2018年7月30日月曜日

幸せのお値段、たった1,055万円

Happiness, income satiation and turning points around the world

 今回の話題はなんとも下世話ですが、幸せはカネで買えるのか。そしてカネで買えるとしたら、それはいくらなのかという話題です。最初の命題「カネで買えるのか買えないのか」については賛否両論ありますが、ここでは一旦カネで買えるものと仮定します。あるいはカネで買えるレベルの生活満足度と考えてもいいでしょう。元にしているのは、Purdue UniversityのAndrew T. Jebb氏、Louis Tay氏、Ed Diener氏、Shigehiro Oishi氏による論文記事です。

 ここに33歳の未婚の女性が3人いるとします。Aさんは年収4万ドル(日本円で444万円)、Bさんは年収12万ドル(1,333万円)、Cさんは年収20万ドル(2,221万円)です。Aさん・Bさん・Cさんのうち、一体誰が一番幸せでしょうか。4氏の研究によれば、AさんよりもBさん・Cさんの方が幸せを感じる傾向が強いそうです。しかし、一方でCさんがBさんよりも幸せというわけではありません。

 基本的には年収は多ければ多いほど幸福度も上がるのですが、ある一定の金額で頭打ちになるのです。この頭打ちになる金額は収入の「飽和点」と呼ばれます(↓)。単純に右肩上がりにならず頭打ちの飽和点ができる(いやむしろ徐々に幸福度が下がってしまう)のは、高収入な人ほど拘束時間が長かったりストレスが多い仕事に従事していることが多く、趣味や余暇の過ごし方で得られる幸福が少ないのかも知れません。


 そして「飽和点」は地域や性別などによって異なるのですが、グローバルでは9.5万ドル(1,055万円)という研究結果が出ています(↓)。つまり、幸せをカネで買おうとしたとき(カネで買えるレベルの生活満足度を完全に満たすには)、その値段は9.5万ドル(1,055万円)と言えるかもしれません。


 地域別に少し細かく見ていくと、オーストラリアとニュージーランドは12.5万(1,388万円)、中東と北アフリカは11.5万ドル(1,277万円)もないと幸せを買えないのに対し、アフリカでは4万ドル(444万円)、ラテンアメリカとカリブ海周辺は3.5ドル(389万円)とお得になっています。また性別では、男性が9万ドル(1,000万円)に対して女性の方が10万ドル(1,110万円)と少し高めなのも面白いですよね。研究チームの解釈は、男性はカネだけでなく仕事の成果や社会的地位に幸せを感じる分、カネに関しては女性より少ない金額で満足するのではないかと分析しています。

 もちろん、ことはそう単純ではありません。例えば、インディアナ大学のダン・サックス助教授は「画期的な研究だが、これだけで幸福と年収の関わりについて判断できない」と言われています。幸福感という尺度は非常に個人的で曖昧なものですし、別の研究では、年収の高い人は低い人よりも自らを過小評価する傾向も見られるそうです。そもそも、幸せはカネで買えない、プライスレスだと主張される方もいるでしょう。

 しかし、自らを幸せだと言えるためには、ある程度のカネが必要だということも紛れもない事実です。そして、カネで買えるレベルの生活満足度という意味で「幸せ」を捉えたとき、年収9.5万ドル(1,055万円)がひとつの目安になるということです。カネで買える「幸せ」の頂点は手の届かない高みにあるわけではなく、億万長者にならなくても彼らと遜色のない幸せが得られるんです。あえてこういう言い方をしますが、年収たった1,055万円で、ジェフ・ベゾスやビルゲイツと同等以上の「幸せ」を手に入れられるのです。

2018年7月29日日曜日

視力をアップさせる検査表

思わず食い入るように見入ってしまう、画期的な男性向け視力検査表

 いきなりですが、あなたは視力はいい方ですか。最近目が悪くなった気がするんだよね、なんていう方もこれなら視力が回復してしまうかもしれないという画期的な視力検査表があります。と言っても、効果があるのは男性諸氏だけ。元記事は、Gigazineのだいぶ古い記事です。

 その視力検査表がこちら(↓)。思わず目を細めてしまったあなた。普段の2割増の視力になったかもしれません。

2018年7月28日土曜日

AIに仕事を奪われた人間は同時に生きがいも奪われるのか

「人間不要社会」でヒトはどう生きるのが正しいのか

 今回のは、この山ちゃんウェブログでよく取り上げる、人工知能(AI)とシンギュラリティの話題です。シンギュラリティというのは、技術的特異点などと訳され、AIの持つ知能の総和が人類の知能の総和を越える時とか、テクノロジーが指数関数的に発展することで、AIやポストヒューマンが人類から文明の主役を奪う時などと定義されています。元記事は現代ビジネスのもので、多様煽りが入ってはいますが、自分は本当にこんな世界が来ると思って備えておいたほうがいいと考えています。

 文明の主役が人類からAIに変わった近未来。元記事ではフィクションですが、あるビジネスマンの日常を描いています。

 朝。目を覚ますのはAIスピーカーから流れて来る女性の優しい声。起床とともに、天気が良い時はIoT化(Internet of Things:あらゆるモノがインターネットに接続された世界)されたカーテンが自動的に開き、太陽の光を取り込んでくれます。天気が悪い時は、やはりIoT化された照明が自動的に点灯します。今日の天気やニュースなどを伝えてくれるAIスピーカーの声を遮り、カーシェアリングの車の手配を依頼します。AIスピーカーが車の到着を知らせてくれると、家の前に止まっている空調の整った車に乗り込みますが、運転そのものは自動運転にお任せです。

 オフィスに到着したら、AIが指示してくる仕事をこなしていくことになります。つまり、経営方針や日常の営業戦略などを立案するのはAIで、経営者や上司・マネージャーといった役割はすでに人間からAIに移りました。AIは我々の表情や体温までも正確に読み取って、リアルタイムで一挙手一投足をマネージメントしてくれます。もちろん書類の作成や経費の計算など事務的な仕事もほとんどAIがこなしてくれるので、人間がやるべき仕事は劇的に減り、「働き方改革」はテクノロジーの進化で自動的に実現されたのです。

 では、オフィスで人間に残された仕事とはどんなものでしょうか。それは、自動運転で運ばれてきた積み荷を社員別の宅配ボックスに入れたり、システムがエラーを起こしたときに修復したり、関係各所に謝罪の電話を入れたりする仕事です。むかし「AIアシスタント」なんて言われた時代がありましたが、AIと人間の立場が逆転した世界では、判断を下したり選択したりするのはAIの役割。アシスタント的な仕事は人間の役割となっています。

 近未来のビジネスマンの日常を少し垣間見ましたが、いかがでしょうか。仕事の中核はAIなので、人間には仕事に「やりがい」「生きがい」のようなものを見いだすのは難しそうです。今のような週5日勤務ではなく、週3日勤務くらいで十分に仕事は成り立っていくでしょう。人間の上司と違って、AIの上司はセクハラやパワハラをすることはないので、今よりストレスも減りそうです。余暇の時間もたっぷり取れそうですから、ジムに通って健康になったり趣味に時間を費やすのもいいでしょう。

 仕事から解放された、夢のような未来。でも、このストーリーに一抹の寂しさを感じるのは自分だけではないはずです。仕事に「やりがい」や「生きがい」を持てなくなった人間は、一体どうなってしまうのでしょうか。モーレツ会社員を続けてきた人が、定年退職後に急に趣味に生きようとしても難しいように、AIに仕事を奪われた人間は、長い人生を単に時間を潰して生き長らえるだけの存在になってしまうのでしょうか。

 そうはならない、と言われるのは哲学者の岡本裕一朗氏です。岡本氏は「フランスの思想家であるドゥルーズは『人間の欲望は多様な方向で常に変化していく』と語っています。欲望が時代とともに変化するように、人間にとっての幸福も時代や社会によって新しく規定されていくことになります」と。しかし、一生懸命仕事をして誰かの役に立ったり豊かさを手に入れたりすることに生きがいを見出す社会から、一体どんな社会になっていくのでしょうか。仕事をAIに奪われた人間は、一体何を生きがいにして生きるようになるのでしょう。

2018年7月25日水曜日

日本人と中国人が相容れないワケ

列に割り込む中国人は、怒られたらどうするか?

 今回の話題は、日本人(的な考え方をする人)と中国人(的な考え方をする人)が互いに理解できないのは、考え方の根本が異なっているからだというお話です。元記事は、日経ビジネスオンラインの田中信彦氏の記事です。

 家族か友人との食事に、中華料理のお店で大皿料理のエビチリを注文したとします。みんなお腹いっぱいですが、お皿にはあと2つほど残っています。2つほど残ったお皿を店員さんは何も言わずに持って行きました。こんなシチュエーションに、ちょっとイラっときませんか。

 また、行列のできる人気ラーメン店に並んでいたとします。そこへ誰かが、あなたの前に平然と横入りしました。見とがめたあなたが注意すると、その人物は、一旦列を離れましたが、あなたの後ろに横入りし直しました。いやいやいや、そうじゃないだろと再び注意するでしょうか。声に出して注意しなくても、少なくともイラっときませんか。

 少し残った食事を勝手に下げられる例も横入りの例も、当たり前のこととして平然としていられる人は、中国人的な考え方の根本を持っている人です。これらに目くじらを立てたくなるのが、日本人的な考え方の根本を持つ人です。ちなみに自分は、典型的な日本人的考え方で、口に出して注意はしないかも知れませんが、かなりイラっとしそうです。

 では、日本人的な考え方の人は、なぜイラッとするのでしょう。残ったエビチリ2個を食べないとお腹が空いてしまうからでしょうか。行列で自分の前に横入りされると、ラーメンを食べるのが遅くなってお腹が空いてしまうからでしょうか。おそらく、お腹いっぱいの状態でエビチリ2個を食べ損なっても、どうせ長い行列で1人分の待ち時間が増えても、あなた自身にとってはあまり現実的な影響はないでしょう。日本人的な考えの人が腹を立てているのは、そこじゃないんです。エビは客がお金を出して買ったものなのだから、店員が客に断りもなくそれを処分するとは何事だ、というのが怒りの元です。横入りの例では、あなたの後ろに横入りしてもあなたの待ち時間は変わりませんが、もっと後ろに並んでいる人に迷惑がかかる行為で、自分さえ良ければいいわけじゃないからです。

 自分にとってだけの合理的な考え方をするなら、どちらの例も大して腹をたてることでもないはずです。現に中国人的な思想の根本を持つ人は、残り2つのエビを持って行かれて文句を言ったり、横入りされて怒りをあらわにする人は少数派です。しかし、日本人的な考え方をする人が腹が立てるのは、「スジが通らないから」です。日本人的な考え方とは「スジ論」です。一方で、自分にとっての影響度だけを合理的に判断しようとする中国人的な考え方は「量(個人への影響度)の論理」です。

 特に、横入りの例が典型的です。あなたの前に横入りした人物はおそらく中国人的な考え方の人で、彼は横入りを咎められた時、こう考えます。ああこの人は急いでいて待ち時間がたった1人分伸びることも許せないんだ、と。それならば、この急いでいる人の後ろに入れば問題ない、と。それなら文句を言われる筋合いはない、と。しかし、日本人的な考え方のあなたは、自分さえ良ければいいわけではありません。再びその人物に注意するかもしれません。しかし彼は、なぜあなたが怒っているのか、全く理解できないでしょう。

 日本人的な考え方の人は、自分だけでなく全体の規範を重視するのに対し、中国人的な考え方の人は、自分だけの合理性を重視します。考え方の根本が異なるのは、様々な理由があるでしょうが、例えば日本は歴史的な経緯もあって、いまだに社会的「連座制」が色濃く残っていることがあるかも知れません。一方で、中国は人口が多すぎるということもあって、コミュニティ全体よりも個人の利益を重視する風潮があるのかも知れません。何れにしても、日本人的なスジ論と中国人的な量(個人への影響度)の理論は、互いに理解し合うのは相当に難しいと言わざるを得なそうです。

2018年7月23日月曜日

過程と結果はどちらが大切なのか

「100点答案」を褒めると勉強嫌いになる

 今回は、タイトルの結論を最初に言ってしまいますが、結果よりも過程重視でいたいという話題です。元記事はPRESIDENT Onlineの松尾英明氏の記事です。自分は子どもの頃からそう育てられたからかもしれませんが、どちらかと言うと「過程重視」に偏っています。もっと結果にこだわらなければと思う場合もありますが、概ねそれで良かったと思っていて、子育てもそうありたいと思っているところです。そして、元記事で松尾氏も子育ては過程重視であるべきと言われていますので、考え方自体は間違っていなかったんだと心強く思っているところです。

 元記事で問いかけられているのは、子どもが100点満点を取った時に、親として何と声掛けするのがよいかという問題です。皆さんは何と声をかけるでしょうか。
A:100点なんてすごい!おめでとう
B:気を抜かないで、次も頑張ってね
C:よく頑張っていた結果ね

 Aは100点という結果を褒めているので、90点ではダメというメッセージにも受け取れます。Bはもっと悪く、1度の100点ではダメ、継続しないと褒めてやらないぞということになります。いずれも結果主義で、子どもとしては「いい点を取れない自分は価値のない存在だ」と無意識に思い込んでしまい、学年が上がるにつれて100点が取れなくなったとき、糸が「ぷつっ」と切れたように勉強への意欲をなくすのだそうです。

 一方、Cは過程主義で、100点に至る努力を評価しています。Cの声かけの良い点は、「たとえ次が100点でない場合でも成長につなげられる」ということです。結果は良いときも悪いときもあり、本人にはコントロールできないことです。それに対して、それに至る過程は本人がコントロールできる部分です。もちろん過程をしっかり頑張れば、結果も付いてくることも多いでしょう。しかし頑張って勉強しても、結果が出ないこともあるのが世の常です。結果に一喜一憂するのではなく、しっかり準備して良い結果が出る可能性を高めたことを褒めてあげれば、子供は結果にビクビクしなくなるのではないかと思うのです。

 結果重視か過程重視かという話で思い出したのは、今年からシアトルマリナーズの特別補佐に就任したイチロー選手の、結果とプロセスのどちらが大切かというインタビュー記事です。イチロー選手は、プロの野球選手である以上結果が大切なのは間違いないと言われてはいますが、ただもっと重要なこととして次のように言われています。

負けには理由がありますからね。たまたま勝つことはあっても、たまたま負けることはない。
本当の力が備わっていないと思われる状況で何かを成し遂げたときの気持ちと、しっかり力を蓄えて結果を出したときの気持ちは違う。

 最初の松尾氏の記事からは、「結果を出せ!」とか「結果を出さなくてはならない」といった強要やプレッシャーは、かえってマイナスの面が出やすいということが言えそうです。そして、イチロー選手の言葉からは、結果は嘘をつくことがあるが、積み重ねた努力の過程は嘘をつかないと言えるでしょう。結果はたまたま出てしまう場合があります。しかしそこで慢心してしまうと、後が続きません。長く成功し続けるためには、過程を大切にしないといけないということなのです。

 自分たちが子供の頃、日本文化的な発想はまだ色濃く残っていて、過程重視の教育のもとで育ったと思っています。しかし、西洋化とグローバル化が進むにつれ、結果の華やかさに目を奪われるのか、結果重視を掲げる人が増えてきたような気がします。もちろん、結果を軽視しろというわけではありません。しかし、結果にこだわりすぎると、かえって結果が出ないというジレンマも多そうです。むしろ過程を重視して、結果は後からついてくる、くらいになれば一番いいですね。

2018年7月21日土曜日

利己的な人は嫌われるが、利他的な人も嫌われる

「利他的な人」は嫌われる:実験結果

 今回は、人間関係は「中庸」がいいというお話です。元記事はWIREDの記事で、 Olivia Salon氏の記事の翻訳記事です。中庸というのは、儒教における中心的な概念で、平均とか中間というのともちょっと違っていて、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、かつ通常の感覚でも理解できるものという意味だと言われています。

 ターゲットは「利己的」と「利他的」です。利己的つまり「エゴイズム(egoism)」というのは、自己中心的・自分勝手・自分さえ良ければ他人はどうなってもいいといった考え方のことで、そういう人(エゴイスト)が嫌われがちというのは肌感覚でも納得できます。一方で、英語の「アルトゥルイズム(altruism)」は日本であまり一般的ではないですが、「利他的」というのは自己の利益より他者の利益を優先するという考え方ですから、そういう人は集団の中でむしろ好かれそうな気がします。

 ところが、「利己的でないメンバーをグループから放逐したいという願望」と題された論文(『Journal of Personality and Social Psychology』に掲載されたもので、4本のシリーズ論文のうち1つ)によると、「利他的」な人も、メンバー全体の「ハードル」を引き上げてしまって他のメンバーを「悪く見える」ようにするため、かえって恨みを買うことがあるというのです。ちょっと合コンなんかの場面を想像してみましょう。あなたは女性だとします。同じ合コンの場に参加している女性の友人が、やたら献身的に食べ物を取り分けたり飲み物を切らすことなく注文したりしていると想像してみて下さい。普段、女性同士の場ではこんなに献身的な態度をとることなんてないのに、初対面の男性陣の評価を抜け駆けで上げるなんてズルイ... そんなふうに思ったりしないでしょうか。

 極端な例でしたが、要するにそういうことなのです。変に「利他的」すぎる態度はウソくさいのです。元記事のさらに元を辿った英語版記事のタイトルは、「Do-gooders are unpolular team members」というもので、「Do-gooder」というのは「慈善家ぶった人」とか「いい子ぶりっ子」といった侮蔑的な言葉です。

 実験はもともと、ずるい振る舞いに対して予想される社会的排除の研究として行われたゲーム形式の実験だったのですが、予想通り、被験者は欲張りで利己主義の人とはもうプレイしたくないと答えました。しかし一方で多くの人が、利他的な人とももうプレイしたくないと答えたのです。理由は「あの人のせいで自分が悪く見える」というもので、あの人には何か裏の目的があるのではないかと疑う参加者もいたそうです。

 自分勝手でワガママな人も嫌われるけど、いい子ちゃんすぎる人もウソくさくて嫌われる。過ぎたるは及ばざるが如し。つまりは、そいういうことかも知れません。人間関係は「中庸」つまりは「ちょうどいい」というのが王道かも知れません。

2018年7月19日木曜日

窓は右側を開けるべし

意外な落とし穴!? 蚊や虫の侵入を防ぐ 網戸・窓の使い方

 今回はちょっと軽めの豆知識ですが、網戸を正しく使うための窓の開け方のお話です。ここのところの猛暑で、窓を開けて網戸をするというよりは、締め切ってエアコンという方が多い気もしますが、秋に備えて少しお付き合いください。元記事はYahoo!ニュースのものです。

 ノイズキャンセル付き窓の記事を書いた時に述べたように、実は自分のマンションは車通りの多い通りに面していて鉄道の駅も近いので、うるさくて窓を開けることはほとんどありませんでした。なので、意外にもこのことを知りませんでした。

 網戸の役割は「風は通すけど虫は通さない」、これに尽きると思います。しかし、正しく窓を使わないと「風も通すけど虫も通す」ということになってしまうのです。その誤った使い方がこちら(↓)。そうです。窓を半開きにしているケースです。一見、窓を全開にするより、虫の侵入が少ないように感じられますが、実はこの使い方はNG。窓と網戸の間にすきまがうまれ、虫が入りやすくなっています。


 正しい使い方は、このように窓を全開にすることです(↓)。網戸と窓のフレーム部分が重なってしっかりと虫の侵入経路を防いでいます。


 窓を全開にするほどじゃないんだよなあという場合、こちらのように半開は半開でも、右側を開けるようにするのです(↓)。こうすれば、網戸と窓のフレーム部分が重なるので虫の侵入を防いでくれます。


 うちもそうですが、ほとんどの窓は構造的に右側を開くようになっていると思います。したがって、全開でも半開でもいいので「窓は右側を開けるべし」と覚えておけば良さそうですね。

2018年7月17日火曜日

社会的連座について考えてみる

なぜ弱きものに優しくあらねばならないのか

 今回はWebマガジン Books&Appsの中から、高須賀氏の記事を元に、いまだ社会にはびこる「社会的連座」について考えてみようと思います。連座というのは、もともと罪を犯した本人だけでなくその家族などに刑罰を及ぼすことを言い、例えばクラスの1人の子どものいたずらでクラス全員が罰走になるというのもある意味で連座です。連帯責任という言い方をされる場合もあります。ここでは、「社会的な」連座、例えばある人が罪を犯した時にその家族や同じ組織に属する人まで社会から責められるということを言おうとしています。

 例えば、元記事でも取り上げられている秋葉原通り魔事件。2008年6月8日東京の秋葉原で、加藤智大被告がトラックトラックで歩行者5人をはねただけでなく、被害者の救護にかけつけた通行人・警察官ら17人をダガーナイフで立て続けに殺傷した事件です。事件から10年が経ちますが、画面に映し出された鮮烈で残酷な光景はいまだに記憶に残っている人も多いでしょう。しかし、事件はそれだけではありません。事件から6年近くが経った2014年、加藤被告の実弟は自らその命を絶ちました。実弟の手記からは、マスコミをはじめ社会が加害者家族を責め立て、やがて自殺にまで追い込んだ様子が見て取れます。犯罪者家族には人権などないとでも言わんばかりに、社会・マスコミは加害者家族がどこに引っ越しても執拗に追いかけ責め続けたのです。

 他にも、女優・高畑敦子氏の長男で、当時俳優だった高畑裕太被告が起こした性的暴行事件が思い出されます。2016年8月23日、前橋市内のビジネスホテルのフロント係Aさんが、映画の撮影のためホテルに宿泊していた裕太被告に性的暴行を受けたという事件です。すでに成人している裕太被告が起こした事件に、社会・マスコミは母親である敦子氏を責め立て、ついには女優としての仕事は激減したと言われています。

 2つの事件で思い知らされるのは、何も悪いことをしていなかったとしても、社会は犯罪者に関わりのある人間を許さないということです。加害者の家族だというだけで、人生が壊されるという、露骨な差別が行なわれているのが現実なのです。

 思えば、日本には古代律令制の時代から五保制(五保の制)というのがありました。保長が責任者となって相互扶助・治安や徴税などに関して連帯責任を負わされたもので、秦の商鞅が定めた什伍に元にした、唐の隣保の影響を受けた制度と言われています。つまり、遥か昔、しかも日本だけでなく中国でも連座というのは存在していたのです。犯罪を犯した者、年貢を納めず逃げた者、そんな者はすでに逃亡していたり逮捕されていたりして、人々の怒りの向け先がなくなってしまう。下手したら、社会不安や為政者に対する不満に繋がるかもしれない。為政者の地位を脅かす元になりますので、怒りの矛先を作るために連座が作られ、長い間有効に機能してきたのでしょう。家族など親族に対する連座は特に「縁座」と呼ばれ、ここで言う連帯責任の「連座」と区別されることがありますが、現代日本でいまだに「社会的縁座」「社会的連座」と姿を変えて残っていると言えそうです。

 じゃあヨーロッパなどでも連座というのはあったのでしょうか。自殺を重罪とするキリスト教社会の中世ヨーロッパでは、自殺者の死体が燃やされた上で引き回されるだけでなく遺族も処罰されたとか、魔女狩りにおいて火刑に処せられた者の子供も鞭打ちに処せられた例があるそうですので、ヨーロッパにも古くからあった考え方なのでしょう。ただ直感的には、現代においては日本ほど根強く残っていないような気もします。例えば、ある飲食店で店員がお客さんの財布を盗んだとします。日本だと、お店の責任者も社会的連座でお客さんに謝罪することが多いでしょう。一方でヨーロッパでは、犯人はその店員であってお店も迷惑を被った被害者なのだから、お店は謝らないことが多いという違いがあります。ヨーロッパにも歴史的には連座はあったものの、現代にも社会的連座として強く残っているのは、どうやら日本のようです。

 ただ日本人的感覚として、社会的連座が全くないというのも違和感がないでしょうか。先の、飲食店で店員が財布を盗んだ時にお店側も被害者ヅラするのは、なんだかしっくりきません。他にも例えば昨年、日産自動車が新車の完成検査を資格のない従業員に行わせ、提出書類上は有資格者が担当したと偽装した事件がありました。神戸製鋼所が強度などの性能データを改ざんしした事件もありました。例えば、これらが経営者の指示でなく、従業員が勝手に行なったことだったとします。経営者が記者会見で「いやぁうちも迷惑被っているんですよ、あいつが勝手にやったんでしてね」なんて言ったらどうなるか、火を見るより明らかですよね。政治家の秘書が収賄事件を起こした時、政治家自身が「私も迷惑なんですよ。あいつが勝手にやったことでして」と言ったら、どうなるか。せめて「監督不行き届きで、私の不徳の致すところです」くらい言って頭を下げるくらいしないと、納得しないでしょう。

 社会的連座。概ね無い方がいいと言えるでしょうが、全く無ければ無いで変な気もします。皆さんはどう考えるでしょうか。

2018年7月16日月曜日

もはや標準世帯は少数派。有業者ゼロ世帯こそ多数派という時代

総世帯数の5%にも満たない「標準世帯」

 あなたの世帯の人員構成はどんな感じでしょうか。自分の場合は、自分とオクさんは共働き、小学校3年生の長男と保育園の年中組の長女という4人家族の構成です。今回の話題は、「標準世帯」と言われる「夫が働いて収入を得て、妻は専業主婦、子どもは2人の4人世帯」というのは、もはや少数派になってしまっているという話題で、元記事は大和総研ビジネス・イノベーションの是枝俊悟氏のものです。

 テレビや新聞などで、家計とか税金関係・社会保障などの計算する上のモデルケースとされる「標準世帯」。自分たちが子供の頃は実感的にも、シングルインカムで2人の子どもという家庭は多かった印象です。実際、1974年はこの標準世帯というのは世帯構成の中で最も多いケースで、総世帯の14.56%もがこの構成です(↓)。そこから時代が下って、昭和も終わろうかという1988年には標準世帯は2位(9.67%)に、直近の2017年にはランク外と言えそうな9位(4.60%)に下がっています。代わって多くなっているのが、1人世帯です。それも、1988年には有業の1人世帯がトップ(15.78%)だったのに対して、2017年には無業の1人世帯(16.95%)がトップで有業の1人世帯(15.65%)と合わせれば、10世帯のうち3世帯もが1人世帯ということになります。


 他のデータを見ても、1人世帯や2人世帯がどんどん増える一方で、4人・5人といった人数の世帯は減少傾向が止まりません(↓)。


 その一方で、例えば「制度改正の家計への影響」といった議論がされる時、相変わらず標準世帯をモデルケースとして議論されたり報道されたりしています。是枝氏はご自身がレポートを作る側の方ですので、自戒が必要だと述べておられますが、自分としては画一的に世帯を捉える時代はとっくに終わっているんじゃないかと思うのです。

 なんとなく全世帯を代表させる形で「標準世帯」というものを定義し、その標準世帯に与える影響を考察するだけで済んでいた時代ではなくなり、個別議論が必要な時代。例えば最初の図で、1974年・1988年・2017年のトップ3を見ると、1988年までは有業者が1人以上の世帯がトップ3を全て占めていたにも関わらず、2017年の1位と3位は有業者はゼロなのです。お年寄りの1人暮らしやご夫婦の世帯が、グッと増えているのかもしれません。つまり、少なくとも有業者ゼロの少人数世帯は、標準世帯とは別にモデルケースとして考慮すべき時代はとっくに来ているんだろうと思います。

2018年7月14日土曜日

スマホ全盛時代は意外に短いかも知れない

「5G通信の超爆速社会ではスマホが不要になる」は本当か

 今回の話題は、来るべき5G通信で一体社会はどう変わるかというもので、元記事は現代ビジネスの小林啓倫氏の記事です。5G通信というのは、次世代無線通信システムで現在の4Gの次の世代という意味で、5th Generationです。例えばNTTドコモは、2020年のサービス提供を目指しているそうで、もうすぐ我々の手に届くようになりそうです。

 思えば最近のテクノロジーの発展は、通信技術それも無線通信技術が大きく牽引してきました。自分が初めてのスマホiPhoneを買ったのはたしか2010年。iPhone4の時代で、まだまだ無線通信規格は3Gでした。3Gの通信速度の最大値は14.4Mbpsですから、今と違ってWebサイトの表示にも時間が掛かったものでした。次に登場した4G(現在も自分のiPhoneXは4G通信ですが)は、最大速度が150Mbpsですので、通信代さえ許せば外出先でYouTubeの動画でさえも見られます。そして次の5Gでは一体どうなるのか。5Gの通信速度は4Gの100倍とも言われていますので、社会が大きく変わる可能性に期待が膨らみます。

 5Gで期待されるのは、速度だけではありません。密かに期待するのは、同時接続数の増加で、1平方キロメートル内で100万台の接続を可能とすることが目指されています。自分もその業界の片隅にいる「IoT(Internet of Things)」では、さまざまなモノがインターネットにつながって情報をやり取りします。すでに200億台ほどのIoTデバイスがインターネットに繋がっていて、それは40億人と言われるネットユーザーの実に5倍です。この後もこの差はどんどん開いていくことと予想されます。総務省の2016年の「電波政策2020懇談会」では、「工場・製造・オフィス」や「建設・土木」「農林水産業」といった分野で、5Gによるプロセス全体の自動化が実現可能になるという話もあります。

 他にも、VR(バーチャルリアリティ)の発展や、デジタルサイネージやウェアラブル端末を通じて運動を管理・計画したり、冷蔵庫が自動で中身を判断してレシピを提案したりといった世界が予想されています。私たちは、電話がスマートになったら便利になることを経験済みです。家電や家具・衣服など身の回りのあらゆるものがスマートになったら、一体どんな便利な社会になるのでしょうか。

 逆説的かもしれませんが、5Gが当たり前の世界はスマートフォンが要らなくなる世界かもしれません。つまり情報インプット側のセンサー類はIoTと称してインターネットにつながりますが、その情報がクラウドで加工された後、アウトプットされるデバイスもありとあらゆるデバイスになるかも知れないのです。つまり5Gが発展した社会とは「社会全体がロボット化した社会」かも知れないのです。もはや、個人が端末を持つ必要がなく、行く先々で、AIにつながったスマートなモノたちが私たちをサポートしてくれるというわけです。

 家というものの将来を考えた時、家事ロボットがお風呂を沸かしたり料理してくれたりするのではなく、家全体がスマートハウスとなって、さしずめスマートお風呂・スマート冷蔵庫・スマートオーブンなどが家事をこなしてくれる世の中に向かっています。他にも、昔流行った「ユビキタスコンピューティング」。コンピュータがいたる所に存在していつでもどこでも使える状態を言いましたが、5Gになってこそ陽の目を見るのではないでしょうか。最近ですと、iPhoneのFaceIDなど手を触れることもなく見るだけで認証されるデバイスも増えていますので、もう少し先には「アンコンシャスセキュリティ」なんて言われた、全く意識することなく行く先々でデバイスたちに認証され、その人にパーソナライズされた情報が提供される。そんな世の中になってもおかしくないでしょう。わざわざ個人の専用端末を持ち運ぶなんてスマートじゃない、なんて言われる世の中が来るかも知れません。

2018年7月12日木曜日

人間になりきるAIとAIになりきる人間

Human labor is propping up some companies’ fake AI software

 今回はこの山ちゃんウェブログでよく取り上げている人工知能(AI)ネタですが、元記事はMIT Technology ReviewにおけるErin Winick氏の投稿記事です。

 最近Google HomeやAmazon Echoのようなスマートスピーカーが流行っていますが、人間がしゃべる言葉をAIに解析させることで、「キーボード」「マウス」「タッチパネル」と続いてきたコンピュータインタフェースを、次の段階である「声」に移行しようという革新的なものです。まだ "OK Google!" とか "Alexa!" のようなキーワードが不自然で、命令も自然な会話というよりは少し窮屈な言葉が必要ですが、そのうち人間と区別がつかないほどの会話相手になって行くだろうと期待が膨らみます。他にも、DeepMind社のAlphaGoがもはや囲碁の世界では人間の敵なしになったとか、トレーダーの仕事がごっそりAIに持って行かれたとか、AIの最先端技術の勢いはとどまるところを知りません。

 遅ればせながら自分が務める電機メーカーでも「AIを使用したIoTデータ解析」なんてソリューションを提案したりしていますが、実際のところ、その技術の内幕が自分にはイマイチわかっていません。AIのことがもっと分かっていないお客さんからすると、何だかスゴいことをしてくれそうな提案に思えます。Winick氏の記事は、そんな我が社のような会社が他にもあって、人間にAIのフリをさせているケースがあるという指摘なのです。

 よく考えれば、AIの開発には莫大なコストが掛かります。AI開発の急先鋒であるAmazonは160億ドル、Alphabet(Googleの親会社)は139億ドルもの研究開発費を投じているというデータもあります。正直言って、多くの企業にとって、そんな莫大な費用をAI開発に掛けられないんじゃないでしょうか。中小ながらも技術系として知られる日本企業として、全くAIは分かりませんとも言えない。一方でそんな莫大な研究開発費を掛けることもできない。そんな我が社と同じような境遇の企業には、悪魔の誘惑があると思うのです。(我が社の名誉のために言っておきますが、もちろん我が社は悪魔の誘惑に負けてはおりません。念のため)

 そう...人間にAIのフリをさせようという作戦です。いかにもAIがスマートに解決したかのように見せて、裏では人海戦術で必死にデータ解析をする。そんな悪魔の誘惑に負けてしまった企業があるというのが、Erin Winick氏の記事で言われていることなのです。例えば、経費レポートを作成するアプリ「Expensify」は、アマゾンのクラウドソーシング「Mechanical Turk」にレシート画像を投稿し、人海戦術で画像に含まれているデータを入力させていたのです。ちなみに、同社は独自のSmartScanソフトを使って作業していたと主張していましたが、人海戦術であることに違いはありません。もちろんかなりの人件費が掛かりますが、それでもAIをイチから開発することに比べればずっと安いはずです。

 何だか面白いと思いませんか。AIの開発者はAIをどんどん人間に近づけようと躍起になっていますが、一方ではAIのフリをする人間がいるというこの皮肉。純粋にコストベースで考えるとAI開発よりも人件費の方が安いからこういうことが起きるのですが、何だか人間の価値がAIより下になってしまったかのようで、悲しい気もします。

 そう言えば以前に、大阪大学の「リプリーQ2」や@mojeyuka氏の「Saya」など、アンドロイドやCGを人間と見まごうばかりにしようというテクノロジーの記事を書きましたが、一方でアンドロイドになりきる美女もいるという記事も書きました。人間とAI。人間とアンドロイド。その垣根がどんどん下がってきているのかも知れないと思うと、何だか背筋が寒くなってしまいます。

2018年7月10日火曜日

ハンドスピナーの次はThinking Eggだ

忙しい日常生活の中で自分だけの時間を取り戻す癒しツール。Thinking Egg

 この山ちゃんウェブログでは商品紹介をすることは滅多にないのですが、なんと二回連続の商品紹介。自分にとって報酬をもらえるわけでもない商品紹介なのですが、ハンドスピナーの次はコレというやつを見つけたので、コレが流行った時に真っ先に見つけていたよと言えるために、ここで紹介しておこうかと思います。

 ハンドスピナーはキッズを中心に2016年くらいから流行りましたが、次にクルのはこの卵型アイテム「Thinking Egg」じゃないかと。「Makuake」でクラウドファンディングを実施しております。ストレスを感じる時、イライラしている時、ついつい指先で机の上をトントンとやっていたり両手を何度も組み替えたりなど、指先が落ち着かないものです。そんな時に触って心を落ち着かせようというアイテムが、このThinking Eggです(↓)。


 仕事や家事・育児に追われる日々、TwitterやLINEも事あるごとにあなたを振り向かせようとしますし、スマホでの情報収集も欠かせません。もちろんリアルな人付き合いも必要で、息つく暇もないという毎日を送っている人は多いのではないかと思います。そんな忙しい現代人に束の間のひとときを与えてくれるというのが、このThinking Egg。ちょっと一息という時間にThinking Eggを手に取り、その手触りと重みを感じることで、あなただけの「考える時間」を作ってくれます。こんな風にコロコロと転がしても構いません(↓)。


 それだけのものに1個1,980円もお金を出すかな、と思うかもしれません。しかし、あのハンドスピナーも単にクルクルと手の中で回すだけのものに、キッズだけでなく大人も夢中になりませんでしたか。ハンドスピナーの次は、「考える卵」。コレじゃないかと思うわけです。

 ちなみに、素材も重さも違う4種類が展開されています(↓)。銅と亜鉛を含有すBRASSは、25.5gと少し重めで「活力」をキーワードにしています。Pineは2.8gと非常に軽く、「集中力」をつかさどります。Howliteはちょうどいい11.3gで「安定」を、そしてLavaは8.5gで「力強さ」というキーワードです。大きさの情報がありませんが、見たところウズラの卵くらい。手持ち無沙汰な時のお供におひとついかがでしょう。

2018年7月9日月曜日

ノイズキャンセル機能つきの「窓」はいかが?

Noise cancelling device by NTU scientists halves noise pollution through open windows

 今回は自分が「コレ欲しい!」と思ったテクノロジーをご紹介します。元記事は、シンガポールのNanyang Technological Universityが発表した「ノイズキャンセル機能つき『窓』」の技術発表記事です。

 少し高級なヘッドホンやイヤホンのなかに、ノイズキャンセル機能付きというものがあります。通勤時に電車の中で音楽を聴くという自分のような人には、ノイズキャンセル機能はとても重宝します。音質そのものよりも、電車や線路の音などの雑音が入らないことの方が音楽に没頭できるというわけです。実は、自分もDENONのAH-GC20というノイズキャンセル機能付き・Bluetoothワイヤレス接続のヘッドホンを使っています。「アクティブノイズキャンセル」と呼ばれる技術の仕組みは、集音マイクで拾った外部ノイズの逆位相の信号を作り出し、ノイズとぶつけ合うことで相殺させてしまうという方法で、毒をもって毒を制すというわけではありませんが、音を使って音を消してしまうという面白い技術です。

 今回ご紹介するNanyang Technological Universityから発表されたノイズキャンセル機能つき「窓」も技術的には同じ仕組みです(↓)。同大学の発表によれば、最大50%のノイズを軽減できるのだとか。


 例えば自分の家は、車通りの多い通りに面していて鉄道の駅も近いので、うるさくて窓を開けておくことができません。遮音性の高い窓を閉めて、室温はエアコンで調節しています。もしこのノイズキャンセル機能付き「窓」が実用化されたら。自分のような環境の人は、真っ先に購入するんじゃないでしょうか。窓を全開にして、外を電車が走ったりトラックが走ったりしているのを見ながら、静かに読書したり音楽聴いたり。近い将来、都市部でそんな不思議な光景が見られるかもしれません。あ。騒音の次は、排気ガスとかの問題もありますが。

2018年7月7日土曜日

AKB48の祖先、RUK48の選抜総選挙とは

明治期のスカイツリー、浅草「凌雲閣」 経営危機を救ったアイドル総選挙

 先日行われた第10回AKB48選抜総選挙は、SKE48の松井珠理奈さんが見事に一位の栄冠を勝ち取りました。今回の話題は、AKBではなくRUKです。とは言っても、もちろん現実のアイドルグループにそんなグループなく、RUK48はこの山ちゃんウェブログにおける架空のグループですが。RUKとは、「凌雲閣(りょううんかく)」のこと。元記事は、最近のお気に入りのTHE PAGEから、大阪学院大学経済学部教授の森田健司氏によるものです。

 さて、さしずめ明治時代のスカイツリーとでも呼べそうな「凌雲閣」ですが、1890(明治23)年11月に東京浅草に開業。その高さ52メートルです。え? 東京タワー333メートルやスカイツリーの634メートルに比べると、ちっとも高くないじゃないかって? そりゃそうですよ。現代の建築技術からすれば大したことのない建物ですが、武士が腰に刀を差していた江戸時代からわずか23年、当時とすればこれでも空前の高層建築物だったわけです(↓)。


 凌雲閣は、実は日本初のエレベーターが設置された建物としても有名です。15~20人乗りで、1分間で1階から8階まで到達し、凌雲閣の観光の目玉の一つでもありました。入場料は「大人8銭、子ども4銭」。当時の1銭は現在の200円程度と言われてますので、「大人1600円、子ども800円」といったところでしょうか。工学の入場料にも関わらず、開業当初は1日に6千人もが詰め掛けた記録があるようですが、エレベーターの故障・撤去などがあり、開業半年で1日の来場者数は3百人にまで落ち込みました。

 そこで起死回生の策として考え出されたのが、美人コンテストです。今のAKB選抜総選挙の祖先は、傾いた経営立て直しのための客寄せだったのです。コンテストは、東京中から選ばれた100人の芸妓の写真が凌雲閣内に掲示され、推しメンに投票するため、多くの人が凌雲閣に押し寄せたのです。面白いのは、1人1票ではないことです。票数は、「登覧券(入場券)」の購入枚数によって決まり、推しメンを勝たせたい男性は、懐の許す限りの登覧券を購入したのです。なんだか、AKBのCD販売戦略と極めて似ている気がします。いやむしろ、AKBグループの生みの親・秋元康氏がRUK48を真似したのかも...なんて。

 そして、激戦を制して1位に輝いたのは、新橋玉川屋の玉菊という芸妓でした(↓)。江戸時代は、美人といえば面長で目が細く口の小さな女性とされてきたのですが、明治に入って20年ほど経ったRUK48選抜総選挙のグランプリは、どちらかというと現代の美人に近い美貌の持ち主のように思います。


 RKU48総選挙で経営が持ち直した凌雲閣ですが、その終焉は突然にやってきます。そう、1923(大正12)年9月1日。関東大震災。わずか33年。建築物としては極めて短命でしたが、東京タワー・スカイツリーそしてAKB48グループの元になったとも言える凌雲閣は、後世に大きな影響を与えた建物だったようです。

2018年7月6日金曜日

働かなくてもお金が入るなら仕事を辞める?

働くって何?一生困らないお金がもらえたら仕事を続けますか、やめますか?

 今回はちょっと哲学的な話題です。近い将来、人工知能(AI)全盛の世の中が来ると考えられています。現在の人間の仕事のうち半分近くがAIに取って代わられると予想する人もいますし、9割以上もの仕事がAIに奪われると予想する人もいます。もちろんこの議論は、AIの登場で新たに生まれる仕事のことを考慮しないと片手落ちですが、社会全体における人材シフトは容易でなく社会的不安が大きいことも事実です。

 一方で、肉体的労働はロボットに取って代わり、頭脳系の労働はコンピュータやAIに取って代わると、人間は労働する必要がなくなるという極論もあります。そうなると人は仕事をしなくなり、ロボットやコンピュータが仕事をこなして得られた富を人間に分配するというシステムが現実的だろうと考えられています。人間は、分配される「ベーシックインカム」で生活には困らない、仕事をしなくてもお金が入ってくる。そんな夢のような生活が現実になったとしたら、それはそれで時間を持て余してしまいそうな気もします。

 前置きが長くなりましたが、今回のテーマは「一生お金に困らないなら仕事を続けますか、それとも辞めますか」というお話です。元記事は前回と同じTHE PAGEから、宇部工業高等専門学校で教鞭を取られる小川泰治氏によるものです。小川氏は「哲学対話」の専門家なのですが、哲学対話というのは対話を通して今まで自分がわかっていたつもりのことが実はよくわかっていなかったということを浮き彫りにしていきます。ちょうどソクラテスの「無知の知」のようなものでしょうか。今回は、お金に困らないなら仕事を辞めるかというという問いから、一体自分にとって仕事とは何なんだろうかという点を浮き彫りにしていこうという趣旨なのです。

 「辞める派」の言い分はおそらく、お金があるならわざわざ苦しい思いして働く必然性がないというものでしょう。一方で「続ける派」の言い分は、仕事で得られるのはお金だけじゃない、働くことで得られる達成感や充実感は何事にも代えがたいというものでしょう。そして中間派、もっと家族との時間や自分の時間を取るために仕事の量は減らすけど辞めはしないという人もいるでしょう。

 小川氏が言われるのは、どの答えが正しいとか間違っているとかいうわけではなく、それぞれ考え方にはある暗黙の前提があるということなのです。「辞める派」の人の前提は「仕事とはお金を稼ぐためのもの」ということです。こう考える人は、仕事以外の部分に本当にやりたいことがある人です。本当にやりたいことが仕事以外にあるのですから、仕事しなくてもお金があるなら喜んで仕事を辞めて本当にやりたいことに時間をかけるでしょう。一方「辞めない派」の前提は「仕事で得られるのはお金だけではない」というものです。こう考える人は、日々の仕事に辛さを感じていたとしても、それを乗り越えた先にある『なにか』のために働きます。つまり、仕事をすることによって得られるものの中でお金を重要視している人は「辞める派」、お金以外の充実感や達成感・自らの成長などを重要視している人は「辞めない派」というわけです。

 さてこの辺で自分の立場と考えを明らかにしておきましょう。自分の場合は、絶対的に「辞めない派」です。自分は電機メーカーで働く普通のサラリーマンなので、仕事をすることでお金をもらっています。しかし、誰かの役に立っているという満足感や自分が成長しているという充実感を得るために仕事をしていると思っていて、お金がもらえるのは結果論だと考えています。お金を得ることだけが目的なら、もっと給料のいい会社に転職しようとかそういう考えになるでしょうが、自分の場合は給料はほどほどでも技術的なチャレンジを自由にやらせてもらえている今の会社が居心地よく感じています。自分が今後転職を考えるのは、チャレンジングで面白い仕事をさせてもらえなくなった時じゃないかなと思うわけです。統計結果などはないのですが、自分と同じように「辞めない派」が多いんじゃないかなと想像しています。

 しかしここで考えさせられるのは、「仕事には、楽しい仕事と楽しくない仕事がある」ということを、無意識に前提を置いてしまっていることです。楽しいと感じる仕事・楽しくないと感じる仕事は個人差はあるでしょうが、自分はどちらかというと肉体派よりも頭脳系の仕事、単純作業よりクリエイティブな仕事の方が楽しいと感じます。同じ感覚を持つ人はきっと多いと思います。従来のロボットやコンピュータが代替してきた仕事はどちらかというと肉体派の仕事か単純作業のような仕事でした。しかし、今後AIが代替しようとしている仕事は、どちらかというと頭脳系でクリエイティブな仕事の方です。人間にとって「楽しい」と感じる仕事の方が、むしろAIに取って代わられることになるのです。そうなると、やりがいとか充実感とか成長とか、そんな自己実現のような欲求を満たすことを仕事に求める「辞めない派」「仕事は金だけじゃない派」は一体なにでその欲求を満たせば良いのでしょか。

 しかし、小川氏はこんな指摘をされています。本当にそういった充実感や達成感は、働くことでしか得られないものなのか、と。仕事には仕事でしか得られない価値や達成感があると思い込んでいますが、それは余暇に行うスポーツやゲームでは代替できないものなのか。自己実現の欲求を満たすものは仕事以外にないと思い込んでいないだろうかと。これに対する明確な答えは出ません。でも、感覚的には「仕事以外にない」だと思っています。ここでいう「仕事」は、お金をもらえる仕事だけじゃなく直接的にお金をもらえないボランティアや地域活動、家事・育児といったものも含む大きな概念としての「仕事」です。そういう大き広義の「仕事」でしか、少なくとも誰かの役に立っているという感覚は味わえないんじゃないかと思います。あなたは、働かなくてもお金が入るなら、仕事を辞めますか。

2018年7月3日火曜日

「私」って一体何だ。「意識」なんて幻想かもしれない

自分たちで判断しているという「錯覚」……人間の脳はなぜ心を作ったのか

 以前、人間もこの世界も実は誰かのシミュレーションかもしれないという記事を書いたことがありました。今回はそんなシミュレーション仮説に通じる、なんだか薄ら寒い話題です。元記事は、慶應義塾大学教授の前野隆司氏が、ご自身の著書「脳はなぜ「心」を作ったのか ─「私」の謎を解く受動意識仮説」(筑摩書房)について書かれた、THE PAGEの記事です。

 誰しも不思議に思っていると思いますが、「私」って一体何でしょう。例えば私にとって、あなたと彼の違いは、彼と彼女の違いと同じようなものなのに、私とあなたの違いはあまりにも大きい。しかしそれは、例えば、「私」には自らで感じることのできる「意識」があることが、私と他人の何より大きな違いだと言えるかも知れません。そして、この世の中で「私」は自らで感じることのできる「意識」があるのでリアルな存在ですが、「私」以外の他人は全部シミュレーションだと言われたら、反論が難しいと思いませんか。

 例えば、ドラマ「ウエストワールド」の世界。この物語は、AIとロボット技術に支えられた体験型テーマパークが舞台で、そこではホストと呼ばれるアンドロイド(ロボット)があたかも人間のように暮らし、人間のゲストはホストからの報復を恐れることなく欲望のままにホストを殺したりレイプしたりします。ホストは人間と見分けがつかないほど精巧に作られており、あたかも自意識があるかのように振る舞います。人間のゲストは彼らがアンドロイドだと知っているからこそ乱暴な振る舞いをしますが、もし彼らがアンドロイドだと知らされていなければどうでしょうか。アンドロイドたちが暮らすウエストワールドの仮想世界は、人間たちが暮らすリアル世界と見分けがつかないと思いませんか。

 ドラマでは、デロス社のエンジニアたちが、殺されたりレイプされてしまったりしたホストを回収して修理して再びウエストワールドへ戻していますが、ウエストワールドの世界はまさに、エンジニアたちがシミュレーションしている世界だと言っても過言ではないでしょう。これこそが「シミュレーション仮説」の世界。我々が住んでいるこの世界も、デロス社のエンジニアのような何者かが作り上げたシミュレーションの世界で、「私」という存在も実はウエストワールドのホストのようなアンドロイドかもしれないのです。

 「私」も含めた世の中が全てシミュレーションだと言われて納得できないのは、やはりリアルに感じる自らの「意識」というやつがあるからでしょう。例えば、「私」は誰にも指図されることなく、自らの意思で行動しています。もしこの「意識」というやつが誰かのシミュレーションだとしたら、あらかじめプログラムされた行動をしているだけだとしたら。こんな仮説は、明らかに変じゃないでしょうか。「私」は自らの「意識」で指を曲げようとし、その結果、脳からの命令が指に届いて指が曲がるはずです。決して自らの意識に反するようには身体は動きません。

 しかし。しかしです。自分は、前野氏が紹介されいる、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のベンジャミン・リベット教授の実験結果に衝撃を受けました。リベット教授は、被験者の脳に電極を指し、「指を曲げよう」と意識した瞬間と「指よ曲がれ」という筋肉への指令が脳の運動野で出た瞬間の時間差を計測したのです。その結果はあまりにも衝撃的です。実は、「指を曲げよう」と意識した時刻は、筋肉への指令よりも平均0.35秒も後だったのです。指を曲げようと意識したから指が曲がるのではなく、指が曲がった後に指を曲げようという意識が生まれたということなのです。この時間的前後関係の逆転は、あまりにも衝撃的です。単純な言い方をすると、「意識→行動」ではなく、本当は「行動→意識」だったということなのです。

 全く何もないところから「行動」は起きませんから、実際のところは「何か→行動→意識」という順番だと考えるのが自然でしょう。そしてこの「何か」というのは、一体なんなんだというわけです。ウエストワールドの世界のように、あらかじめインプットされていたプログラムがこの「何か」ではないと、どうして言えるでしょうか。つまり、誰かのシミュレーションの結果として「行動」が起きたにも関わらず、あたかもその行動は自らの主体的な「意識」で起きたかのように思い込まされている。これこそ事実かもしれないのです。

 あまりにも生き生きと意思決定している「私」を感じるせいで、我々は「意識」のことを判断を下す司令塔のように感じています。しかし「意識」とは実は「幻想」で、あたかも存在するように感じられますが、本当は存在しないものかもしれないのです。「意識」というのは、誰かのシミュレーションによる結果を受け取り、あたかも自らが主体的に意図したかのように感じる機能かもしれないのです。幻想をリアルであると錯覚させる機能、それこそが「意識」の正体かもしれません。

 もしそうなら、人間には自由意志なんてものはないかもしれないのです。私たちは自分の意思で人生を生きているように思っていますが、全て誰かが書いた筋書きかもしれない。誰かの引いたレールの上の人生を、あたかも自らの自由意志で選び取ったかのように錯覚しているだけかもしれない。そんなふうに考えると、この世界が妙に恐ろしく感じてきます。

2018年7月2日月曜日

本に擬態したスマホケースが秀逸

【再販予約開始】新書風手帳型スマホケース「スマホをやめて本を読め」

 今回はこの山ちゃんウェブログでは珍しく商品紹介なのですが、その風刺というか皮肉が効いた面白い作品なので、あえてここで紹介させて頂こうと思いました。元記事は、エコードワークスのスマホライフ充実化プロジェクト「Project ApplePie」商品ページです。

 その作品というのが、こちら(↓)。スーツ姿の男性が手にするのは、電車の中でスマホばかりいじる人に対して「スマホをやめて本を読め」という新書です。しかしこの新書、よく見てみるとちょっと普通の本と違うようです。よーく見ると、実は新書に見えるコレ自体がスマホケース。周囲に対して「本を読め」といっている本人が、実はスマホをいじっているという二重の皮肉。


 税込¥3,240という値段が安いと思うか高いと思うかは微妙ですが、個人的には、ひとネタだけのためならちょっと高めかなと思ったりします。初めての相手に対してはネタとして笑えますが、いつまでも着けているのはさすがに恥ずかしいかなと思うわけです。

 実はこの記事を通勤電車の中で書いていますが、周りを見渡すと目を閉じている人・本や新聞を読んでいる人も見られますが、やっぱりスマホを触っている人が半数くらいいます。電車の中でこのスマホカバーを広げて、周りに「なんだお前もかーい」と呟かせるのも一興かもしれません。