2018年8月30日木曜日

AIの弱みとは

人工知能vs.プロゲーマーの闘い、人間が制する──その戦術から見えたAIの「弱点」と可能性

 昔はコンピュータゲーム(ビデオゲーム)と言えば子どもの遊びのように扱われてきましたが、最近は「eスポーツ」なんて言われ方をして、遊びから競技へワンランクアップした気がします。eスポーツの土俵はコンピュータな訳ですから、人工知能(AI)が得意とするフィールドで人間は敵わないかと思いきや、実はまだギリギリ人間のチャンピオンが面目を保っているのだそうです。今回はそんな話題を、WIREDに投稿されていたTom Simonite氏(Asuka Watanabe氏の翻訳)の記事を元にご紹介したいと思います。

 元記事で取り上げられているのは、先日行われたコンピュータゲーム「Dota 2」の国際大会「The International」の初戦。あのイーロン・マスク氏が共同創設した「OpenAI」が開発した人工知能は、ブラジルのプロチーム「paiN」に敗れました。Dota 2というゲームは、Raidiant・Direという2つのチームに5対5に分かれたプレイヤーが戦い、相手のタワーを破壊しつつ敵の本陣を先に破壊した方が勝ちという対戦型戦闘ゲームです(↓)。毎年8月にシアトルのキーアリーナで開催されるThe Internationalは、世界最高賞金(なんと2,500万ドル(約28億円)!!)のeスポーツ大会として有名です。


 実は8月はじめに行われたウォームアップマッチでは、AIが人間の強豪チームを破っていましたので、チェッカーズ・チェス・囲碁と次々と制覇してきたAIが、次の段階としてeスポーツも飲み込むのかと期待されていたところでした。ところが蓋を開けてみれば、試合内容は人間チームの圧勝と言っても過言ではなかったのです。その時間、わずか52分。

 実は1つ1つの戦いを取ってみると、OpenAIはpaiNよりもキル数が多く、完璧なタイミングで繰り出される組織的な攻撃は、とても人間チームには真似できない攻撃でした。しかし一方で、OpenAIは戦略面で遅れを取り、勝利に必要となるリソース収集と割当てで多くのチャンスを逃していました。英国ファルマス大学とドイツのマックス・プランク・ソフトウェアシステム研究所でAIを研究するマイク・クック氏は、「ボットたちは一瞬一瞬の身の振り方がとても上手だが、マクロレベルの意思決定が苦手なようだ」と述べています。

 OpenAIのAIボットは、強化学習(Reinforcement Learning)と呼ばれる手法でDora 2を学習しました。強化学習は機械学習のうちの1つで、試行錯誤を通じて「価値を最大化するような行動」を学習するものです。簡単に言えば、AIにランダムな行動をさせ、良い行動には高い報酬が与えられ、報酬を最大化するように学習させていくシステムです。面白いのは、その時点での報酬(即時報酬)だけでなく、中長期的にもらえる報酬を最大化するという点です。例えば、皆さんはテトリスというゲームをご存知でしょうか(↓)。その時点で一番スコアが高くなるのは、1列でもいいのですぐに消すという方法ですが、より長期的には、できるだけ溜めてから一度にたくさんの列を消したほうが高い報酬をもらえます。

 OpenAIのDota 2プロジェクトでソフトウェアエンジニアを務めるスーザン・チャン氏によれば、訓練中、ボットは自分の行動の影響を最大14分先まで考えていた。単純に、15分以上先のことを「計画する」メカニズムが備わっていない、と述べています。つまり、強化学習はある行動に対するその時点での報酬ではなく中長期的な報酬を最大化するよう学習するとは言っても、現時点のテクノロジーでは、まだ長期的と言えるほど先までは見通せないということなのでしょう。結果的に、長期戦略の欠如という弱点になってしまったようです。

 AIの得意とするのは、多くの経験値を学習することでそれに似た新たな状況に対して答えを出すことです。それぞれの局面でどんな手を打ったら効果的か(即時報酬を最大化する)というのは、過去に学習したあらゆる局面の中から答えを出せますが、それらの経験値を長期戦略に昇華させるというのはもう一段高いレベルのテクノロジーが要求されるのかもしれません。当面は、その辺に人間のつけ入るスキがあるのかもしれませんね。

2018年8月26日日曜日

これからはギークが主役の時代だ

Geek vs. Nerd

 今回の話題は、最近耳にすることが多くなった「ギーク(Geek)」という言葉。英語ではよく「ナード(Nerd)」と対比され、日本語ではどちらも「オタク」と訳されています。元記事は、GeekとNerdの違いがわかりやすく解説されているMastersInIt.org(↓)です。

Geeks vs Nerds
From: MastersInIt.org

 Geekという言葉は、もともと英語の方言で、ドイツ語のgeck(fool、freak)やアフリカーンス語のgek(crazy)などにたどり着きます。その後、サーカスなどの場でヘビを食いちぎったり昆虫を呑み込んだりといったパフォーマンスをする芸人を指すようになりました。そこから「社会に適応できない者」という意味を持つようになり、現代では特にコンピュータ・マニアを指すことが多くなりました。

 一方でNerdは、ジョック(Jock)という言葉の対義語です。Jockというのは、狭義ではアスリートのことですが、広義にはスクールカーストの頂点に君臨する人気者の男性のことを指します。Nerdは、内向的・文化部に所属・スポーツに興味なし・恋愛に奥手といった特徴があり、スクールカーストのかなり低いところに位置します。現代の日本風に言えばさしずめ、「Jock=陽キャ、Nerd=陰キャ」と言ったところでしょうか。

 GeekとNerdは似てはいますが、Geekがここ最近プラスイメージが強くなったのに対して、Nerdはいまだにマイナスイメージが残っているようです。

 Geekは、アーリーアダプターで、自分がここぞという分野(特にコンピュータ系やテクノロジー系であることが多い)の知識は専門家顔負けで、その分野について聞かれようものなら延々と喋り続けられられます。関心があるのはゲーム・映画・コレクション・ガジェットやテクノロジー・コンピューター・プログラミング・ハッキング・テクノ音楽など。

 一方でNerdは、学問好き、内向的で社会性は乏しい方です。ゲーム・映画・科学・コンピューターに対して広い知識とあまり実用的ではないスキルを持っていたりします。バトルスター・ギャラクティカのようなサバイバル系、ライブアクションRPG、物理学、チェス、ファンタジーやSFなどです。

 日本ではGeekもNerdも「オタク」と一括りにされてしまいますが、どちらも、この山ちゃんウェブログでたまに取り上げる「理系脳」をもっと突き詰めた人たちかも知れません。Geek・Nerd・オタクといった人たちはどちらかというと社会の日陰者の存在でしたが、GAFA(Google・Apple・Facebook・Amazon)と呼ばれる巨大IT帝国を築き上げた創業者たちはいわゆるGeekと言っても過言ではなく、彼らの偉業によってGeekに陽が当たるようになったのかも知れません。そして、これからはSTEM教育(Science, Technology, Engineering, Mathematics)が重要だなんて最近よく聞くようになりましたが、これも同じ流れなのかも知れないなんて思う今日この頃です。

2018年8月24日金曜日

理論的にありえない雨粒が存在し得る残念なカラクリ

Why Raindrops Are Mathematically Impossible
Rain's Dirty Little Secret

 夏休みの宿題のラストスパートに勤しんでいる小学生も多いかもしれませんが、今回は自由研究ネタのような雨粒の不思議を取り上げようと思います。元記事は、YouTubeの二つの動画です。

 まず最初の動画はこちら(↓)。実は自分も知りませんでしたが、数学的には雨粒というものは存在しえないのだそうです。


 そんなことないよ、上空は気温が低いので気体の水蒸気は液体の水になり、次にその水が集まって水滴になるだけ。そう思ったアナタ。実はこの説明、数学的には成り立ちません。いや前半は成り立ちますよ。確かに温度が下がると気体の水蒸気は液体の水になります。しかし後半がいけません。数学的には、水が集まって水滴になるということはありえないのです。

 水には、表面積を大きくするときにエネルギーを吸収し、体積を大きくするときにはエネルギーを放出する性質があります。水滴が十分な大きさを持つ場合であれば、体積が増えることで放出されるエネルギーの量は、表面積を増やすことで吸収されるエネルギーより大きくなり、水滴は体積を増やす方向に向かいます。しかし、水滴の大きさが小さい場合、エネルギーの放出・吸収の関係性は逆になり、水滴は体積を小さくする方向に向かうのです。これは、体積が半径の3乗に比例し、表面積は半径の2乗に比例するという単純な理屈です(↓)。


 y²ー³ のグラフを描いてみると、あるところに極大点を持つ(↓)ことでも理解できるかもしれません。水はある大きさを境界(実際には水分子1億5000万個くらいの体積)として、それより小さい場合は分裂して小さくなろうとし、それより大きい場合は集まって大きくなろうとするというわけです。気温が下がって水蒸気から水になったばかりの時、水分子1個という小さいサイズですので、互いに集まろうとする力は働かず、むしろ分裂しようとする力が働きます(もちろん水分子1個より小さくなれませんが)。水蒸気から水になったばかりの水が集まって水滴に成長することは、数学的にはありえないのです。


 しかし、現実的には雨粒が降ってきます。一体どうしてなのでしょうか。そのカラクリを説明しているのが、2つ目の動画です(↓)。


 先ほどの理論からすると、小さな水分子が集まってある大きさの水滴になるということは自然には起こりえません(↓)。


 水分子だけを考えていると自然には起こりえないという結論になるのですが、それは雨粒を形成するために重要な役割をするものの存在を忘れているからです。その重要なものとは....

  実は...その正体は「チリ」や「ホコリ」です。水分子1億5000万個の塊は自然にできませんが、同じくらいの大きさのチリやホコリなら空気中にたくさんあるのです。そして、チリやホコリに水分子がまとわりついて、境界以上の塊になると、あとはそれを核として多くの水分子が集まってくるというわけです。


 チリやホコリを核としてどんどん大きく成長した水滴は、一定の重さ以上となり重力で落下してきます。これこそが「雨粒」です。水が水滴に成長して大きく重くならなければ、地上から蒸発した水蒸気が上空で水になっても、地上に降ってくることはありません。水が、重力で落下するほどの雨粒に成長するためのきっかけはチリやホコリだったわけです。

 そして、雨が降ることで地上には川や海ができ、生命が育まれました。地球上に生命が誕生したのは、そしてわれわれ人類が生まれたのも、チリやホコリのおかげだったと言っても過言ではないかもしれませんね。

2018年8月23日木曜日

左足ブレーキのススメ

「左足ブレーキ」は踏み間違い暴走事故防止の切り札になるか

 自動車を運転する方は、ブレーキをどちらの足で踏むでしょうか。マニュアル車の方は間違いなく右足ですし、おそらくオートマ車の方でもほとんどの方は右足なのではないでしょうか。でも、現代はほとんどの車がオートマ車ですし、オートマしか乗らない人はブレーキは左足で踏んだらどうでしょうか。今回はそんな話題を、モータージャーナリスト・鈴木ケンイチ氏がDIAMONDオンラインに書かれていた記事を元に考えてみたいと思います。

 実用水準としてのオートマ車の起源は、1939年にゼネラルモーターズ(GM)がオールズモビルのオプションとした「ハイドラマチック」だと言われています。日本では岡村製作所が1958年に発売したミカサが最初と言われており、それから60年を経た現代、道路を走る車のほとんどはオートマ車と言っても過言ではなく、免許もAT限定で取る人が6割を超えていると言われています(逆に言えば、4割もの人がMTで免許を取るのが不思議ですが)。そして、オートマ車と切っても切れない事故が、ブレーキを踏もうとして誤ってアクセルを踏んでしまう「踏み間違い事故」です。

 マニュアル車であれば、エンストさせないために、完全にクラッチを踏んで動力を切り離す必要があり、よほどの急ブレーキでない限りブレーキとクラッチはセットで踏むことがドライバーに染み付いています。そのため、ブレーキペダルと間違ってアクセルを踏んでしまっても、クラッチで動力が切り離されているので空ぶかしになる可能性が高いのです。しかしオートマ車は、基本的に動力が常につながっている状態ですから、ブレーキと間違ってアクセルを踏んでしまうと、そのまま進んでしまうわけです。

 鈴木氏は、そもそもアクセルとブレーキがどちらも「ペダルを踏む」という操作で、かつ両方のペダルが隣に並んでいることがそもそも構造的な欠陥だと言われています。おそらくこれは、従来のマニュアル車に乗り慣れた人がスムーズにオートマ車に移行できるよう操作系を維持したことが原因なのでしょう。自動運転の実用化が間も無くという時代に、もう今さら操作系を変えることはできないでしょう。

 ならば、せめて踏む足を変えてみればどうでしょう。マニュアル車はペダルが3つもあって、クラッチとブレーキを同時に踏むためにはブレーキは右足で踏まざるを得ませんが、オートマ車はアクセルとブレーキしかペダルがないのです。そう、マニュアル車は2本の足で3つのペダルを踏まなければなりませんが、オートマ車は2本の足で2つのペダルです。それならば、役割分担を「右足=アクセル」「左足=ブレーキ」と決めてしまえば、いざという時に間違えることが少ないと思いませんか。

 オートマ車も、マニュアル車時代の名残でブレーキペダルは真ん中にあります(↓)。実際にやってみればわかりますが、真ん中にあるブレーキは右足でも左足でも踏めますが(慣れの問題で右足の方が踏みやすく感じるでしょうか)、右側にあるアクセルを左足で踏むのは至難の技です。つまり「ブレーキ=左足」を染みつかせていれば、いざという時に左足で一番右のアクセルを踏んでしまうことはほとんどないでしょう。


 実は自分はかれこれ10年ほど前から、左足ブレーキを実践しています。元はと言えば、踏み間違い防止というのではなく、当時買った新車で右足でアクセルもブレーキも踏むと、ものの1時間ほどの運転で右足のふくらはぎがパンパンになってしまったためでした。シートポジションやハンドルポジションなど色々試したのですが、どうしても右足だけでペダル操作をしていると、右足の疲労がハンパないのです。疲労が右足だけに偏るのがイヤで、左足でブレーキを踏むことによって疲労を均等にしようと思ったのです。そして、少しずつ左足ブレーキを練習して、今では左足ブレーキが当たり前になりました。

 鈴木氏は、左足ブレーキは疲れるので素人には勧めないと言われていますが、自分はむしろオススメしたいくらいです。というのも、運転中そうそういつもブレーキを踏んでいるわけではありません。信号で停止するとかスピード調節するとか、ブレーキの使用はポイントポイントです。実際にやっているものからすれば、「そんなに疲れないけど」というのが正直な感想です。それよりむしろ足の疲労を均等にでき、何よりも安全性の面で大きなメリットがあると思うのです。

 もちろん、初めての人がいきなり左足ブレーキをやると事故を起こしてしまいます。練習が必要です。自分が左足ブレーキを習得した練習法をご紹介しましょう。

 まず、当たり前ですが、練習は必ず安全な場所で行なってください。最初のうち、左足でブレーキを踏もうとすると、足の感覚が慣れていないので急ブレーキになってしまいがちです。そうならないよう、低速で車を走らせ、右足でブレーキを踏む時に一緒に左足も添えるということをします。つまり、両足ブレーキです。低速で走らせては両足ブレーキでスピードを緩める、また右足でアクセルを踏んで低速で走らせ、両足ブレーキで緩める。それを繰り返します。ブレーキを "そっと" 踏む感覚を、左足に覚えこませるのです。慣れてきたら、だんだん左足で踏むブレーキに右足を添える程度にしていきます。そして、やがては左足だけで踏めるようになっていくのです。

 特にAT限定の免許を持っている方は、そもそもマニュアル車を運転することがないわけですから、マニュアル車の操作系に則った右足ブレーキである必然性はないでしょう。思い切って「右足=アクセル」「左足=ブレーキ」と役割分担してしまえば、いざという時の踏み間違い事故も減るのではないかと思うんです。

2018年8月21日火曜日

Androidスマホの電池を長持ちさせるアプリ

MultiDroid: An Energy Optimization Technique for Multi-Window Operations on OLED Smartphones

 今回はこの山ちゃん上ブログでは珍しく (?)、身近で実用的な話題です。夜眠るときにスマホを充電し、朝はバッテリー100%の状態で出かけるにも関わらず、夜帰宅するまで持たないという人はいませんか。そんな人の中には、小さくて軽いスマホのために重いモバイルバッテリーを持ち歩くという、残念なことになっているかもしれません。今回はスマホのヘビーユーザーが喜ぶ、バッテリー長持ちアプリについての話題です。元記事はIEEE Xploreに掲載されていた、University of WaterlooのKshirasagar Naik教授らの研究論文です。

 Naik教授らが注目したのは、Android Nougat以降に搭載されているマルチウインドウ機能(↓)です。そう、つまりはAndroidスマホを使っている人には朗報ですが、自分のようにiPhone使いの人は残念ながら恩恵を受けられません。Naik教授は「マルチウインドウ機能は不必要なエネルギー消費を招くものだ」と述べており、チームが開発したアプリは、複数画面のうち「重要でない」アプリの輝度を減らすことでバッテリーの消費量を節約します。ちなみに、200人のユーザーを対象に実験した結果、バッテリー持続時間は10~25%も伸びたとのこと。


 そう、Naik教授らの手法は、ユーザーが使っていない間にバックグラウンドで行われる通信を削減するようなものではなく、単純に画面の明るさを下げるという手段なのです。よく考えてみれば、画面の明るさを下げるのはスマホのバッテリー節約の王道ですから、有効なのは当然と言えば当然です。しかし、重要でないアプリの輝度だけを下げるわけですから、使い勝手にほとんど影響を与えず自動的に10%以上バッテリー節約できると思えば、なかなか有用ですよね。ただ.....自分はiPhone使いなのでよく分かりませんが、マルチウインドウ機能ってそんなに頻繁に使うんでしょうか.....

2018年8月20日月曜日

ディベートや口げんかに強くなるためのポイント

断りたいのに、断れない人が、覚えておくと役立つ言葉「挙証責任」とは?

 今回の話題は、ぜひ覚えておきたい、ディベートや口げんかに強くなるためのポイントです。元記事は、心療内科医である松田ゆたか氏によるものです。ディベートや口げんかと言いましたが、交渉全般に言えることなので、日常のコミュニケーション全体に言えることだと思います。

 そのポイントとは、「挙証責任」というキーワードに集約されています。この言葉は裁判などで登場する法律用語ですが、読んで字のごとく証拠を挙げなければならない責任のことです。裁判には通常、原告(訴える側)と被告(訴えられる側)がありますが、挙証責任は原告(訴える側)にあります。Aさんが「BさんがAさんから借りたお金を貸せさない」ことでBさんを訴えた場合、Bさんがあれは借金ではなく贈与だったと主張すれば、あげたのではなく貸しただけだということをAさんが証明しなければならないのです。

 これは、ディベートや口げんか・議論などありとあらゆるコミュニケーションに応用できる考え方です。例えば、松田氏の出されている例で、AさんがBさんをマラソン大会に誘うケースを考えてみましょう。Bさんはマラソンなんてしたくないのですが、次の例を見てみましょう。

Bさん:だって、40キロも走る体力ないよ。
Aさん:だったら、10キロコースとか5キロコースもあるよ。
Bさん:5キロも走り続けられない。
Aさん:疲れたら途中で歩いてもいいんだよ。
Bさん:でも、熱射病が心配。
Aさん:こまめに給水ポイントで水分補給して、休憩すればいいよ。そもそも早朝マラソンだから日差しも強くないし。
Bさん:.....

 いかがですか。Bさんのように、こんな会話のなかで、気が進まないことを押し付けられたことってないでしょうか。Aさんのような口の上手い人って、いますよね。いわゆる「論破される」とでも言いましょうか。

 気が進まないのにいつの間にか押し切られてしまうとき、論破されてしまうとき、あなたが挙証責任を負ってしまっていませんか。この例では、Bさんがマラソン大会に出るか出ないかは、本来はBさんの勝手ですし、Bさんの時間の使い方はAさんにとやかく言われることはありません。そこを、Aさんと一緒にマラソン大会に使ってくれませんかとAさんが提案するわけですから、本来の挙証責任はAさんが負っているのです。つまり、Bさんの時間をAさんと一緒にマラソン大会に費やすべき理由を挙げて、Bさんをその気にさせる必要があるのはAさんです。

 もう一つの例は、セールスマンとお客の次のような会話です。

お客:我が家に金目の物なんかないから、防犯システムなんか要らないよ。
セールスマン:命という一番大切なものがあるでしょう。
お客:命を狙われるようなことはしていないよ。
セールスマン:人というのは、思いも寄らぬところで恨みを買ってることもあるんですよ。油断大敵です。
お客:でも、ちゃんと戸締まりしているから。
セールスマン:マンションのドアのロックなんて、プロなら1分で開けますよ:
お客:.....

 いかがですか。このケースも本来は、防犯システムを売り込むセールスマンがその必要性をお客に納得してもらうために、許容責任を負っています。しかし、いつの間にか立場が入れ替わってしまって、お客側が挙証責任を負ってしまっているのです。

 マラソン大会にいやいや参加するハメになったBさんや、必要もない防犯システムを売りつけられたお客のように、論破されてしまうという人は、本来は挙証責任は相手にあることを思い出すようにしましょう。そして一番大切なことは、相手を納得させようとしてはならないことです。相手こそが、こちらを納得させなければならないのです。それが、挙証責任が相手にあるということです。なぜマラソン大会に参加しないといけないのか、なぜ防犯システムを買わないといけないのか、納得できる説明を相手に求めるのです。自分が納得できないのはなぜか、相手に説明してはいけませんよ。そんなことをしたら、挙証責任を押し付けられてしまいます。

 日常のコミュニケーションの場では、挙証責任を「説明責任」と言い換えてもいいでしょう。質問する側とされる側と言い換えた場合、質問される側にならないようにしましょう。それでも言葉巧みな人は、こちらに挙証責任を押し付けようとしてくるでしょう。そんなときも、「あなたの方こそ、自分の正しさを私に納得させてみなさいよ」と押し返さなければなりません。

2018年8月17日金曜日

不安しかないプログラミング教育必修化

プログラミング教育必修化に漂う大きな不安

今回の話題は、2020年度から小学校でプログラミング教育が必修化されるという話題です。実は自分の長男が現在小学校3年生で、この波をもろに被りそうということもあって、この山ちゃんウェブログでも何度か取り上げました。今回の元記事は、ミスターフュージョン代表取締役でプロスタキッズ代表という肩書きをお持ちの石嶋洋平氏が東洋経済ONLINEに書かれたものです。

 プログラミング教育必修化の目的は大きく2つあります。1つ目は、今後不足が予想されている「IT人材の育成」です。そして2つ目は「プログラミング的思考の育成」となっています。そして、この2つの目的のために、小学生からプログラミング的思考を学ばせるという理屈なのですが、石嶋氏が言われているのは、プログラミング教育必修化には基本的には「賛成」だが、一方で「現在の状況では十分な教育効果は得られない」というご指摘です。

 実は、自分も石嶋氏と近い意見を持っているのですが、自分の場合はまず目的の1つ目「IT人材の育成」に対しては、日本という国の国際競争力を左右する喫急の課題であって、小学校のプログラミング教育より先にやることがあると思っています。

 例えば、別の分野ですが、介護人材や保育士の人材不足が言われています。少子高齢化や女性活躍社会など、大きな社会的なうねりの中にあって、こちらの分野の人材不足も喫急の課題ですが、小学生のうちから介護の勉強をしたり保育の勉強を必修科しようという動きは見られません。どちらかというと、低賃金と重労働という処遇を改善して、介護士や保育士を魅力ある職業にして、人材が集まってくるようにしようという動きだと思います。IT人材の不足についても、これをやることが先だと思います。我が国のIT業界は、多重下請け構造によって一次受けで技術力のない大手SIerが比較的処遇がいいのに対して、二次下請け・三次下請けと下るに従って、本当の意味での技術力が要求されるにも関わらず、「IT土方」と呼ばれるほど処遇が悪いケースが見られます。受注した案件を下請けに流すだけの大手SIerは処遇がよく、丸投げされた仕事をこなさなければならない下請け企業は処遇が悪くなる構造は、建設業界にも少し似ていますが、建設業界のような肉体派の現場でない分、問題が顕在化しにくい状況があると思います。

 つまり、「IT人材の育成」のためにまず手を打たなければならないのは、小学校のプログラミング教育よりも先に、プログラマーの地位向上と処遇改善だと思うのです。米国のIT業界の世に、プログラマー業界で高給を取れるとか一攫千金を目指せるとなれば、国内の優秀な頭脳は海外に流出することなく我が国のIT業界の発展に貢献してくれると思うのです。

 次の「プログラミング的思考の育成」という目的に対しては、石嶋氏の言われる通り、現在の環境では効果が薄いだろうと思っています。現在の環境と言っているのは、
(1)「プログラミング」という教科(科目)があるわけではない
(2) 教員の多くがプログラミングを理解していない
(3) ICT(情報伝達技術)環境が整備されていない
ということです。中でも特に問題なのは、(2)だと思っています。(1)問題で、「算数、国語、理科、社会、音楽、学級活動などを通して論理的思考力を伸ばしていく」なんて綺麗ごとは、教員が高いプログラミング能力を有していなければ成り立つわけがありません。そんなアバウトな方針を示して、プログラミングの知識がない教員に丸投げしても、教育効果が上がるとは到底思えないのです。不幸にも、プログラミングの素人に教えられた子ども達はプログラミングの楽しさが理解できないどころか、嫌いになってしまって逆効果を生むかもしれません。

 ちなみに、プログラミング教育を小学校1年生から必修化しているイギリスでは、民間企業のプログラミング教育を教員が受講したのだそうです。日本でも何らかの研修制度が設けられるのかもしれませんが、移行期はロクな教育を受けられないことが予想されます。幸いにプログラミングスキルを持っている親は、率先して子どものプログラミング教育を導いてあげるようにするのが良さそうです。

2018年8月13日月曜日

年を取ることは幸せに近づくこと

歳をとることは不幸か、幸福か?ありのままに生きる…高齢化とは幸せなこと

 この山ちゃんウェブログでは以前、「生きててよかったと思えるピークは80代」という記事の中で、実は人生の中で幸福感を感じるピークは老齢なんだという記事を書いたことがありますが、今回も実はそんな趣旨の内容です。元記事は、慶應義塾大学教授の前野隆司氏によるものです。

 まずは元記事からその主張の根拠となるデータを(↓)。必ずしも「幸せ」とイコールではないものの、それと近いものとして「生活満足度」を縦軸にとって年代別に調査されたデータです。調査された時代の社会情勢などにより多少上下に変わりますが、大きな傾向として は、若年から中年に向けて下がって行き、30〜50代で底を打ってからは、最終的には老齢に向かって上昇しています。

 仏教の世界では、人生における免れることのできない4つの苦しみとして「生老病死」という言葉があります。読み方が少し難しく「しょうろうびょうし」と読みますが、この中で生まれることは別として、年をとること・病気すること・死ぬことという4つの苦しみは、どう考えても若者や中年代よりも老齢の方が身近な存在で、その分苦しみも大きそうに思いますが、老いは苦しみどころか幸福度の上昇に繋がるように見えます。一体どういうことなのでしょう。

 その答えのヒントになるのが「老年的超越」という考え方です。1980年代Tornstam氏によって提案された概念で、人がそれまでの物質主義的で合理的な世界観から、宇宙的・超越的・非合理的な世界観へ変わっていくことを指します。「老年的」と言うだけあって、高齢期に起きる世界観の変化で、具体的には、利他性の向上・物質論的な社会常識からの解放・他の存在とのつながり意識の増大などが挙げられています。そして、前野氏が言われるのは、この世界観の変化は、地位財型の長続きしない幸せから非地位財型の長続きする幸せへの変化に他ならないと言うことなのです(↓)。
つまり、若者時代から中年期にかけて「幸せ」だと思っているカネ・地位・モノといった要素は、長続きしない幸せであるばかりでなく、もっともっととエスカレートしがちです。そして、多少のものを手に入れたとしても、もっと上を目指す追求心により、なかなか満足できないものです。それに対して、老年期に「幸せ」だと思う安心・健康・心といったものはエスカレートというよりは「噛みしめる」タイプの幸せです。それはなんどもなんども噛みしめることによって、増幅されていく幸せなんだと思うのです。具体的には、老年的超越という概念は、以下のような8つの因子で表せるそうです(↓)。


 高齢化社会というと、介護問題や年金問題など暗い話題が多いのですが、一方で目先を転じてみるとそれはつまり幸せな人が多い社会ということができるかもしれません。自分はこれまで、大人になってからは誕生日を迎えるのが嬉しくないと思っていましたが、誕生日は幸せに一歩近づいたと言えるかもしれません。自分が年を取ることも社会が高齢化社会に向かうことも、深刻に考えすぎずに、幸せに向かっているのかもしれないと思えば楽しみも出てくる気がしますね。

2018年8月11日土曜日

東京医大はそんなに悪いのか

東京医大の点数操作「もはや女性差別以外の何物でもない」と指摘。内部調査委が会見

 今回の話題は、ちょっと前から世間を賑わしている東京医科大学(以下、東京医大)の入試における点数操作の問題です。元記事は、Shino Tanaka、泉谷由梨子の両氏によるHUFFPOSTの記事です。元記事では、この問題のこれまでの経緯と問題点が簡潔にまとめられています。

 東京医大では、内部調査委員会が8月6日に調査報告書をまとめました。報告書では、過去の医学科の入試について、特定の個人に対する点数調整と、個人の属性(現役か浪人か、男子か女子か)による得点調整の2種類の不正が行われていたとしています。個人に対する点数調整としては、文部科学省前局長の佐野太被告氏の息子に対する加点が行なわれていただけでなく、過去2年間で合計19人に対する個別の加点が行われていたとしています。

 一方で属性に対する得点調整の方は、例えば2018年度の入試の場合、二次試験の小論文(100点満点)で、全員に係数0.8を掛けて80点満点とした上で
  a. 現役から2浪までの男子は+20点
  b. 3浪男子は+10点
という加点が行われていました。つまり、4浪以上の男子と女子は仮に満点を取ったとしても80点になる、「不公平」な入試になっていたというわけです。調査委員会長の中井憲治弁護士は、「不正疑惑は偽りの募集要項で受験生や、家族、社会全般を欺くもの。重大な女子差別的要素を含んでいる。さらに、国を欺いて公的資金を得たという事実もある」と話しています。

 自分は、この問題が国立大学あるいは私立大学でも医学部以外だったら、不公平な入試や女性差別はまかりならんというご意見にまだ賛成できるのですが、起きたのが私立大学の医学部ということで、全面賛成するのは躊躇してしまいます。

 というのも、まず第一に大学入試というのは、資格試験ではありません。選抜試験です。過去にこの山ちゃんウェブログで、脱「公平」を打ち出した東大入試の話題を取り扱ったことがありますが、選抜試験は選ぶ側が自らのためにポリシーに合った学生を選ぶ場です。資格試験のように「公平性」がマストではありません。

 選抜試験の最たるものは「就職試験」です。就職試験では、学校名によっては面接どころかインターンにも参加させてもらえない「学歴フィルター」とか、不透明な選抜基準、縁故採用などがあることは公知の事実になっています。もちろん募集要項や求人情報には、学歴フィルターがありますよとは告知されていないでしょう。それでも、企業の就職試験が不公平だと糾弾する意見はあまり見られません。それは、試験の点数だけで仕事遂行上の能力がすべて測れるわけではないこと、採用する側とされる側の相性の問題もあるなど、「公平性」を担保する必要性が低いという共通認識があるのだと思うのです。「公平性」を担保するために莫大なコストをかけるだけのメリットが企業側にない、と言ってもいいかもしれません。

 就職試験で「公平性」の重要度が低いことを確認した上で、東京医大の問題に戻ってみましょう。医学部の入試というのは一種独特で、卒業生は大学の付属病院に勤務する前提で入学者が選抜される側面があります。その意味で、入試でありながら就職試験だとも言えるのです。就職試験だとしたら、女性医師は長時間勤務などに耐えられず出産を機に退職してしまうので、どちらかと言えば男性を採用したいとか、卒業後も2年間の初期研修と3~5年間の後期研修という人材育成にかかるコストを考慮して、あまり浪人していない人を採用したいという論理は、それほど非難されるべきことではないと思います。

 付属病院が働き方改革を進めて、女性医師が出産後も退職せずに働き続けられるようにすればいい。それをせず入試で女子受験生を不利に扱うなど間違っている。そういったご意見もごもっともです。しかし、このご指摘はほとんどの日本企業にも当てはまる話で、東京医大学だけを責めるのも変な話です。医師不足が深刻な医療現場では、せっかく育てた人材に長く活躍してもらう必要性が高く、働き方改革などの社会制度が道半ばである以上、このような選抜を行なうのもやむを得ないのではないかと思うのです。

 社会では「公平」でないこともたくさんありますし、国民の生命を預かる医者になるような人物を選抜するときに、本当に試験の点数だけで判断するのが公平なのかという問題もあるでしょう。「公平」な試験をした結果、日本の医師不足がもっと深刻化することに対しては、一体どうすれば良いのでしょう。「公平」にこだわり過ぎる潔癖症は、公平でないことだらけのこの社会で生きづらく、結果的にネットやメディアの中だけで正論を振りかざすクレーマーに似ている気がします。

2018年8月10日金曜日

サマータイム導入で2000年問題ふたたび

酷暑対策でサマータイム導入へ 秋の臨時国会で議員立法 31、32年限定

 自分が子供の頃は「夏休みは早起きして涼しいうちに宿題をしましょう」なんて言われたものですが、今年の猛暑は少々の早起きでは足りないほどです。そんな中、政府・与党が東京オリンピック・パラリンピックのために、2019年・20年限定で夏の時間を2時間繰り上げるサマータイム(夏時間)導入の検討に入ったというニュースが流れて来ました。今回の元記事は、産経ニュースの8月6日の記事です。

 正直言って、自分はこのニュース記事を見たとき「嘘だろ」と思いました。サマータイム導入なんて、まして2年間限定なんて、あまりにリスクが高すぎてそんな馬鹿げた議論が政府で行われているなんて、フェイクニュースかエイプリルフールのたぐいかと思いました。しかし、いくつかのサイトを見ている限り、半分は冗談かもしれませんがどうやら半分は本気のようなのです。

 例えば、精神科医で早稲田大学教授の西多昌規氏は、サマータイムを導入すると不眠になるとか自殺が増加するとか睡眠障害・精神障害が悪化するなど、社会的な見地から反対を唱えられていたりしますが、自分はそんなことより日本が壊滅してしまいやしないかと思っています。それは何と言っても、国際化対応していないコンピュータシステムなんてゴマンとあって、2時間も時刻がずらされたら何が起きるかわからないという不安です。

 これに似た問題として、昔、2000年問題(Y2K問題)というのがありました。当時の多くのコンピュータシステムは「年」情報を2桁で管理していて、例えば1999年は99というわけです。そのため、2000年になった途端に00年つまりは1900年にシステム時刻が戻ってしまって、弾道ミサイルが誤発射されたり発電・送電システムの暴走で世界的な大停電が起きるかもしれないなど、ノストラダムスの大予言とはこのことだったのかと思えるほどの社会不安に陥ったものでした。結果的には、何年も前から周到な対策が打たれていたので大きなシステムトラブルはありませんでしたが、システムエンジニアの長年の努力の賜物だったと思います。

 ところが今回は、実施が来年に迫っているのに、この秋の臨時国会への議員立法提出を目指すという余裕の無さなのです。十分な検証と対策が行なわれないまま、ぶっつけ本番を迎えることになります。政府としては、2019年は予行演習という程度のつもりかもしれませんが、東京オリンピック・パラリンピックの前年にミサイル誤発射や大停電・経済の壊滅で日本を沈没させてしまった日には目も当てられません。

 ちなみに、サマータイム導入でなぜそんなことが起きるかと言うと、例えば原子力発電所の冷却水の排水を9:30から10:30の1時間行なうというプログラムがあったとしましょう。平常時間からサマータイムへの移行時は時刻が戻るわけですから、10:00に切替えが行なわれると、1時間の排水のはずが3時間排水されてしまうかもしれません。そうなると、冷却水が底をついて核分裂が臨界点を迎えてしまうかもしれません。サマータイムから平常時刻に戻る場合は逆に時刻が進むわけですから、10:30という時刻が飛ばされてしまい、排水は開始されても停止せずもっと危険かもしれません。

 もちろんそうはならないよう、今どきならば時刻をUTC(世界標準時刻)で扱うとか、クリティカルなシステムにはフェールセーフの機構が入っていたりするものですが、なにしろ実運用で動いたことがない機構ですので、もう一度きちんと検証されないと不安でいっぱいです。

  実は自分にはシステム時刻の進み・戻りには苦い経験があります。若い頃、JavaのTimerとTimerTaskを使って10分周期でタスクを実行するプログラムを書いたことがあるのですが、自分がロングラン試験をしても問題ないのに、QA部門の人がテストするとなぜか途中で止まってしまう(タスクが実行されなくなってしまう)という事象が起きたのです。それは、まるでプログラムが人を見ていて、設計者が見ている時はうまく動くのにテスターが見ていると動かなくなるかのようでした。

 ところがこの事象の原因は、意外なところにあったのです。QA部門のテスターは、ロングラン試験中にシステム時刻を1年早めたり1年遅くしたりしていたのです(かつ、そのことを設計者である自分に伝えず、何もしていないのに止まったと報告していました。無知ってコワイ...)。今の実装は違うのかもしれませんが、当時のJavaのTimerとTimerTaskの実装は、タスクが実行された時に次に実行すべき時刻を決めるアルゴリズムになっていたようなのです。例えば10:00にタスクを実行した時に次は10分後の10:10に実行するようスケジューリングされても、システム時刻が1年戻されてしまうと、次のタスク実行は1年と10分後ということになっていたのです。見た目的には、タスクが動かなくなってしまったのです(根気よく1年と10分待っていれば、次回のタスクが実行されたのですが...)。

 QAのテスト担当者がシステム時刻をこっそりいじっているなんて夢にも思わなかった自分は、ログを見ても「時分秒」のところに注目してしまって途中で「年」が変わっていることに気づかず、なかなか原因究明ができなかったのです。最終的には、システム時刻が大きく変えられたことを検出した場合はTimerとTimerTaskを作り直すような対策を施したわけですが、アプリケーションレベルで問題ないと思っていたプログラムが実行環境の実装によっては問題を引き起こす場合があり、システムの時刻を変えるというのはコンピュータシステムにものすごく大きなインパクトを与えるのです。

 単に今年の猛暑から「日本の猛暑は選手がかわいそうや。せや、スタートを2時間ほど早めたろ」的な発想をしただけだったら、悪いことは言いません。日本を沈没させるかもしれない大博打はやめときなさい。サマータイムを導入すること自体には反対しませんが、やるならやるで、何年も前から周到な準備をしたうえでなければなりません。わざわざ日本という国家の存亡を賭けてまで、サマータイムを導入しなくていいじゃないですか。2時間早起きじゃダメなんですか。

2018年8月8日水曜日

思わず目を疑ってしまうムンカー錯視

この円すべてがどれも同じ色だと!?色の同化や対比で違った色に見える「ムンカー錯視」の新作

 今回は軽い話題ではありますが、「ムンカー錯視」という目の錯覚に関するものです。元記事はカラパイヤのもので、実はすべての円が同じ色であるにも関わらず、目の錯覚で違った色に見えてしまうという絵です(↓)。


 自分も初めてこの絵を見たときは、スマホの小さい画面だったからか、赤っぽい円・黄色っぽい円・オレンジっぽい円・ピンクっぽい円の4種類くらいの色に見えました。しかし、実はぜーんぶ同じ色。大きめのディスプレイを使って絵を拡大して見ると、黄色っぽい色の一色しかないことが分かると思います。

 実はコレ、ムンカー錯視と言われる種類の目の錯覚で、周りの色から同じ色あいの色に誘導される「色の同化」と、反対の色あいに誘導される「色の対比」によって、「違って見える」と考えられています。最後に、元記事でも紹介されている、ムンカー錯視の効果がよく分かる動画をご覧ください(↓)。コレはさすがに全然違うじゃない...と見えます...が、コレも実は...


2018年8月7日火曜日

クロールのバタ足は無駄だった!?

Effect of leg kick on active drag in front-crawl swimming: Comparison of whole stroke and arms-only stroke during front-crawl and the streamlined position

 今回は、今まで常識だと思っていたことが実は違っていたというお話。夏真っ盛りのこの季節、プールや海で泳ぐこともあると思いますが、クロールで早く泳ごうとしたときに自分は一生懸命バタ足していましたが、実は無駄どころかかえって遅くしていただけかもしれないというのです。元記事は、Journal of Biomechanicsに寄稿された、Kenzo Narita, Motomu Nakashima, Hideki Takagi氏による論文記事です。


 クロールのバタ足は下半身を持ち上げて水平に近い姿勢をとるために必要で、水の抵抗を減らしたり推進力を得るためことに貢献していると考えられてきました。しかし、バタ足は腕で水を掻く動作と連動しますので、水を掻く回数を増やすとバタ足のキックも増えます。論文における実験は、ワイヤを付けた水泳選手が水槽内で①腕と足で泳ぐ②腕だけで泳ぐ③体をまっすぐに伸ばすの3パターンで泳ぎ、水の抵抗力を計測したものです。

 その結果、かなり遅い秒速1.1メートル(100m換算90.91秒)ではバタ足が推進力になるものの、少し早めの秒速1.3メートル(100m換算で76.92秒)以上では、足の動きが水の流れを妨げ抵抗が速度の3乗に比例して大きくなっていったとのこと。100m自由形の世界記録は、オーストラリアのイーモン・サリバンが北京五輪で出した47.05秒。小学生の日本記録でも54秒台後半ですので、ダイエットやリハビリ目的の水泳ならいざ知らず、競技水泳の世界ではバタ足はむしろ水の抵抗を大きくしてしまう傾向があるというわけです。

 これまでクロールは腕で水を掻く動作とバタ足の両輪で推進力を得るものだと思っていましたが、どうやら腕の動きが支配的だというのが実際のとことのようです。バタ足は上半身の動きに応じて抵抗にならない程度にしておく、というのが科学的な泳ぎ方なのかもしれませんね。

2018年8月6日月曜日

貧しい親には貧しい子しか育たない

貧困家庭の子供が成長してもお金を稼げない本当の理由

 今回の話題は、子どもを持つ親として信じたくないことですが、親が貧しければ子どもも貧しくなるという話題です。いわゆる貧困の連鎖と言ってもいいかもしれません。以前、親の学歴が子どもに影響するとか遺伝と家庭環境が子どもの学業の大部分を決める、あるいは親が貧しいと勉強で不利だという記事を書きましたが、その延長線上のようなイメージでしょうか。元記事は、松原麻依氏によるDiamondオンラインの記事です。

 松原氏が言われているのは「文化資本」という考え方です。文化資本というのは、いわゆる金銭などの経済資本とは異なる、個人的な資本というものがあるという考え方です。文化資本について、フランスの社会学者ピエール・ブルデュー氏は「身体化された文化資本」「客体化された文化資本」「制度化された文化資本」という3種類に分類しています。身体化された文化資本というのは、仕草や立ち振る舞いあるいは知識や技能など、その人の身体に染み付いているものを指します。「客体化された文化資本」は美術品や書籍などの物、「制度化された文化資本」とは学歴などを言います。そして、経済資本がカネそのものかカネと交換できるものを指しますが、文化資本というのはカネを稼ぐ力と密接に関わるのです。

 しかし、親に教養や学歴がなくたって、子供が一生懸命それらを身に付けてカネを稼ぐようになることは十分に可能だと思いませんか。自分も我が子にはそうあって欲しいところですが、現実はそんなに甘くないようです。ブルデュー氏は、経済資本と同じように文化資本も親から子へと受け継がれていくと言います。例外的に宝くじに当たったとか事業で一山当てた成金という人もいるでしょうが、何代にも渡って財を成してきた人とは子ども・孫へと繋がる経済的繁栄には大きな違いがありそうです。

 文化資本が親から子へと受け継がれていくことを「文化的再生産」と言うのですが、それは家庭環境が最も大きな影響を与えます。幼少期に、いつでも本が読める環境だったか、音楽や美術に日常的に触れることができたか、マナーを求められるような場所で食事した経験はどれ程あったか。そういった家庭内での経験によって、親から子へと受け継がれるのが文化資本なのです。よく「親の背を見て子は育つ」なんて言いますが、親が本を読んだり勉強したりする姿を見せる、学問的な議論を子供と戦わせる、美術や音楽を子供と一緒に楽しむ、そう言う姿を見せることで子どもに伝わっていくのでしょう。

 そして、ライターでコラムニストの北条かや氏は、その人が文化資本的なものに価値を見出すかどうかは、属しているコミュニティに影響を受けやすい、と話しています。富裕層のコミュニティは文化資本に価値を見出す傾向が強く、対して貧困層・ヤンキー層はそういったものに価値を見出さず目先のカネに汲々としている傾向があります。平たく言うと、ヤンキーとお坊ちゃんがいたとして、学校ではヤンキーがスクールカーストの上位にいる場合もありますが、社会ではむしろ底辺になり下がるのに対して、お坊ちゃんは高い文化資本を有し、社会では高い階層と経済的な有利を手にするのです。

 社会学の階層調査においては、親から子・子から孫へと年代を重ねるごとに親の地位が再生産されやすくなっていると分かっています。つまり、成り上がりとか身一つで階級間を逆転するというのは、世代を経るごとに難しくなり、それはすなわち、経済格差が固定化されるということに他なりません。つまり、文化資本の格差が経済資本の格差を産み、格差は埋まるどころかどんどん広がっていくということです。

 社会人として評価される、コミュニケーション能力、マナーや作法、お金の管理能力、机に長時間座っていられるような持久力、そういったものもすべて文化資本です。そして重要なことですが、社会システムは文化資本を持っている人が有利に、持っていない人は割を食うようになっています。階級上位の人たちはそのことを知っているので、我が子には家庭環境や学校教育を通じて文化資本を身につけさせます。一方で、その重要性を知らない貧困層は、社会が悪いと言って暴れたりお酒で現実逃避したりする子どもが育ってしまいます。子どもを持つ親としては、勉強ができる・学歴があるといった文化資本を持つことのパワーを謙虚に受け止め、我が子には負のループを抜け出せるよう援助したいものですね。

2018年8月3日金曜日

年収重視女と容姿重視男が結婚できないワケ

収入重視女と容姿重視男に未婚が多いワケ

 今回は、東洋経済オンラインの荒川和久氏の記事を元に、結婚におけるミスマッチを考えてみようと思います。荒川氏は、ソロもんLABOリーダーそして独身研究家という珍しい肩書きをお持ちで、この山ちゃんウェブログでは、これまでも「『結婚しない男』急増は『やせ我慢』が理由?」「40代独身者が「幸せになれない」根本原因 | ソロモンの時代―結婚しない人々の実像―」といった記事を取り上げさせて頂いてきました。

 荒川氏の記事で言われているのは、いわゆる「婚活」の現場では、男女のマッチングにかなり希望のミスマッチが起きているのだそうです。昔から女性が結婚相手に求める大きな条件に「経済力」がありますが、結婚式情報検索サイト「ぐるなびウエディング」が2018年6月に発表した最新婚活事情調査によれば、女性が結婚相手に求める理想の年収は「400~500万円未満」が19.4%で最も多く、400万円以上と答えた女性の合計は68.9%にものぼります。男性が結婚の市場で女性に選んでもらえるためには、年収400万円というのが一つの目安と考えてもいいかもしれません。

 実は、つい先日「幸せのお値段、たった1,055万円」という記事で、収入は多いほど幸福感が増しますが、それが頭打ちになるのが年収1,055万円だと書きました。80年代のバブル期など、3高(高学歴・高収入・高身長)なんて言って、1,000万円を超える年収を求めた女性も多かったのですが、現代女性が求めるのは、はるかに妥協した400万円なのです。バブル期に高望みした女性が結婚できていない現実を見て、女性側はずっと希望レベルを下げているんだと思います。

 しかし実際に未婚男性の年収分布を見てみると(↓)、未婚男性のうち年収400万円を超える人はわずか25%です。結婚適齢期と言われる20~30代の若い世代に限定するとさらに少なく14%です。結婚市場では、7割もの女性が、わずか14%しかいない年収400万円以上の男性を奪い合うことになり、半数以上の女性はマッチングれないことになるのです。


 男性側にも大きなミスマッチがあります。それは結婚相手に求める容姿です。なかなか容姿を数値化することはできないのですが、荒川氏が「モテ要素」という指数を作られており、それは容姿のよさ(自己評価で「容姿に自信がある」)に過去の「付き合った異性がいた」「異性から告白されたことがある」などの要素を加味した数値で、この数値である程度代用できるでしょう(↓)。いわゆる「モテる」人は、男性は26%、女性は31%います。グラフは年収別になっていますが、実は年収が多いことと「モテ要素」の数値にはあまり関連がなく、男女とも全体のおよそ3割が「モテる」人というのが荒川氏の長年の研究結果なのだそうです。


 そして、結婚相手の条件として「容姿」を重視するのは、男性は77%、女性は50%です(↓)。男性の方が相手の容姿を重視する傾向があり、かつ年収が高い男性ほどその傾向が強いのです。「トロフィーワイフの心理」と言って、カネを稼いだ男は美人と付き合いたがる傾向が現れているのかもしれません。ただ、女性は逆に自分の年収が高い人ほど、相手男性に容姿を求めない傾向があり、男性と女性で逆の傾向になるのは面白いですね。


 しかし、男性の8割近くが容姿重視だとしても、「モテる(≒容姿のいい)」女性は全体で3割しかないわけで、5割の男性は希望が叶いません。もちろん、容姿のよさというのは絶対的なものではなく個人の感覚ではありますが。

 つまり現代の結婚市場では、女性が男性に求める年収と実際の男性の年収には大きなミスマッチがあり、一方で男性が女性に求める容姿にも大きなミスマッチがあるということになるのです。女性側はおそらく妥協してストライクゾーンを広げているつもりですが、現実との乖離はまだまだ大きいというのが現実でしょう。男性は、能天気に本能のままに美人を追いかける傾向があるのかもしれません。年収重視の女性と容姿重視の男性。需要と供給のバランスからいえば、少ない相手を多くのライバルと奪い合うのですから、結婚できない人が多いと言われるのもわかる気がしますよね。

2018年8月1日水曜日

Webサイトは爆速こそ正義

Making dev.to Incredibly fast

 この山ちゃんウェブログはGoogleのBloggerというサービスを利用しているのですが、Googleのサービスだけあって表示速度は比較的早い方だと思います。しかし、世の中にはとんでもなく表示速度が速いWebサイトが存在します。今回はそんな話題を、Ben Halpern氏の記事からご紹介したいと思います。

 まずは、こちらのサイトを開いてみて下さい(スピードだけ体感したら、もう一度戻ってきて下さいね)。むしろ不安になるくらいすぐに表示されませんでしたか。


 実は自分もメーカーの開発者として、SaaS(Software as a Service)型システムのWeb画面の設計開発を行なったことがありますが、表示速度については特段の注意と労力を払いました。というのも、一般的なWebサイトを表示するときでも、ユーザーが待てる限界は3秒程度だと言われています。これより時間がかかるサイトは、57%のユーザーは待ちきれずに諦めてしまうという記事もあります。しかし、自分のところが扱うようなIoT(Internet of Things)系のSaaSは、エッジデバイスと呼ばれる現場系の装置類はネットワークも遅く性能も低いので、せめてクラウド側のWebサーバーでスピードを稼がなければなりません。CSSを工夫したりキャッシュを工夫したり、色々なことをしてWebサーバーを研ぎ澄ませましたが、このdev.toほどのスピードには遠く及びませんでした。

 dev.toの創設者であるHalpern氏によれば、米Fastlyが提供するCDN(Content Delivery Network)を活用しているのだそうです。CDNは、世界中にキャッシュサーバを分散配置して、ユーザーに一番近い(ネットワーク的に)キャッシュサーバからコンテンツを配信します。またコンテンツそのものも、外部CSSリクエスト、カスタムフォント、JavaScriptなど、レンダリングをブロックしているスタイル・スクリプトを削除して、レンダリング時間を短縮しています。他にも、画像管理クラウドサービス「Cloudinary」を使って画像の圧縮を最適化し、ブラウザごとにもっとも高速に表示できる画像フォーマット(Google Chromeならwebp形式、Safariならjpeg形式など)を選んでいるのだとか。

 Webサイトは、いくら綺麗な映像や使いやすいUI(User Interface)でも、表示速度が遅ければ台無しです。スピードこそ最重要のユーザーエクスペリエンス。爆速こそ正義。dev.toを開いてみると、ホントそう思います。