして相応しい要素(KGIに大きな影響を与える項目、かつ意思決定者の意思を表す項目)をKPIと設定します。

 この分解の方法について、佐藤氏は3種類のロジックツリーで考えることを推奨されています。それは
(1)Howツリー
(2)Whyツリー
(3)Whatツリー
です。(1)は施策を導き出すとき、(2)は真の課題を浮かび上がらせるシチュエーションで有用ですが、ここでは(3)を考えてみましょう。先のKGIの分子・分母がそれぞれ「何」で構成されているかを考えます。ポイントは、分解後の要素を足したり掛けたりすることで分解前の要素になるかどうか(つまりMECEになっているか)です。佐藤氏のWhatツリーの正解例はこんな感じです(↓)。


 「1名あたり」とか「1種目あたり」という項目がありますが、これは先に述べたポイントであるMECEを守るため、掛け算で1つ上の要素になるように作り出された項目だと理解できます。そしてこのWhatツリーを見ると、同じ項目が上と下のツリーにそれぞれ登場するケースがあることに気づきます。この例では「種目数」「選手数」「1種目当たりの平均出場選手数」というのは、分母にも分子にも影響を与えるのですから、数値が上がればメダル獲得の期待も高まりますが同時に費用もかさむという「ジレンマ」の項目です。そして、「1名当たりの平均出場種目数」と「1種目当たりの平均出場選手数」は、別の項目に見えて実は逆数の関係になっていますので、深い関連があることになります。もう一つ、制約条件にも着目する必要があります。例えば「1種目当たりの平均メダル獲得数」はどう頑張ったって金・銀・銅の3つが上限ですし、1名当たりの平均出場種目数も体力や日程・種目の特殊性を考えると、無条件に数を増やせるものではありません。

 残念ながら元記事からは、これら
(1)最重要指標と最重要制約条件に共通している要素
(2)要素間にある重要な関連
(3)各要素の制約条件
について考慮する必要があるとは言われていますが、具体的にどう扱うかは少しブラックボックスです。これらを考慮した上で、どの要素をKPIと定めるかは「責任者の意思決定」だとされています。置かれているシチュエーションから最重要指標と最重要制約事項の「重み」を考え、例えばカネはいくら掛かってもいいから参加する種目数を増やすという判断もアリです。

 そしてKPIとする項目を決めたら、その数字をどう定義するかという問題が残ります。やりがちなのは「前回の実績を上回る」というものですが、佐藤氏はこの定義方法はオススメしないそうです。確かに自分が以前、省エネシステムの開発に関わった時、前年の「電力使用量を下回る」というKPIを設定したことがありました(当時はKPIという言い方はあまりしませんでしたが)。しかし前年が「冷夏」、その年は「猛暑」だったので、冷房エネルギーのベースが大きく異なってしまって、このKPIはとても高いハードルになってしまいました。佐藤氏のオススメは、「相対評価」です。国際大会の場合は「他国を上回る実績を残す」というような定義の仕方が良いのだそうです。

 KGIそしてKPIの設定方法を、シンプルで例を元に勉強してみました。実際の現場では、こんなにシンプルに考えられるケースは少ないでしょう。最近自分は、仕事上のKPIを定義しないといけない状況で、元記事のような本来あるべき設定法は許されれず、とにかく「カネをどれだけ稼いでくるか」という視点だけで定義しなければならないという枷がかけられて困ったことがあります。自分のような設計開発部署はいわゆるコストセンター(経費部門)なので、プロフィット(利益)をKPIにせよと言われても、どう定義すれば良いのか途方に暮れました。自分のケースはそもそも上層部がKPIを正しく認識できていない、レベルの低いケースですが... 実際の運用にそのまま適用できるわけではないかもしれませんが、あるべきKPIの定義方法として覚えておくと良さそうですね。

2018年5月12日土曜日

最先端ロボットは不気味の谷を越えたか

(610) Getting some air, Atlas? - YouTube:

 今回はロボットの最前線の動画がYouTubeで公開されていたので、その動画のご紹介と「不気味の谷」は見た目に対して厳しくても動きに対しては寛容なのかもという話題です。そのロボットとは、以前、足で蹴られても転ばない四足歩行のロボットに対して、「かわいそう」なんていう的外れなクレームが出ているという文脈でご紹介したことがある、あのBoston Dynamics社が開発するAtlasです。

 2日前に公開されたその動画がこちら(↓)。「二足歩行」どころか、もはや「二足走行」ですよ!

 モーションキャプチャって技術があるじゃないですか。こんなやつ(↓)。人間が走っているところとAtlasが走っているところのモーションキャプチャ動画を見比べても、もしかしたら専門家でも見分けつかないんじゃないかとすら思えてきます。もはや「見た目」がロボットロボットしていること以外は、人間そのものの動きじゃないかとすら思えます。

 しかしあえて言うなら、途中で丸太をジャンプするところは、少しロボット然とした動きになっている気がします。それでも、昔見た映画「ロボコップ」の動きとも十分に渡り合えるくらいじゃないでしょうか。(2014年のリメイク版じゃなくて、オリジナルの1987年版の方の動きですよ)

 そして同時に公開された四足歩行ロボットの動画の方はこちら(↓)。階段を降りるときに後ろ向きになるところがなかなかキュートですね。こちらのロボットの動きは、犬や猫の動きに寄せるというよりも、もっと実用性を追求してのものに見えます。経路を逐一プログラムするのではなく、目的地を告げればそこへ行ってくれる、そんな産業向けか介護とか人間の補助にも適用できそうですよね。

 ロボットをどんどん人間に似ていくと、それを見る人の中にはある時点で違和感・恐怖感・嫌悪感・薄気味悪さのような負の感情が生まれます。そこのとを「不気味の谷」と言って、これまでこの山ちゃんウェブログでも何度かご紹介してきました。

 今回は「見た目」ではなく「動き」を人間に寄せてきているロボットですが、「見た目」を寄せたときに感じる不気味の谷よりも、「動き」を寄せたときの不気味の谷の方が「低い」気がします。つまり、見た目が人間に似ているロボットを見るとついつい粗探しをしてしまいますが、動きが人間に似ているロボットを見ても寛容な感情に包まれやすいんじゃないかと。見た目が人間に似ていると、認知においてこれは人間なのかロボットなのかはっきりせず不安になるので、ロボットだとはっきりさせようとバイアスがかかる。それに対して、動きが人間に似ていても見た目がロボットだと、認知の中ではロボットだと断定されるので、その安心感から寛容な気分になれるのかもしれない、なんて思います。

2018年5月9日水曜日

スマホに毒された世界

思わず「ドキッ!」とする社会風刺画14選。 | TABI LABO:

 今回の元記事は2年以上も前なのですが、Jean Jullien氏による社会風刺画を小川真吾氏が投稿されていた記事です。テクノロジーに依存した社会がモチーフとされていますが、実際は見事にスマホ関係のネタばかり。2年前の時点で、すでにスマホ全盛の世界になっていたことがわかります。そんな中から、今回は自分のお気に入り5枚をご紹介したいと思います。

 最初はこの写真。Jullien氏はフランス人イラストレーターなので、おそらくフランスの電車がモチーフなのでしょうが、日本の通勤電車だともっと酷く、ぎゅうぎゅうに押されながらも目の前にスマホを見ている人のなんと多いことか。実はこの前、スマホを家に忘れてそのまま電車に乗ったのですが、あまりの手持ち無沙汰ぶりにびっくりしました。そんなつもりでなくても、自分もスマホに毒されているんだなあと。

 次も同じ方向性の風刺画で、タイトルをつけるとしたら「現代版家族団らん」といったところでしょうか。自分が子供の頃、食事時にテレビを見るのはやめようとか、食事時くらいはお互いの顔を見て食べましょうなんて言われたものですが、現代版は究極的にパーソナライズされたスマホ(やタブレット)がその槍玉に上がるのでしょう。

 次もやっぱりスマホ関係。これまでとは逆に、現代における「真の自由」とは「スマホを持たないこと」だというパラドックス。スマホを持っているだけで常に誰かと繋がっている気がしますが、そういったものから解き放たれて誰とも断絶された孤独こそ「自由」とは、現代人の闇の深さを感じませんか。

 「インスタ映え」なんて言葉が一世を風靡しましたが、食べ物を「食べる対象」としてではなく「撮影して世界中に見せる対象」と捉える人がいます。ネットでは彼ら(女性の方が多いという話もあるので「彼女ら」と言う方がいいかもしれませんが)を、揶揄を込めて「インスタ蝿」なんて呼ばれますが、本人たちはいたって本気です。美味しく食べるよりも綺麗な写真が優先、目の前の人に「美味しいね」と言うより顔の見えない誰かに「いいね」と言われる方が優先とは。

 最後はこちら。最近は少しこの傾向は少なくなった印象ですが、せっかくのライブパフォーマンスをスマホのレンズ越しに見る人々が描かれています。画面のなかのパフォーマンスで満足なら、今時ならYouTubeで十分でしょう。コレとはちょっと違いますが、自分の場合、子どもの運動会とかお遊戯会で、ついつい撮影に夢中でカメラのレンズ越しになってしまうことがあります。記録と記憶。例えば、子どもたちが大人になって夫婦2人だけになった時に、一体どちらが思い出話に花を咲かせられるのか。意外にも、記録の方かもしれませんが。

いかがでしたか。もはやスマホなしでは生きられないと言う人も多いんじゃないでしょうか。かく言う自分も、スマホでモバイルSuicaを登録してしまったので、もはやスマホなしで電車に乗ることはないでしょう。人のライフスタイルを大きく変えてしまうテクノロジー。これからはその主役が、人工知能(AI)やIoT(Internet of Things)などに移っていくのかもしれません。

2018年5月7日月曜日

AIさまの言う通り

『AIさまの言う通り』みらいのつぶやき 1分で読める少し不思議なショートショート 7 【毎週水曜日に更新中!】 | TABI LABO:

 今回は「TABI LABO」の「みらいのつぶやきプロジェクト」から、つちやみ氏の原作・マッチロ氏のイラストによる記事を2つご紹介したいと思います。「みらいのつぶやきプロジェクト」はその名の通り、将来こんなつぶやきがされるのかなぁという内容を、つちやみ氏のどきっとするショートショートとマッチロ氏のイラストで楽しめるようになっている記事で、最近の自分のお気に入りです。今回は元記事の文章の会話文を抜き出して、そのエッセンスを感じてみましょう。

1)「AIさまの言う通り


「おい、進路宣告、どうだった?」
「自分は営業マンと判定されたよ。人に対する興味の値が、高いらしい」
「すごいじゃないか。おれなんて、歌唱能力が、少し高いと言われたくらい」
「しかし、自分がなりたいのは、機械技師。なんとかこの道を選べないものか」
「なんだって。判定の結果に逆らうつもりかい。自分の浅はかな考えより、あらゆるデータから導き出された、宣告に従うべきなのは、当然じゃないか」

 人工知能(AI)の適用先として意外にマッチするのが、人事評価や採用などの分野だと言われています。実際、採用面接をAIがやってくれる「SHaiN」というサービスが注目を集めたり、ヒューマンリソース(人材)業務を効率化する「HRテック」という言葉が生まれたりしています。近い将来、人事部長はAIなんてことも十分にありえそうです。

 その先には、つちやみ氏のつぶやきのように、人の将来の適性を見極めるという分野への応用は十分に可能に思えます。入社後の配属先だとか、高校や大学の進路相談とか。早いうちに人の適性が正しく判断されれば、「適材適所」にとってこんないいことはありません。能力もないのにプロ野球選手を目指したり、適性もないのに勉強を頑張ったりする必要がなくなるわけです。しかし、勉強・スポーツ・芸術のどれにも適性がないと、幼少時代に判定されてしまうリスクもありそうです。適性が正しく判断されることは、「可能性」という言葉で曖昧にしてきた将来を灰色にしてしまうかもしれません。

2)「ママ、僕、労働で生きていく!


「ママ、僕、労働で生きていく!」
「何言ってるの、労働でなんて生きていける訳ないじゃない。なんでも機械がやってくれるこの時代に、労働で生きていける人なんて、ほんの一握りよ。私たち普通の人は、歌を歌ったり、絵を描いて、暮らしていくしかないの。分かったら、お歌の練習してらっしゃい」

 シンギュラリティという言葉とともに、AIによって人間の仕事が奪われていくというストーリーが語られることがあります。この山ちゃんウェブログでも、AIと仕事についてのテーマで何度も記事を書いてきました。従来はいわゆる肉体労働は機械にとって代わられ、頭脳系労働のうちでも単純なものがコンピュータに取って代わられてきました。そして、今後は頭脳系労働のうち「頭の良さ」を必要とする複雑で高度な仕事もAIに取って代わられようとしています。

 確かに現在のところAIのコストパフォーマンスは高いとは言えません。しかし確実にその弱点を克服しようという研究開発は進むはずで、やがては人間に残される仕事は芸術系かホスピタリティのような分野だけかもしれません。あるいは、もはや労働をする必要は無くなってしまい、面白おかしく「暇つぶし」をするだけの人生になってしまうのかもしれません。労働から解放されたいと願った人類の行き着く先が、虚無の楽園かもしれない、なんてことを考えさせられます。

2018年5月4日金曜日

セクサロイドに未来はあるか

Why we should all be having sex with robots:

 今回はちょっと社会とテクノロジーのタブー領域「セクサロイド(sexaroid)」に関して、Christine Ro氏の記事を元に考えてみたいと思います。「セクサロイド」については過去に一度書いたことがありますが、いわゆるアンドロイドやロボットのうち人間とのセックス機能を全面的に打ち出したもののことを言っています。

 例えば先日、Abyss Creations社のRealbotixプロジェクトから製品化されたRealDoll Xシリーズ(↓)は、「animagnetic」と呼ばれる駆動系によって、会話に合わせて口を動かしたり、首や目・まぶたなどまるで人間のように動きます。AIシステム「harmony AI」によって、パートナー・友達・恋人と振る舞いを切り替えられます。自分にはまだ「不気味の谷」を感じるデキかなあと見えますが、人型ロボットのホントの最先端技術が適用されるようになれば、もっと人間と見分けがつかないほどにできる可能性が高いと思います。


 「セクサロイド」という存在に関しては、賛否両論があることは否めません。例えば否定派と肯定派の意見として、以下のようなものが挙げられるでしょう。

1)否定派の意見の例
・ロボットとセックスするという考え自体が非常に不快。
・無生物と寝ることは哀れで気味が悪い。
・性的コンテンツは昔から道徳的な人間から非難されてきた。
・セックスロボットの登場は、人をモノとしか見なくなってしまう懸念がある。
・完璧なセックスロボットに、不完全な人間は勝てなくなってしまう。

2)肯定派の意見の例
・人間は以前から性的な喜びを得るための機械を使ってきた。
・機械文明発達前でさえ、人間は性的経験の一部として「モノ」を使用してきた。
・セックスロボットはセックス初心者の訓練相手になりうる。
・障害を持つ人や老人に価値あるサービスを提供しうる。
・ポルノのように、状況に応じて人間二人のカップルにとって有益になりうる。
・人間のパートナー不在のときの代わりになりうる。
・人間を置き換えるのではなく、補完するものと考えるべきである。

 はるか昔から性的コンテンツはタブー視されていて、実感としてヒステリックな反対派が一定数いるだろうと想像がつきます。最近でこそ、風俗とか水商売・AVのような「対人間型の性的コンテンツ」には寛容な社会になってきましたが、一方でダッチワイフとかバイブレーターなど「対モノ型の性的コンテンツ」にはまだまだ拒否反応が強いのも事実だと思います。日本ではその中間としていわゆる二次元モノがありますが、こちらは「オタク」文化と位置付けられていることからも「対モノ型」に近いのかもしれません。

 そして「セクサロイド」です。セクサロイドは明らかに「モノ」ですから、まだまだ拒否反応が強い性的コンテンツだと思いますが、面白いことに上記の否定派の意見の中にはこれが「対人間型の性的コンテンツ」を脅かす存在になりうるという恐怖感が見て取れるものもあります。一方で肯定派は、これをあくまでも「対モノ型の性的コンテンツ」と捉えて、社会的に有効活用する手段にまで視野を広げています。否定派と肯定派の意見を並べてみたとき、自分としては肯定派に一票入れたいと思います。それはセクサロイドに賛成というよりも、面白いことに、道徳的な否定派よりもそうでない肯定派の方が冷静で理性的な態度に感じられるからです。ただ、これが「対人間」と「対モノ」の境界を曖昧にしてしまう可能性については、よく理解できます。セクサロイドの扱いに慣れきった男性が、人間の女性に対してそれと同じように接してしまうようなことがあれば、大きな問題でしょう(なぜかこの手の性的コンテンツの場合、男性の性的欲望を叶える方向性ばかり目につきますが、これからの時代は当然逆パターンも同様です)。

 思い返せば、これまでも性的欲望というのはテクノロジーの発展をドライブしてきたものの一つだったのではないでしょうか。もちろん戦争のような征服欲がテクノロジーを発展の一番のドライブでしょうが、性的欲望というのもそれに次ぐものじゃないかと思うのです。下世話な話で偏見もあるかもしれませんが、90年代、おじさん達にパソコン操作を身に付けさせるのに一役買ったのがポルノだったのではないかと思っています。自分としては「セクサロイド」という分野は、社会的タブーな領域かもしれませんが、人間の歴史を紐解けば必ず発展していく領域でもあると思います。感情的でヒステリックな否定よりも、これを受け入れ、社会的な活用方法を考える方が生産的ではないかと思うのです。

2018年5月3日木曜日

人工知能(AI)の致命的な弱点

消費電力1万2000人分 弱点克服できるか (AIと世界) :日本経済新聞:

 この山ちゃんウェブログでは、人工知能(AI)に関する記事をいくつも書いて来ました。自分自身はAIに直接携わっているわけではありませんが、IoT(Internet of Things)関連の仕事の中で間接的に関わって来ていて、自分がAIのテクノロジーに強く惹かれるのは、社会が大きく変えられる可能性を持っている一方で、確率論による「コントローラブルでない」「不確実性」のような部分があって、報じられる万能性に不安感や不気味さが付きまとう二面性があるためです。

 今回の元記事は約1年前に書かれた日経新聞の記事なのですが、米Google傘下Deep Mind社のAI「アルファ碁」がトップ棋士である柯潔(か・けつ)九段に勝利して「AI万能論」が言われていた中、2つの弱点について指摘している面白い記事です。とは言っても、最初に述べた「AIの不確実性」のような部分の弱点ではなく、現時点のAIが抱えているもっと現実的で泥臭い部分の弱点です。

 AIの一つ目の弱点は、消費電力とコストの問題です。数字だけで言えば、人間の脳は思考時で21ワットのエネルギーを消費しているのに対して、アルファ碁の消費電力は25万ワットです。つまり、アルファ碁は1万2千人分のエネルギーを消費しており、エネルギー効率で言えば、トップ棋士の方に軍配が上がるのです。現在、開発と実証試験が進められている自動運転車も、従来型の半導体では住宅を上回りかねないほどの電力を消費してしまいます。「自動化」によって人間のタスクを肩代わりするという、AI万能論やAIが人間の仕事を奪ってしまうという文脈の中で、AIのエネルギー効率がこれほど人間より劣っていることは、大きな弱点になりかねません。

 このエネルギー効率の悪さを考えると、AIが人間の仕事を軒並み奪ってしまうというよりも、まずは「コスト度外視」の領域での適用が進んでいくという予想が現実的なところでしょう。元記事で紹介されている、韓国の仁川市の嘉泉大学ギル病院は、肺がんなどの診断に米IBM製のAI「Watson」を導入しましたが、クラウド使用料だけで年間10億ウォン(約1億円)もの費用をIBMに支払っており、医師の平均年収1億6500万ウォンの6人分に当たります。これに電力使用や運用コストを考えると、経済的には見合っていないというのが実情のようです。「コスト度外視」が認められる領域だからこそ、適用が進んでいる領域でしょう。

 そして2つ目の弱点は、データに含まれる「不純物」です。現在主流の人工知能は、深層学習などの機械学習がベースになっています。平たく言えばニューラルネットワークと同じ仕組みで、たくさんのデータを元にパラメータを調整していくことで「学習」を行ない、新たな入力に対して正しそうな答えを出すことができるわけです。逆に言えば、「学習」に使用されるデータが「正しい」データでなければ(間違ったデータを学習してしまうと)、正しい答えを出せなくなってしまいます。そして、学習には大量のデータが必要ですので、人間がそのデータの正しさを検証していくことは本末転倒であるばかりか、現実的なことではありません。

 元記事で言われている例では、人の細胞を送るとAIで遺伝病リスクを分析してくれるサービスで、愛犬の細胞を送る人が続出して分析に深刻な影響を与えているという、驚きの事実がありました。危うくオオカミ人間の遺伝子分析をしそうになった、などと揶揄されていますが、笑いごとではありません。SNSで誰しも発信者になれる現代、トランプ大統領が好んで使う「フェイク・ニュース」という言葉に代表されるように、正しい情報と虚偽の情報が混在しています。その中から「正しい」情報だけを選択して学習させるというのは、人間が力技でやるにはボリュームがありすぎるのです。

 実際にAIを導入し運用しようとすれば、今回ご紹介したエネルギー効率の悪さと学習データから不純物を除く手間を考えると、よほどコスト度外視の領域にしか適用できなさそうです。現状ではまだ人間の方がコストパフォーマンスが高く、AIによる自動化が広く進むためには、コスト面でのブレークスルーが必要かもしれません。

2018年4月30日月曜日

これから求められる「頭の良さ」はパターン認識力ではないのだろう

「AIが仕事を奪う」への疑問 いま、“本当に怖がるべきこと”は (1/3) - ITmedia NEWS:

 今回は松本健太郎氏によるITmediaの記事を元に、「AI(人工知能)が仕事を奪う」と言う話題について。実はこの手の話題は興味があって、山ちゃんウェブログでも何度となく取り上げてきた話題です。松本氏が槍玉に上げている英オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授についても、アデコ社長の川崎健一郎氏によるインタビュー記事を取り上げたことがあります。

 松本氏の元記事では、コンピュータ化が今以上に進んで人間が行なっている仕事の多くはAI(人工知能)が取って代わってしまうという「人工知能脅威論」は、過去にあった神話なんだと言われています。確かに「AIが仕事を奪う」と主張する人は、オズボーン氏らの論文「The Future of Employment: How Susceptible Are Jobs To Computation?」を引き合いに出して、定量的に労働人口の47%が機械に代替されると言いますが、松本氏の言われるようにこの数字の根拠はイマイチな気がします。

 論文の中で「定量的」に計算された47%という数字がどのように導き出されたかということをたどると、そう感じます。まずそれぞれの職業に必要とされる数十個のスキルを特徴量として定義し、オックスフォード大学内の有識者がそれを自動化可能=1、不可能=0として教師データとします。この教師データから自動化できると判断できる特徴量を機械学習によって発見して、モデルを作成します。でき上がったモデルを702種類の職業に当てはめて自動化の確率を求める、という仕組みです。そして、自動化の可能性が70%を超える職業に就いている労働人口は全体の47%もいる、だから47%もの人が職を失う、という結論だというわけです。


 松本氏の言われるように、実際に自動化されるのは「タスク」の方であって「職業」ではありません。職業というのは多くのタスクを束ねる上位概念なので、タスクが自動化されることと職業がなくなることは本質的にはレベルの違う話です。自動化が進むことで新たな職業が生まれることも、計算には入っていません。さらに言うならば、計算に使用された教師データも有識者による判断という定性的なものです。結局のところ、オズボーン氏らの論文が「AIが仕事を奪う」と主張する人に拠り所にされたり、反対派の人に槍玉に上げられたりするのは、良くも悪くも47%という具体的な数字で定量的に表されている(ように見える)からなのです。

 松本氏も言われていますが、「AIが仕事を奪う」という意見の賛成派も反対派も、AIによってタスクの自動化がこれまで以上に進むことには疑問の余地はありません。そして自分は、多くのタスクがAIやコンピュータ・機械によって自動化されることで、人間の労働者に求められるスキルが変わってくるだろうと思っているのです。松本氏がオズボーン氏らの論文に欠けている視点として、自動化が進んで新たな職種が誕生するということを言っておられますが、その新たな職種に求められるスキルはこれまで求められてきたスキルとは異なるだろうということなのです。そしれ、これまでの教育・文化で育ってきた人間はその変化についていけるだろうかという疑問なのです。

 誤解を恐れずに言えば、従来はいわゆる「頭の良い」人が高給を得てきました。芸術系とかスポーツ系など例外も多いのですが、概ね頭の良いことが高給の必要条件だったと言えると思います。しかし医者・弁護士・裁判官・ファンドマネージャーといった、従来頭がいいことを理由に高給を得てきた職種は、今後はAIの格好の餌食になるかもしれません(過去に、ゴールドマンサックスで人間のトレーダーを600人から2人に削減という話題も取り上げました)。つまりこれらの高給取りの職種は、「多くの記憶」を元に新たなシチュエーションに対して適切な判断を下す「パターン認識能力」が根拠になっています。しかし、データを元にした「学習」は機械学習ベースのAIがもっとも得意とするところですし、インプット可能なデータ量もそこから学習する能力もコンピュータに分がありそうです。「従来の意味での頭の良さ=記憶量を元にしたパターン認識能力」は、これからの社会の求めるスキルではなくなってしまうでしょう。じゃあどんなスキルが求められるようになるのだろうか、と言うのがまだまだ不透明だというのが現状です。

 今の子供たちが大人になる頃に求められるスキルは、「従来型ではない頭の良さ」なのでしょうか。ホスピタリティのようなスキルなのでしょうか。それとも我々が予想もつかない能力が重宝されるようになるのでしょうか。ゴールデンウィークを楽しむ子供たちの姿を見ていると、そんなことを考えさせられます。