2018年4月30日月曜日

これから求められる「頭の良さ」はパターン認識力ではないのだろう

「AIが仕事を奪う」への疑問 いま、“本当に怖がるべきこと”は (1/3) - ITmedia NEWS:

 今回は松本健太郎氏によるITmediaの記事を元に、「AI(人工知能)が仕事を奪う」と言う話題について。実はこの手の話題は興味があって、山ちゃんウェブログでも何度となく取り上げてきた話題です。松本氏が槍玉に上げている英オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授についても、アデコ社長の川崎健一郎氏によるインタビュー記事を取り上げたことがあります。

 松本氏の元記事では、コンピュータ化が今以上に進んで人間が行なっている仕事の多くはAI(人工知能)が取って代わってしまうという「人工知能脅威論」は、過去にあった神話なんだと言われています。確かに「AIが仕事を奪う」と主張する人は、オズボーン氏らの論文「The Future of Employment: How Susceptible Are Jobs To Computation?」を引き合いに出して、定量的に労働人口の47%が機械に代替されると言いますが、松本氏の言われるようにこの数字の根拠はイマイチな気がします。

 論文の中で「定量的」に計算された47%という数字がどのように導き出されたかということをたどると、そう感じます。まずそれぞれの職業に必要とされる数十個のスキルを特徴量として定義し、オックスフォード大学内の有識者がそれを自動化可能=1、不可能=0として教師データとします。この教師データから自動化できると判断できる特徴量を機械学習によって発見して、モデルを作成します。でき上がったモデルを702種類の職業に当てはめて自動化の確率を求める、という仕組みです。そして、自動化の可能性が70%を超える職業に就いている労働人口は全体の47%もいる、だから47%もの人が職を失う、という結論だというわけです。


 松本氏の言われるように、実際に自動化されるのは「タスク」の方であって「職業」ではありません。職業というのは多くのタスクを束ねる上位概念なので、タスクが自動化されることと職業がなくなることは本質的にはレベルの違う話です。自動化が進むことで新たな職業が生まれることも、計算には入っていません。さらに言うならば、計算に使用された教師データも有識者による判断という定性的なものです。結局のところ、オズボーン氏らの論文が「AIが仕事を奪う」と主張する人に拠り所にされたり、反対派の人に槍玉に上げられたりするのは、良くも悪くも47%という具体的な数字で定量的に表されている(ように見える)からなのです。

 松本氏も言われていますが、「AIが仕事を奪う」という意見の賛成派も反対派も、AIによってタスクの自動化がこれまで以上に進むことには疑問の余地はありません。そして自分は、多くのタスクがAIやコンピュータ・機械によって自動化されることで、人間の労働者に求められるスキルが変わってくるだろうと思っているのです。松本氏がオズボーン氏らの論文に欠けている視点として、自動化が進んで新たな職種が誕生するということを言っておられますが、その新たな職種に求められるスキルはこれまで求められてきたスキルとは異なるだろうということなのです。そしれ、これまでの教育・文化で育ってきた人間はその変化についていけるだろうかという疑問なのです。

 誤解を恐れずに言えば、従来はいわゆる「頭の良い」人が高給を得てきました。芸術系とかスポーツ系など例外も多いのですが、概ね頭の良いことが高給の必要条件だったと言えると思います。しかし医者・弁護士・裁判官・ファンドマネージャーといった、従来頭がいいことを理由に高給を得てきた職種は、今後はAIの格好の餌食になるかもしれません(過去に、ゴールドマンサックスで人間のトレーダーを600人から2人に削減という話題も取り上げました)。つまりこれらの高給取りの職種は、「多くの記憶」を元に新たなシチュエーションに対して適切な判断を下す「パターン認識能力」が根拠になっています。しかし、データを元にした「学習」は機械学習ベースのAIがもっとも得意とするところですし、インプット可能なデータ量もそこから学習する能力もコンピュータに分がありそうです。「従来の意味での頭の良さ=記憶量を元にしたパターン認識能力」は、これからの社会の求めるスキルではなくなってしまうでしょう。じゃあどんなスキルが求められるようになるのだろうか、と言うのがまだまだ不透明だというのが現状です。

 今の子供たちが大人になる頃に求められるスキルは、「従来型ではない頭の良さ」なのでしょうか。ホスピタリティのようなスキルなのでしょうか。それとも我々が予想もつかない能力が重宝されるようになるのでしょうか。ゴールデンウィークを楽しむ子供たちの姿を見ていると、そんなことを考えさせられます。

2018年4月28日土曜日

IoTってホントに1つ1つ繋げるの?

ソフトバンク、月10円からのIoT通信サービス開始  :日本経済新聞:

 今回はIoT(Internet of Things)を生業としている自分としては見逃せないニュース記事、ソフトバンクが月額10円からという破格を打ち出したという話題。そして、月額10円で本当にモノ1つ1つがネットに繋がるのがベストな解なのかという話題です。

 IoTというのは「モノのインターネット」などと、なぜか「モノ」をカタカナで書くのですが、世の中の様々なモノがインターネットにつながって大量のセンシングデータを収集できるという「世界観」を表しています。「世界観」ですから、具体的な一つの技術というよりも様々な技術の組み合わせとして成り立っている概念です。この言葉を最初に使ったのは、P&Gのアシスタントブランドマネージャ時代のKevin Ashton氏だと言われており、なんと1999年のことでした。それから20年近く時間が経ち、ようやく世界がこの概念についてこれるようになってきたわけです。

 この山ちゃんウェブログでは「IoT」をセンシングからネットワーク経由でデータをクラウドへ蓄積し、その膨大なデータ(ビッグデータ)から何らかのナレッジを得て実世界へフィードバックするという巨大なループだと位置付けてきました。しかしそれは、IoTといえば RasberryPI のことだとか、IoTといえばLPWA(Low Power Wide Area)のことだとか、そういう局所的な技術だけを言うわけではないという強調でした。

 今回注目したソフトバンクの新サービスは、気兼ねなく多くのセンサー類をインターネットに接続できる月額10円からのサービスです。月に10円なら「IoTはいいけどインターネット接続するコストがなぁ」と言わなくて済みますよね。ただ、月額10円なのは10キロバイトまで。それを超過した場合は、1キロバイト当たり0.6円かかるプランです。ちなみにKDDIでも月額40円というプランがありますが、500万回線超を契約した場合と自前の工場だけでは敷居が高いのに対し、ソフトバンクは1回線でも利用できます。

 ソフトバンクもKDDIも「IoT」をその名の通り、「モノ」1つ1つが個別にインターネットにつながることが前提となっており、現在言われているほとんどのIoTはそういう構成を考えているものと思います。しかし、本当にセンサー1つ1つがネットに繋がる世界がベストなのでしょか。

 月額10円で10キロバイトの通信ということは、例えばセキュア通信を行おうとするとオーバーヘッドが大き過ぎて難しいでしょう。無駄なデータを含まないよう純粋にセンサーデータだけを送信するにしても、相互認証とか暗号化なんてやっている余裕はありません。もちろんセンサー側もコスト面を考えると高性能CPUは積めませんから、ある意味身の丈にあった通信プランかもしれません。そして、こういう時必ず一緒に議論される電池の "持ち" ですが、今回のソフトバンクの記事では単3電池2本で10年以上通信できると言います。しかし、10年経って電池が切れたあとは、一体どうなるのでしょうか。誰かが1つずつ交換して行くのでしょうか。KDDIが前提とするような400万とか、総務省の言う何百億とか、そんなとてつもない数のセンサーが続々と電池切れをおこすのです。センサーの価格そのものも安いでしょうから、そのまま使い捨てにしてしまわれるのがオチじゃないでしょうか。

 セキュリティ面、そして電池交換など将来的な保守運用を考えた時、本当に「モノ」1つ1つが個別にインターネットにつながるよりも、ある程度のカタマリ単位でネットにつなげる方がベターな解なのかもしれません。そうすればエッジ装置は何千万とか億なんていうアンコントローラブルな数ではなくなり、セキュリティを乗せられる程度のコストを掛けられたり、将来も電池交換して使い続ける保守運用も無理なことではないと思えるのです。

2018年4月26日木曜日

プロジェクトマネージャは女性の方が向いているのかも

「すぐに返信しない男」と「既読スルーを我慢できない女」の脳の違い(中野 信子) | 現代ビジネス | 講談社(1/4):

 今回は男性と女性の脳の習性と、もしかしたらプロジェクトマネージャ(PM)は女性の方が向いているのかもしれないというお話です。元記事は、脳科学者の中野信子氏のものです。

 ある仕事をこなそうとするとき、女性は計画的に前もって着手する人が多いのに対して、男性の場合は直前になってようやく手をつける人が多いのだそうです。その典型的な例として、主に恋愛のシチュエーションですが、LINEやメールの返信をすぐ欲しい女性となかなか返信しない男性という対比があります。愛情の確認を頻繁に行なうのも、女性に多い傾向があるようです。

 中野氏のご説明によれば、こういった行動の性差には、神経伝達物質である「セロトニン」の分泌が関係しているそうです。実際、PET(陽電子放射断層撮影法)による画像実験では、女性よりも男性の方が52%もセロトニンの合成能力が高いことが確認されているそうです。セロトニンというのは、いわゆる「安心感」の源となる神経伝達物質ですので、生物学的には男性よりも女性の方が「不安」を感じやすいということになります。直接的な証拠ではありませんが、「うつ病」の生涯有病率も男性が5~12%であるのに対し、女性は10~25%と性差が見られるそうです。女性は「不安」を感じるからこそ、締切がずっと先でも計画的に早め早めに手を打つという行動につながるというわけです。

 そして、中野氏の記事を読んで自分は、計画を立てて前もって行動するという特性は、よく考えるとシステム開発におけるPMに必要な性質ではないかと思い当たったのです。計画通りに行っていない場合に不安を感じる「心配性」というのは、プロジェクトを工程通りに進めるためには必要な特性の一つです。

 そして、マルチタスク的に多くの仕事を同時に進める能力も、女性の方が男性より優れていると言われます(例えばこちら)。さらにコミュニケーション能力も、男性よりも女性の方が優れているという話もよく聞きますが、これらについては科学的に証明されてはいないとする意見もあります。自分の実感としては、やはり女性の方が複数の仕事を同時にこなしたり、会話によるコミュニケーションは得意な印象があり、そういう意味でもどちらかというと女性の方がPMには向いているのかなぁなんて思います。

 もちろん「不安」を感じやすいという特性は、プロジェクト成否の重圧を双肩に担うPMという職種には諸刃の剣です。大抵のプロジェクトは工程通りには進みませんし、そんな時に不安で精神的に削られてしまうと "やってられない" という側面もあります。プレッシャーのかかるシチュエーションでは、男性のいい意味での「大らかさ」「鈍感さ」が必要になります。しかし、工程をきちっと守るとかメンバーとのコミュニケーションを円滑に行なうとか、PMに求められる「本質的な特性」については女性の特質に合いやすいような気がするんです。

2018年4月25日水曜日

プログラミング教育は夏休みの工作の宿題と似ている話

「プログラミング教育ってなに?」不安を抱える親エンジニア向けの入門本「おうちではじめるプログラミングの授業」 | Developers.IO:

 今回の話題は、2020年から小学校で始まるという「プログラミング教育」に向けて、親として何を準備すれば良いんだろう、という話題です。自分も長男が今年小学3年生ですので、そろそろ何か準備したほうがいいんだろうかと思い始めていたところです。元記事は濱田孝治氏によるもので、平初氏・ 阿部崇氏の著書「子どもに読んで伝えたい!おうちではじめるプログラミングの授業」を元に、ご自身なりの解釈を示されています。

 まず最初に、プログラミングにそれなりに詳しい親であれば、小学校でまともなプログラミング教育ができるんだろうかと思いませんか。JavaとJavaScriptの違いもわからない先生が、真っ白な小学生の好奇心を満たせるんだろうか。下手したら、プログラミング嫌いの子どもを増やしてしまうだけじゃないかな、なんて。

 まず、とても大きな誤解は、「プログラミングの授業」というのは「プログラミング言語」の授業ではないということです。何だか禅問答のようですが、JavaとかJavaScriptとかCとかPythonとか...、そういったプログラム言語を教えるわけじゃないんだそうです。じゃあ何を教えるんだというと、「プログラミング的思考」を教えるんだそうです。でもそれって具体的にどうすんの?という質問には、文部科学省のこんなスライドがあります(↓)。


 でもこれを見て「あぁそういうことか」ってなります?? 自分の場合は、これを見ても抽象的だったり論理が飛躍しすぎていて、「だから何?」ってなってしまいます。もちろん「やっぱりオブジェクト指向が大切だからJavaだろ」とか「まずはCから始めるのが定石」とか「時代はPythonだ」とか、そういうことでないのは分かります。でも、このスライドの実施例や条件整備などの部分を見るにつけ、こんな現場丸投げじゃ、まともな指導者に当たるとも思えません。結局、プログラミングが嫌いになってしまう子どもが続出するのではないかと懸念します。これは、親が何かした方がいいんじゃないかと。

 そこで我が家では、自分と長男と一緒に、子ども向けプログラミングを試してみることにしました。子ども向けプログラミング環境としてScratchというのが評判良かったので、これを試してみました。Webブラウザ上でビジュアルにプログラミングできるので、難解な言語を覚える必要もなく、ブロックを組み合わせる感覚でロジックを作っていけます。どうも内部的にはPythonのようなのですが、プログラム言語を知っている人からすると、結局はif文とかfor文などの見た目だけブロックのようにしているだけとも見えます。

 しかし実際に子どもと一緒にやってみると、キャラクターに命令を出してアニメーション的に動かしたり、あらかじめ準備されている音と組み合わせたりできるだけでなく、その場で子どもの声をマイクで録ってプログラムの中で使うとか、楽しく遊べる工夫が随所に見られます。実はScratchで最初に作るプログラムの典型は、キャラクターがダンスするプログラムなのですが、子どもと一緒に作って見ると、なかなか楽しく作ることができました。実際に長男が作ったプログラムはこんな感じです(↓)。たったこれだけのブロックで女の子のキャラクターがパラパラ漫画のように動き、しかもプログラミングのエッセンスが詰まっています。長男も初めてのプログラミングが楽しかったようで、今度はスーパーマリオみたいなゲームを作りたいと言っていますが、いやそこまでなるのはだいぶ大変...(汗)。ただ、プログラミングの楽しさの一端は味わえたかなと思います。


 実際試してみると、やはりある程度は親がガイドしながら一緒にプログラミングするというのが良さそうでした。「プログラミング的思考を育む」とは言いながらも、実際にプログラムを作ってそれが動く楽しみを味わわないと、子どもが興味を持って学ぶようにはならないと思います。ただ、実際に作ってみても、一発で思った通りに動くプログラムを作れるわけではありません。プログラムを作って動かして見る、でも思った動きじゃない、どこをどう直したらいいだろうか。そこを親がサポートしてスムーズに解決に導いてあげないと、子どもがテキストや解説動画を見るだけでは解決するのはまず無理だと思います。なぜ思った動きをしないのか、どこをどう直せばいいか、いわゆるデバッグの部分を親が先回りしてサポートしたり一緒に考えたりしながら一緒に作り上げる、そうしないと子供はすぐに投げ出してしまいます。

 子どもと一緒にプログラミングをしていて感じたのは、これって何かに似ているなってことでした。何に似ているのかなとずっと思っていたのですが、やっと気づいたんです。これって「夏休みの工作の宿題」だって。

2018年4月23日月曜日

「知らぬが仏」が通じないハイレゾ社会

ふかわりょう「世の中がハイレゾ社会になっている。」 | 芸能ニュースまとめ エキサイト:

 今回は、タレントのふかわりょうさんが今年4月7日に東京新聞で書かれた寄稿記事を取り上げようと思います。ネット上でもふかわさんの評判をぐんと上げている、あの記事ですので、他のサイトや他の方のブログでもご覧になったことがあるかもしれません。

 その元記事がこちら(↓)。数年前からオーディオ音楽の世界では「ハイレゾ」という技術が流行っています。「High-Resolution Audio」略で、CDのサンプリングパラメータ(44.1 kHz, 16bit)よりも高い解像度でデータ化された音楽のことを指しています。これまで自分たちが聞いていたCDの音質よりもいい音にするために、同じ曲でも情報量がぐんと多くなっています。CDでは聞こえなかった高音が聞こえるとか臨場感が違うとか言いますが、残念ながら自分の耳ではCD音質との違いは分かりませんでした(笑)。単独で聞いても違いが分からず、同じ曲を聞き比べると一応は違うことは分かりますが、どちらが良いかと言われても分からない。そんな感じでした。


 ふかわさんの主張は、社会が「ハイレゾ」のようになっているというものです。ハイレゾのような「情報量の多い(≒いい音質の)音楽」は、逆に聴き疲れてしまうということがあると言われていて、ふかわさんの主張はそれになぞらえて、情報量の多い社会は生き疲れてしまうということだと思います。もちろん、ここで言う「社会」はリアル社会もそうですが、どちらかというとSNSをはじめとするネット社会のことです。

 昔は個人のつぶやきなんて、耳に入ってきませんでした。誰かが陰で自分の悪口を言っていても、耳に入ってこないので、彼(彼女)の裏の顔を見ることなく付き合いができていました。いい意味で、「知らぬが仏」だったのです。ところが今の時代は、SNSの発達によって否応無しに誹謗中傷の情報が入ってきます。彼(彼女)の裏の顔を見てしまうと、もう以前のように付き合うことができなくなってしまいます。まして、ふかわさんのような顔と名前が売れているタレント業の方なら、入ってくる誹謗中傷のボリュームも大きいのでしょう。

 誰がどう思っているのか、何を感じているのか、個人レベルの情報が入ってきます。もちろんほとんどの個人のつぶやきなど、取るに足らないものと右から左に流すことになるのですが、意外にもこの「右から左に流す」ことって労力が要るんです。何らかの情報処理をすると、それがほとんど無視に近い処理であっても、少しは疲れてしまいます。シャワーを浴びるかのように情報をどんどん処理している現代の人は、昔の人に比べて格段に疲れ、ダメージを受けていると思います。心に。

 確かに、今さらネットと切り離された生活というのも考えづらいところです。難しいことですが、それでも、たまにはスマホを持たず外出してみる。現代は、そんなことがリフレッシュにつながる社会かもしれません。

2018年4月21日土曜日

「居眠り」に対する不思議な寛容性

Napping in Public? In Japan, That’s a Sign of Diligence - The New York Times:

 今回はThe New York Timesに掲載されたBryant Rousseau氏による記事を元に、日本人の、「居眠り」に対する不思議な寛容性と見えない部分を想像する文化について考えてみます。

 Rousseau氏は日本のビジネス界でしばしば見られる、「居眠り」に対する不思議な寛容性を指摘しています。ほとんどの国で仕事中に「居眠り」することは、評価を下げるだけでなく、悪くすれば解雇されてしまう可能性があります。しかし日本では、仕事中や会議中に「居眠り」する人を見かけても、不思議にも許してもらえる傾向があるというのです。

 「居眠り」という日本語は英語で「sleeping on duty(勤務中の睡眠)」と訳されることが多いのですが、Downing Collegeで日本人学生相手に教鞭をとるBrigitte Steger氏はむしろ「sleeping while present.(出席中の睡眠)」だと述べています。Steger氏は、居眠りに対する日本人の不思議な寛容性は、複数のことをできるだけ同時に行なうことこそ時間の上手な使い方だという考え方が関係していると言っています。つまり、退屈な会議に出席することと同時に浜辺の休暇を夢見ることを同時に行なっているという分析です。

 しかし、そういうことでしょうか。自分には、Steger氏の分析は全く間違ってはいないものの、的を射ている気はしません。むしろ、日本人にある「影の努力」を美徳と考える文化が関係しているのかもしれないと思います。例えば部下を評価するというシチュエーションで、おそらく世界的には上司の見える範囲が全てなんだと思います。上司と同席した会議中に部下が居眠りすることがあれば、大きなマイナスポイントでしょう。しかし日本では、上司が見えない範囲も「想像で補って」評価に加えるということがないでしょうか。会議中の居眠りも、きっと彼(彼女)はこの会議の資料準備で昨日遅くまで残業したに違いない、こんなに疲れ切ってしまうほど頑張っているんだ、とむしろ評価を上方修正するバイアスがあると思うんです。

 もっと言えば、「みなまで言うな」とか「行間を読め」という日本文化の特徴が関係しているのかもしれないと思うのです。例えば短歌とか俳句では、「5・7・5・7・7」とか「5・7・5」という少ない文字数で言いたいことを表現することが求められます。そして、少ない言葉の裏にできるだけ多くのことを想像させる作品が高く評価されます。これって、とても日本人の特徴を表している文化だと思うのです。それは、書き手と読み手がほぼ同じ文化的背景を持っていることを前提とできる、ということです。一方海外の多くの国では、書き手と読み手が同じ背景を持つことは前提にできないので、「みなまで言う」ようにしないと伝わりません。人を観察したり評価したりするシチュエーションでも、海外の人はその人の見えている部分が全てなのに対して、日本人は見えていない部分を想像しようとするのでしょう。

 居眠りに対する日本人の不思議な寛容性。Steger氏は、この寛容性は中年以上の男性に向けられることが多く、若者や女性に向けられることは少ないのが不思議だと述べています。でもそれは同じ居眠りしている光景の向こうに、中年の男性が疲れ切っているのは遅くまで残業していたに違いない、若者や女性はきっと夜遅くまで遊んでいたに違いない、という想像を働かせているからではないでしょうか。偏見です、もちろん偏見なんですが、そういう偏見の想像を働かせていると考えれば、居眠りに対する寛容性が中年以上の男性に向けられやすいのも理解できると思うのです。

2018年4月18日水曜日

「火垂るの墓」のダブルミーニング

「火垂るの墓」ポスターに隠された意味 夜空の影は...「ほんとだ」「知らんかった」(J-CASTニュース) - Yahoo!ニュース:

 今回は、最近ネット上を賑わしていた「火垂るの墓」のポスターの話題を。ネット上の話題も半年や1年遅れて紹介することの多いこの山ちゃんウェブログですが、今回は比較的早めに取り上げた方かも知れません。

 「火垂るの墓」といえば、高畑勲監督の死去を受けて、つい最近の4月13日の「金曜ロードSHOW!」(日本テレビ系)でも放送されたアニメ界の名作です。野坂昭如氏の小説が原作で、野坂氏自身の幼少時の実体験がベースになっているとも言われています。第二次世界大戦末期から終戦直後の混乱期にかけ、清太と節子の兄妹が生き抜こうともがきつつ、ついには悲惨な最期を迎えるまでが描かれています。

 そして今回、話題になっているポスターがこちら(↓)。「火垂る」は「ほたる」と読み、このポスターはあたり一面を飛び交う蛍に戦果をかいくぐる束の間のひと時を楽しむ兄妹のように見えます。

 しかし、このポスター画像の明るさを調整してみると、兄妹の上に不気味な影があられます(↓)。そう、巨大な爆撃機の影があらわれ、ポスター一面の光の一部は爆撃機から落とされた焼夷弾だと思われます。そう思うと、光にも丸い光と細長い光が描かれているので、地上でふわふわと舞う優しい蛍と爆撃機から落ちてくる鋭い焼夷弾の対比を描いているとも見て取れるのではないでしょうか。ネット上では「だから蛍じゃなく火垂るなのか」という声で溢れているようです。

 戦時下でたくましくも儚い人生を送る兄妹は、兄の清太が14歳、妹の節子が4歳とされています。映画の公開は1988年。自分が13歳の時でまさに兄の清太と同年代、自分にも節子ほどではありませんが歳の離れた妹がいたので、もしこの時代に生まれていたらこんな人生だったのかも知れないと戦慄を感じたことを覚えています。「火垂るの墓」というタイトルそしてポスターに込められたダブルミーニングに "なるほど" と思いながら、戦争の悲劇が繰り返されませんようにと祈るばかりです。

2018年4月17日火曜日

バスも食パンも実は略語だった!

「バス」や「食パン」も略語だった! 元の言葉の意味と由来は? - ねとらぼ:

 今回はねとらぼに掲載されたQuizKnock氏の記事を元に、以外にも略語と知らずに使っている言葉のお話です。日本人は長い言葉をすぐに略して使う習性があるようで、デパ地下とかバイトとか、もはや略語のまま定着している言葉もたくさんあります。そんな中、意外にもこの言葉が略語だとは知らなかったという言葉をいくつかご紹介しましょう。

 まず最初は、元記事のタイトルにもなっている「バス」。バスって、あの「bus」じゃないですか。そもそも英語なんだから、略語かも知れないなんて疑ってもみませんでしたが、実は「omunibus」の略なんだそうです。いや「omunibus」ってあの音楽アルバムでよく見かけるオムニバスじゃないですか。複数のアーティストの楽曲が入っているアルバムを「オムニバス形式」と言いますが、もともとomunibusはラテン語で「全ての人のために」という意味です。そこから派生した「乗合馬車」「乗合自動車」の意味が、現在の「バス」の元になっているのだそうです。

 もう一つ元記事はのタイトルでもある「食パン」。自分は省略前は食用パンじゃないかと思ったのですが、そもそも「食用」なんてあえて付けるのも変ですよね。まるで「パンはパンでも食べられないパンは何でしょう」のように、食べられないパンがあるかのようじゃないですか。実は、美術のデッサンで消しゴム代わりに用いるパンを「消しパン」と呼んだのに対して、食べる方のパンを「食パン」と呼んでいた説もあるそうですが、主流なのは外国で「主食」とされていたことから「主食用パン」と呼ばれ、それが省略されて「食パン」になったという説だそうです。

 他にも、「切手」は何の略かご存知ですか。郵便切手かなと思ってしまいますが、そもそも「切手」が「切符手形」の略なんです。もともとは「商品券」の類を「切符手形」と呼び、それが郵便に使われるようになって「郵便切手」となったようです。

 さらに意外なところで、「ペペロンチーノ」。いやいやもはや料理名だし、そもそもイタリア語のpeperoncinoなんだから、自分は何の略かなんて考えたことありませんでした。しかし、正式には「アーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノ(Pasta aglio, olio e peperoncino)」。アーリオがにんにく、オーリオは油、ペペロンチーノは唐辛子ですから、普段私たちは例のパスタを「唐辛子」としか言っていないわけですね。

 もうちょっと硬いところで「経済」。実は、元記事にはこれが「経世済民」の略だと指摘されているのですが、いわゆる「economy」のことを言っている「経済」と「経世済民(經世濟民)=略して経済(經濟)」はちょっと意味が違っています。経世済民は、より広く政治・統治・行政全般をカバーする言葉なので、いわゆるeconomyのことを言う経済の元の言葉というにはちょっと微妙です。

 最近のネットやSNSの流行で、日本語の略語文化はすごいことになっています。「激しく同意」を「禿同」とか、「ちなみに」を「ちな」、「了解」を「り」とか。確かに2チャンネルとかだと、「ちな虎(ちなみにタイガースファン)」なんて表現も普通に使われています。でも「り」って何ですか。たった一文字ですよ。最近の若者は言葉を略しすぎるという指摘もよく見かけますが、日本語の歴史は略語の歴史そのもの。ネットやSNSで見られる略語は正常系の進化かも知れません。

2018年4月13日金曜日

エンジニアにとっての加齢という恐怖

シニアSEに仕事がこない本当の理由 | 日経 xTECH(クロステック):

 今回の話題は、中高年エンジニアと仕事について、人材コンサルタントの崎山みゆき氏による記事を元に考えてみたいと思います。実は、自分もいつの間にか40代中盤に差しかかろうとしており、中高年エンジニアは仕事が無くなると言われると、不安がよぎるところです。

 ソフトウェア開発の現場には若い人材を求める声が大きく、どちらかというとシニア世代は敬遠される傾向があると崎山氏は指摘されています。ある意味で年齢による差別「エイジズム」が強いと言えるかもしれません。これは、米国の老年医学者、ロバート・バトラー氏が1969年に提唱した概念で、歳をとっているからという理由で差別を受けることを指しています。確かに、内閣府が2014年に発表した「高齢期に向けた備えに関する調査」(↓)によると、いわゆる「老人」のマイナスイメージが先行しているように思えます。

 エイジズムには、偏見によるものと制度的なものの両面があります。偏見は高齢の人は仕事が遅いとか考え方が古いとか、人の個性をステレオタイプに分類してしまうことです。一方で、制度的エイジズムは、例えば定年退職や中途採用などに年齢制限を設けることで、実際のところ制度的なものも元を正せば、中高年は仕事を覚えるのが遅いという偏見に行き当たるかもしれません。制度的エイジズムは、1986年米国では年齢による雇用差別禁止法を、日本も2007年に雇用対策法を改訂して、採用にあたっての年齢制限を禁止しました。しかし、制度的エイジズムの根本が偏見であることを考えると、中高年の労働者が働きづらい現場もまだまだ多いのが実態だと思います。そして特に技術革新著しいソフトウェア開発の現場は、中高年プログラマーへの偏見が強い傾向があるようです。

 IT企業でよく言われるのが、プロジェクトマネージャが年下だとコミュニケーションを取りにくいということです。例えばプロジェクトマネージャが30代そこそこの場合、60歳近い中高年プログラマーは父親くらいの世代にあたり、なかなか「あなたは間違っています」とか「私の言うことに従ってください」とは言いづらいのです。そのため、シニア世代のプログラマーは敬遠されてしまうというエイジズムです。

 ただ今回の崎山氏の記事を読んでみて自分が感じたのは、自分の周りにはこの傾向は少ないなということでした。年上のメンバーに言いたいことが言えないということがなかったというか。そう言う意味で、自分の環境は非常に恵まれているのかもしれません。自分の環境がなぜエイジズムと縁が薄いかと考えてみると、2つの大きな要因があると思います。

 1つ目は会社間と発注・受注の関係です。自分のようなメーカー系開発者の場合、ソフトウェアに関してはプロジェクトマネージャやプロジェクトリーダーは社員ですが、実際のコーディングを担当するプログラマーは関連会社か外注さんのケースがほとんどです。大抵はリーダーやマネージャの属する会社とメンバーの属する会社とは、親会社と関連会社とか発注者と受注者という関係があり、年齢的なものでリーダーやマネージャがメンバーに過度に気を使うシチュエーションがありません。実際自分が今関わっているプロジェクトでも、マネージャは自分の上司、リーダーは自分ですが、メンバーは関連会社だったり外注さんですので、メンバーには親くらいのシニア世代の方もいますが、若いメンバーに指示するのと同じように指示することができます。

 そして2つ目は、技術的バックグラウンドの問題です。たまたま自分は入社直後にプログラミングを覚えたので、今でも並のプログラマー以上にはプログラムができること、そして標準化活動などアカデミックな場にも関わっているので、比較的若い頃から年上の人からも相談を受ける立場でした。つまり、技術的バックグラウンドがしっかりしていると周囲には思われていたわけです。そのため、ソフトウェア開発の現場では、年齢が上の人でも心理的に上位の立場からものを言うことができたのです。もちろん、年齢的に上の方に指示する時には、言葉遣いに気をつけたりリスペクトを持った上で、ビジネスとしての指示命令といった言い方をすることは忘れてはいけませんが、年齢が上だからといって言いたいことが言えないわけではないということです

 自分の場合、2つの幸運に恵まれていたので、これまで年齢面で気を使って言いたいことが言えないということはありませんでした。しかし、今後は自分自身がシニアエンジニアとなっていくのです。2つの幸運は、いざ自分がシニアになった時には、逆に働いてしまうかもしれないのです。特に2つ目の技術的バックグラウンドについては、下手に技術力があると逆に「老害」と扱われてしまう可能性につながります。

 そうならないためにはどうすれば良いか。明確な答えを持っているわけではありませんが、経験を重ねたエンジニアは若手と競うのではなく少し目線を高くしてアドバイスするような立場を築くことが重要かもしれません。若いうちはバリバリのプログラマーだった人も、全体を見渡してリスクを取り除くような仕事や経験を生かしたプロジェクトマネージャ・プロジェクトリーダーになっていくというキャリアは、自然なことかもしれません。自分の仕事の仕方も、若い頃のように次々と新しい技術を習得していくというより、最近は若い頃の「貯金」で仕事をしているケースも増えてきました。「円熟味」と言えるのかもしれませんが、40代中盤ではまだまだ最前線の技術を追いかけたい気持ちとのジレンマを感じる日々です。これが50代になっていけば、若い頃の「貯金」でする仕事の割合がどんどん増えていくことでしょう。

 若い頃の「貯金」がないと、年齢だけが高い「使えない」人材になりかねません。年齢が上がってきた時に「お払い箱」や「老害」にならないために、若いうちにしっかり「貯金」を作っておくことが重要かもしれませんね。

2018年4月12日木曜日

マルバツゲームはベストを尽くせば引き分けになる

マルバツゲームは引き分けになる | 高校数学の美しい物語:

 今回は「高校数学の美しい物語」の中から、マルバツゲームは引き分けになるという話をご紹介したいと思います。マルバツゲームは、三目並べとか様々な呼び名がありますが、アメリカだとTic tac toe、イギリスだとNoughts and Crossesなど、世界的に遊ばれているゲームです。昔黒板に書いたコレ(↓)です。

 ルールは改めていうまでもないでしょう。9つのマスに2人が交互にマルとバツを描いていき、縦・横・斜めの一列に自分のマークが揃うと勝ちというオセロの簡易版のようなゲームです。このゲームは、実は「二人零和有限確定完全情報ゲーム」という種類のゲームで、お互いにベストを尽くせば先手必勝か後手必勝か引き分けのどれになるかが決まっています。そして、マルバツゲームの場合は互いにベストを尽くせば引き分けになることが分かっているのです。

 ただ、やってみると分かるのですが、このゲーム先手が圧倒的に有利に思えます。先手が真ん中にマルを打つと、もう後手は防戦一方です。つまり、このゲームの本質は、後手がベストを尽くして引き分けに持ち込むことができるかどうかにあるのです。そういう意味で、後手のつもりになってベストの手を考えてみましょう。

 まず常套手段で先手が真ん中にマルを打ってきた場合ですが、後手のベストの手は角にバツを打つことです。そうした時の先手のパターンは以下のように4通りありますが、基本的な戦略は相手のリーチを妨害することです。マルとバツが一つずつの時、次の先手はマルを揃えようとしてきます。したがって、下の最初の3つのケースはそれに当たりますが、相手のマルが揃わないようにバツを打ちます。実は最後のケースはコレに当たりませんが、その場合だけ特殊な戦略が必要です。この場合は、先手の戦略は次に右上か左下にマルを打ってダブルリーチに持ち込もうという戦略ですので、右上か左下にバツを打って相手の戦略を潰します。これであとはベストを尽くせば引き分けに持ち込めます。

 次は先手が角にマルを打ってきた場合です。この場合の後手は、遠慮せず真ん中にバツを打ってください。実は先手は、下のように対角線上にマルを打って、次に右上か左下でダブルリーチを狙う作戦ですが、後手が真ん中にバツを打っている時点で先手と後手の有利さが逆転しています。遠慮せず自分のバツを3つ揃えようと打てば(↓)、先手は守らざるを得なくなります。結果的には、このケースも引き分けになります。

 そして、最後は先手が辺にマルを打ってきた場合。このケースも、後手は遠慮せずに真ん中にバツを打ってください。以降の戦略は、先手が最初に角に打ってきたケースと同じです。

いかがでしたか。やっぱり圧倒的に先手有利、というより真ん中に打った方が圧倒的に有利にゲームを進めることができますが、真ん中を取れなくてもベストを尽くせば引き分けに持ち込めるのです。

理論上は完全な先読みが可能であり、双方のプレーヤーが最善手を打てば、必ず先手必勝か後手必勝か引き分けかが決まるという点である。実際には選択肢が多くなると完全な先読みを人間が行う事は困難であるため、ゲームとして成立する。

 「二人零和有限確定完全情報ゲーム」は、理論上は完全な先読みが可能で、互いがベストを尽くせば結果が決まっているのですが、選択肢が多くなると人間が完全な先読みを行なうのは困難になり、ゲームとして成立することになります。そういう意味では、今回のマルバツゲームは人間が完全な先読みできる点で、必ず引き分けに持ち込めますが、他の「二人零和有限確定完全情報ゲーム」である将棋やチェス・オセロ・囲碁などの場合は、選択肢が多すぎて人間には完全な先読みができません。

 つまりゲーム理論からすれば、いくら複雑であろうとも「二人零和有限確定完全情報ゲーム」である限りは、人工知能(AI)などコンピュータが人間を凌駕するのは明らかです。DeepMindのAlphaGoや山本一成氏のポナンザなど、人間のチャンピオンを凌駕するソフトウェアが次々と開発されていますが、理論的にはそれも当然の流れと言えるのかもしれません。

2018年4月9日月曜日

300円を持って170円のパンを買ったらお釣りは?

文系・理系を判定。「300円を持って170円のパンを買ったらお釣りは?」 - まぐまぐニュース!:

 今回は軽めの話題で、「ある日300円を持ってコンビニにパンを買いに行きました。170円の焼きそばパンを買った場合のお釣りはいくらでしょう?」という問題。この問題にどう答えるかで理系脳か文系脳かがわかるという話題で、ネット上で話題になったのは2年ほど前なので何を今さらと思う方もいるかと思いますが、文系脳と理系脳の話題を最近いくつか書いていたので、その流れですお付き合いいただければと思います。@heaaartの記事が元ですが、皆さんはどう答えるでしょうか。

 実は、130円と答えた人は理系脳なんだそうです。極めて単純に
  300円ー170円=130円
ですよね。ところが文系脳の人はこうは答えない。文系脳の答えは、ズバリ30円。そうです。300円財布に入っていたからといって、170円のパンを買うとき300円を渡すわけじゃないですよね。100円は財布に残したまま、店員さんには200円しか渡さないですよね。だからお釣りは30円だというわけです。単純な算数問題としてとく理系脳と、シチュエーションを想像して答える文系脳といったところでしょうか。

 実は、ひねくれ者の自分の答えは...0円でした。文系脳の人は100円玉を3枚持っている暗黙の前提をおいていましたが、自分は100円玉2枚と50円玉1枚、10円玉5枚を前提にしていました。ぴったり払えばお釣りなし。いや、これはかなりひねくれ者ですね。

2018年4月7日土曜日

自分探しよりも何か1つ武器を手に入れる方が重要

30年間も"自分探し"を続けた50代の末路 | プレジデントオンライン | PRESIDENT Online:

 今回はマーケティングアドバイザー・永井孝尚氏の記事を元に、自分探しを続けても自分の市場価値を高めることはできないというお話です。元記事では、反面教師として、永井氏のご友人で「好きな仕事しかしたくない」が口癖の小林氏(仮名、52歳)を登場させています。小林氏は「好きな仕事」を求めて次々と転職を繰り返します。そして52歳になって望んだ面接で、それまでの生き方を全面的に否定されてしまいます。その面接でのやり取りを元記事から転載させていただきます(↓)。

課長「小林さんですね。A社を皮切りに、さまざまな会社を渡り歩かれて、華麗な略歴ですね。当社の業務はご存じと思いますが、どのような仕事を希望されますか?」
本人「希望というより、自分の好きなことしかしたくありません」
課長「……わかりました。質問を変えましょう。小林さんの売りは、なんでしょうか?」
本人「そりゃ、いろいろとできますよ。A社では◯◯◯の部署で◯◯◯の仕事をして、B社では◯◯◯の仕事を……」
課長「そこまでで結構です。どんな仕事をしてきたかはレジュメで把握しています。お聞きしたいのは『小林さんが得意なこと』です」
本人「先ほど申し上げた通りです。『自分が好きなことしかしたくない』と」
課長「……それでは、質問を変えましょう。小林さんが好きなのは、どんな仕事ですか?」
本人「……どんな仕事が好きか、ですか……。ええっと……」
課長「……わかりました。結果は後日ご連絡します。今日はお疲れさまでした」

 もちろん面接の結果は... 永井氏によれば、好きな仕事を求めて転職を繰り返す小林氏は、結果的に30年間ひたすら「自分探し」しかやってこなかったのです。どこかに「本当に自分が好きな仕事がある」と考え、それに巡り会うチャンスを追い求めて来たのです。ビジネスパーソンとしての「売り」を作って来なかった、つまり「商品力」を磨いて来なかったのです。

 確かに、就職活動の中でその仕事は自分にぴったりだと思っても、いざその仕事を始めてみると、思ったような仕事をさせてもらえず「こんなはずじゃなかった」と思った経験がある人は多いんじゃないでしょうか。実を言うと、自分はあまり深く考えずに今の電機メーカーに就職しました。それでもそれなりに自信を持って就職したわけですが、最初の与えられた仕事は現場実習で製品のペンキ塗りとゴムの緩衝材貼り。その後正式に配属された部署でも、1つ1つのスイッチを入れてパソコン画面上の正しいシンボルの色が変わるかをひたすらテストするという仕事でした。「こんなはずじゃなかった」と思ったものでした。でも不思議と、ここに好きな仕事はないと見限ることはなく、気づいたら18年も同じ会社にいます。幸いにも、ひたすらスイッチを入れては画面を確認する仕事は最初の半年間くらいだけ、その後は比較的好きな仕事(チャレンジングでワクワクする仕事)をさせてもらっています。

 自分は小さい頃から物作りが好きでしたが、就職してからはハードウェアよりもソフトウェアに興味を持ちました。ソフトウェアという分野を志すには遅いくらいでしたが、それでもその仕事をさせてもらい、学会などで標準化活動をしたり講習会で講演したりするアカデミックな場も与えてもらえました。単にモノ作りするだけでなく、事業部門も経験させてもらい、現在は事業部付きの設計部というお客様にも近く物作りもできるという格好のポジションにいさせてもらっています。

 振り返ってみると、入社間もない頃は会社にいる時間も勉強に当てられたので、その時にひたすらプログラムを覚えました。自分の会社は電機メーカーでもそこそこの規模なので、プログラムは外注というケースが多かったのですが、自分はわざわざプログラムを書けるようになったのです。入社数年経った頃には、ソフト開発専門の外注先の担当者さんと比べても負けないプログラミング能力を手にできたのです。この武器を手にしてからは、課題を解決するためにどう実装すればいいか、どの程度の工数がかかるのかなど、立ちどころに判断できるようになり、上の人からの相談事もたくさん舞い込むようになりました。そして、一つの武器を手に入れると、他の武器は向こうから次々とやってきました。この武器を使って手に入れたアカデミックな場では、同業他社のトップエンジニアや顧客筋との人脈を手に入れましたし、アカデミックな交渉ごとで揉まれるうちに苦手だった交渉力やコミュニケーション力もある程度付いてきました。社内では単純な仕事は割り当てられなくなり、チャレンジングでワクワクする仕事が回ってくるようになり、その度に成長することができたのです。

 小林氏も、「好きな仕事」ができないからとすぐに見切りをつけるのではなく、せめて転職時にアピールするための武器を1つ身につけるまではその職場にと止まるようにしていれば、結果はだいぶ違っていたでしょう。武器がない人にはチャレンジングな仕事が回ってこず、一方で1つでも武器がある人には次々と他の武器を身につけるチャンスが回ってくるのです。「売り」がない人はずっと商品価値が低いまま、「売り」がある人はどんどん商品価値が上がって行くわけです。この4月から就職したという人も多いと思いますが、そういう人にアドバイスするなら(ちょっとおこがましいですが)、自分探しなんかしている暇があるなら、できるだけ早くに「何か一つ仕事上の武器を手に入れること」が重要だと思うのです。

2018年4月6日金曜日

大人になりきれない40代

大人になりきれない40代の「おっさん若者」に言いたいこと(熊代 亨) | 現代ビジネス | 講談社(1/3):

 突然ですが、40代と聞いて「大人」だと思いますか「若者」だと思いますか。実は自分がまさに40代なのですが、普段「若者」扱いされたことは一度もありません。世間的に40代は十分に「大人」なのでしょう。しかし、いざ自分が大人になってみると、子ども時代あるいは若者時代に思っていた「大人」とはちょっと違う気がします。40代は思ったほど大人じゃないなと。今回は精神科医の熊代亨氏の記事を元に、そんな話題を。

 元記事は熊代氏ご自身の著書「『若者』をやめて、『大人』を始める』」を宣伝する内容ではありますが、高度経済成長期に言われた「成熟困難」問題のその後が議論されています。「成熟困難」というのはあまり一般的な用語ではないと思いますが、アダルトチルドレンのような、育った家庭環境のトラウマから生じる「大人になれない」ではなく、なんとなく大人になるのが怖いとか大人としての責任を持ちたくないという精神的・社会的に未成熟なままでいたいということを言っています。「ヤングアダルト」なんていう言葉もありますが、「大人になりきれない大人」といったところでしょうか。

 年齢的・肉体的の部分は置いておいて、社会的・精神的に「大人」かどうかという指標に、就職・結婚というのがあると思います。専業主婦という状況を除けば、仕事に就いて収入を得ていること、あるいは結婚して家族を持っているのが大人の証というわけです。しかしこれらの指標は、年齢的・肉体的に大人の人の中でも就職・結婚している人の割合が減少して社会問題化している実態があります。

 例えば「ニート」という言葉があり、就学・就労・職業訓練のいずれも行なっていない人を指しますが、15〜34歳の人口に占める「ニート」の割合は増加傾向にあります(ちょっと古いデータですが↓)。しかし実際のところ「ニート」と「引きこもり」の人は多くが重複していると言われ、内閣府の2010年の調査によれば、15〜39歳で引きこもりに該当する人は69.6万人もいるそうです。年齢的・肉体的に大人であっても、いわゆる「引きこもり」状態にある人が多く、精神的・社会的に「大人」と言いづらいのではないでしょうか。

 結婚についても、最近は晩婚化が指摘されていて、生涯未婚率も上昇傾向にあります(↓)。古き良き日本の年功序列の崩壊や非正規社員の増加によって、結婚適齢期の人(特に男性)の収入が減っているという問題もその背景にあるでしょう。しかし、何れにしても、いわゆる「大人」の指標である就職・結婚のハードルが昔より格段に上がっているということは言えると思うのです。

 熊代氏の記事に面白い指摘があります。それは、かつての「大人」には「責任」だけではなくきちんと「メリット」あったにも関わらず、現代の大人は「責任」だけを背負いこんで「メリット」が失われたという指摘です。熊代氏の指摘されている「メリット」とは、年齢が上がるにつれて年功序列で昇級するという経済的な部分だけでなく、心理的・社会的なメリットも大きいというのです。つまりかつての日本には、「年下は年上の言うことを聞くべき」とか「年下は年上を敬うべき」という儒教的な価値観が広く存在していました。それは言わば「心理・社会的な年功序列」で、大人が子どもや若者に命令したり物申す時の大義名分だったのです。

 しかし今の40代が子どもだった時代、この「心理・社会的な年功序列」への反発が強かったと思います。自分の子ども時代を思い出すと、田舎の方はまだこの手の年功序列が強く残っているにも関わらず、都会では核家族化や若者文化が花開いたことなどがあって、この年功序列は崩れつつありました。大学生になって東京に出てきた時、心理・社会的な若者の地位の高さに驚いたものです。田舎での大人と子どもの上下関係の厳しさの中で育った自分には、若者の地位が大人と肩を並べる、あるいはシチュエーションによっては上位に立っているように感じたのです。ちょうどその頃に女子大生ブームや女子高生ブームなどがあったのも、年功序列崩壊の表れだったのかもしれません。

 その傾向は現在も継続しているだけでなく、さらに少子高齢化も手伝って、都会ではもはや「心理・社会的な年功序列」は過去の遺物と言っていいでしょう。大人と若者・子どもの心理的・社会的地位の逆転現象をリアルタイムで見てきた世代が、まさに今の40代くらいではないかと思うのです。むしろ自らが若者時代に、この逆転をドライブした人も多いのではないでしょうか。

 つまり40代は、幼い頃に「心理・社会的な年功序列」から大人に偉そうにされた経験から、その地位の逆転を狙い、そして実現してきました。しかしそれは諸刃の剣で、自分が大人になってしまうと、今度は自分たちが下になってしまうのです。大人の地位が下がったことにより、自らの手で勝ち取った「若者の地位の高さ」に止まっていたい、いつまでも子供でいたい、ということになるのでしょう。昔の大人に比べて今の大人が幼く見えるのも、こういった心理・社会的な年功序列の崩壊が大きいのかもしれませんね。

2018年4月3日火曜日

仕組みが気になってしまう理系脳あるある

いつでも当事者気分、エンジニアだもの/理系の人々|【Tech総研】:

 今回はプログラマーあるあるネタですが、元記事はTech総研のよしたに氏の漫画ネタです(↓)。ついつい自らが当事者意識を持ってしまうエンジニア魂に、思わず「あるある」と口に出してしまいました。


 自分の場合、回転寿司屋さんとかファミレスとか居酒屋さんなどで、各席にある注文端末のデキが気になったりします。この操作性だとイマイチだなあとか、自分ならもっとこうするのになあとか。あとは実は自分は知らなかったのですが、最近のゲームセンターのゲームって結構Windowsで動いているみたいなんですよね。店員さんが調子悪いゲーム機を再起動したり、キャンペーンモードに切り替えていたりするのを見て、意外にも設定がコマンドラインベースなのにおぉっと思ったり。

  偏見かも知れませんが、エンジニアの人って、仕組みが全く分からないものは気持ち悪いと感じてしまう気がします。たとえブラックボックスだったとしても、きっとこんな風に動いているんだろうと想像してしまうのです。それが当たっていた時はふふっとなって、外れていたことがわかるとおぉーっとなる。ただそれだけなんですがね(笑)。

 最近、理系脳・文系脳なんて記事をよく書いているのですが、仕組みが気になってしまうのが理系脳、それを使った時の印象が気になるのが文系脳といったところかも知れません。

2018年4月2日月曜日

シンギュラリティ否定派は文系脳の感情論かも知れない

「人間にできてAIにできないこと」がこの本を読んでやっと分かった(佐藤 優) | 現代ビジネス | 講談社(1/2):

 今回は作家の佐藤優氏の記事を元にしたものですが、この元記事自体が新井紀子氏の著作「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」のレビュー記事に近いものです。人工知能(AI)技術を中心とした加速度的な技術の発展により人類の文明に計り知れない変化をもたらすとされる「技術的特異点(シンギュラリティ)」について、新井氏および佐藤氏の論調は、そういう時代は来ない、あるいはシンギュラリティは幻想だといった調子です。

 シンギュラリティが来るという言説が誤りとする根拠について、両氏は以下のように述べています。

論理、確率、統計。これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の言葉のすべてです。そして、それが、科学が使える言葉のすべてです。次世代スパコンや量子コンピューターが開発されようとも、非ノイマン型と言おうとも、コンピューターが使えるのは、この3つの言葉だけです。
「真の意味でのAI」とは、人間と同じような知能を持ったAIのことでした。ただし、AIは計算機ですから、数式、つまり数学の言葉に置き換えることのできないことは計算できません。では、私たちの知能の営みは、すべて論理と確率、統計に置き換えることができるでしょうか。残念ですが、そうはならないでしょう。

 いわゆるAIは、「強いAI」と「弱いAI」に分類されます。「強いAI」というのはちょっとSF的なAIで、そこに精神が宿るとされる代物です。映画ターミネーターに登場するスカイネットのような、自らの意思がある(と少なくとも外からは見える)AIです。一方「弱いAI」は、現在のAIブームの主流であるパターン認識を中心とした、特定の問題解決特化型のコンピュータプログラムです。もちろん「弱いAI」が自意識を持つことはありません。

 そして、佐藤氏・新井氏の上記の主張が「強いAIが実現されることは当分ない」と言っているのならば、その通りだと思います。少なくとも現在主流の「弱いAI」は、例えばDeepMind社のAlphaGoは「囲碁」という問題解決のための専用プログラムですし、その最新バージョンAlphaGo Zeroはもはや勝てる人間はいないとさえ言われていますが、そうであってもあくまでも特定問題解決型プログラムで、自ら意思を持っているわけではありません。「弱いAI」の延長線上に「強いAI」があるというわけではなく、両者は全くの別物なのです。

 しかし「強いAI」の実現性が今のところ乏しいことでもって、シンギュラリティは来ないと結論づけるのも早急な気がします。佐藤氏は、スーパーコンピューターの助成金詐欺容疑で起訴された齊藤元章被告人の言葉として、以下のような言葉を引用しています。

クリエイティヴィティ、マネジメント、ホスピタリティについても、AIが人間の能力に匹敵するようになるのは案外早いのではないかという気がしています。そうした意味において、現実がSFを超える日は近いのではないかと私は思います。

 佐藤氏は、この斎藤被告人の言葉はもはや宗教的なものだと切り捨てています。しかし自分は、特定問題解決型の「弱いAI」が今以上にブラッシュアップされ、やがて「弱いAI」の適用先も多岐に渡るようになり、人間の仕事の価値である「クリエイティヴィティ」「マネジメント」「ホスピタリティ」を凌駕するかも知れないという意味であれば、否定できないと思います。

 「シンギュラリティ」に関する極端な議論は、「強いAI」と「弱いAI」を取り違えていることが原因であることが多いと思うのです。シンギュラリティ否定派は、「強いAI」を頭に思い描き、神に取って代わるAIが生まれることはないとか、意思を持ったAIが人類を滅ぼすなんてことは杞憂だと言います。一方でシンギュラリティ肯定派は、頭に「弱いAI」を思い描いていることが多く、弱いAIが解決できる問題がどんどん増えしかも各分野で人間よりも良い成績を叩き出す時代を想像している気がします。そしてこれは完全に自分の印象だけかも知れませんが、研究者とか数学者・科学者と呼ばれる人の多くは後者で、前者には社会学者や政治家・作家・法律家といった人々、概ね科学万能論に押し流されまいとする人々が多い気がします。

 失礼な言い方かも知れませんが、いわゆる文系脳の人たちにとって、「AI」という科学万能主義の象徴は自らの存在価値をゼロにしかねない存在だと捉えられているのではないかとさえ思います。自分たちが連綿と研究してきた社会・文化・政治といったものが一瞬でAIに解析され、自分たちが無用の長物に成り下がってしまうかも知れないという不安感と焦燥感。そして主流の「弱いAI」のカラクリを理解できないので、SFで見たようなAI(実は「強いAI」)を槍玉に盛んに攻撃するのではないかと。