2018年11月16日金曜日

子どもの教育において「女の子なんだから...」は禁句です

女子の高等教育を比較 期待の低さ、理由は親にも?

 今回の話題は久しぶりに教育関係。女子の高等教育に関して、この山ちゃんウェブログで何度も取り上げさせて頂いている舞田敏彦氏の記事を元に考えてみたいと思います。自分自身も親として反省すべき点が大きく、自分自身への戒めと、皆さんも自分と同じ轍を踏まないよう、ここに書いておこうと思います。

 まず舞田氏の記事で示されている、中学生の男子と女子がいた場合にどの段階の学校まで進学させるかというアンケート調査の結果です(↓)。元データはNHKの「日本人の意識調査」のデータだそうですが、自分が生まれた頃の1973年と比較的最近の2013年が比較されています。さすがに70年代に比べると、2013年は女子も大学へ進学させようと答える人が増えていて、教育期待の性差はかなり縮まりました。80年代の男女雇用機会均等法、2000年以降の男女共同参画施策、ジェンダー意識の啓発など、男女の平等を進めてきた経緯がよく現れています。しかしそれでもまだ、大学まで進学させようという回答は、男子77.0%、女子60.4%で15ポイント以上の性差があります。


 一方で子ども自身の意識はどうかというと、大学・大学院まで進学したいと答えた15歳生徒の割合は男子64.4%、女子52.8%と、やはり10ポイント以上開いています(OECD「PISA 2015」)。まあそんなものかなと思ってしまうところですが、実は、国際的には男子よりも女子の方が進学したいという意欲が大きい国が多いのだそうです(↓)。これは日本に住んでいる我々からすると意外に感じますが、とても面白い傾向です。そして、舞田氏の言葉を借りるならば、日本の女子は「自身の将来に自ら蓋をしている」のかもしれません。先の、東京医大をはじめとした大学入試における女性差別など、学業や仕事のうえで自分たちが期待されていないことを敏感に察知して、無意識のうちにそれに逆らわないようにしようとしているのかもしれません。


 実際の大学進学率を見ても、興味深い数字があります。今年の18歳人口ベースでの大学進学率は53.3%ですが、男子56.3%、女子50.1%とやはり性差が見られます。しかし地域を限定して、東京だけに限ってみると男子72.2%、女子73.2%と、微妙ながら女子が男子を逆転するのです。これはとても面白い逆転です。鹿児島県の前知事の発言「三角関数を女子に教えて何になる」のように地方は古くからの因習が残っていて、逆に都会の東京では欧米のような先進的なジェンダー観が根付いているのでしょうか。

 それもあるかも知れませんが、もうちょっと違った事情が垣間見えてきます。それは地方にはあまり大学がないので、東京や大阪など大都市に出なければならないという事情が大きいようです。女子の場合はあまり遠くへ行かせたくない、危険な都会に出したくない、お金のかかる県外進学は男子だけ、なんていう親の心理があるのかも知れません。それが証拠に、大学の収容力と女子の大学進学率はきれいな相関関係があります(↓)。東京は18歳の全員が大学に入っても十分余裕のある収容力142.8%ですが、鹿児島は22.5%と4人に1人も地元の大学に入れないわけです。つまり、大学が多くて自宅から通学できる県ほど女子の大学進学率が高いと言えます。


 自分は二人の子持ちなのですが、男の子と女の子の1人ずつで、自分自身それぞれに対して期待している度合いが違うかも知れないとハッとさせられました。長男は小学3年生なのですが、プログラミングやレゴブロックなどを習わせ、詰め込み教育はともあれ想像力や論理性などを伸ばそうとしています。一方で長女はまだ年中組ということもあって、特段何も習わせていません。保育園で楽しく遊んで、まっすぐに育ってくれれば十分くらいに思ってしまっている自分がいます。子どもたちに対する接し方にも、無意識に現れてしまっているかも知れません。これからは、「女の子なんだから...」なんて口にしないようにして、長男も長女も同じように将来に期待したいものだと思います。

2018年11月14日水曜日

AIオプティミストに欠けている視点とは

哲学者がAI失業論を喝破「AIではなく経営者が雇用を奪う」

 ここ最近、人工知能(AI)関係の記事を書いていることが多い気がしますが、今回も玉川大学の岡本裕一朗教授がマネー現代に書かれていた記事を、わかるけど痒いところに手が届かないと感じたので、その辺を考えてみたいと思います。

 元記事で言われているのは、いわゆる「人工知能失業論は取るに足らず」ということです。つまり、オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン博士らの「The Future of Employment: How Susceptible Are Jobs To Computation?」などで言われている、AIによってアメリカのおよそ47%の雇用が失われるという衝撃的なレポートに対して、哲学を専門にされている岡本氏が、2つの思考実験をもって、いやそんなことは無いはずだと言われています。

 岡本氏はオズボーン氏以前にも同じ議論があったとして、マーティン・フォード氏が書かれた「The Lights in the Tunnel」という本が日本語訳されたタイトル「テクノロジーが雇用の75%を奪う」を引き合いに出して、75%の人が失業する社会というのを思考されています。47%と75%ではだいぶ隔たりがあると思いますが、ここは思考を活性化するためにより極端な方を選んでいると考えておきましょう。その上で、「失業率75%の状況で、どのような社会が成立するのか?」という思考実験を行なっています。

 それは、生産・流通・消費といった経済活動の大半の部門で、AIやロボットが導入され、従業員がほとんど不要になってしまった社会です。今の社会制度のまま4人のうち3人の仕事がなくなってしまうと、当然のことながら社会は破綻するに違いありません。岡本氏は2つの極端な結論を導き出しています。1つは「暴動か革命が起きる」、そしてもう1つは「人間は働く必要がなくなる」という結論です。最初の結論は、社会制度がAIの発展についていけない場合、現実味を帯びてきます。後者のような、働かなくても食べていける社会は、現在様々な地域でベーシック・インカムの社会実験がなされています。しかしいずれの場合も、心配なしと岡本氏は結論づけています。今の社会制度が追いつけないなら他の社会形態が出てくるはずで、働かなくても食っていけるならばむしろ歓迎というわけです。しかし、そんなに単純なものでしょうか。

 確かに、社会全体としては何とか社会が適応していくだろうという楽観論も成り立つかもしれません。しかし、この山ちゃんウェブログで何度か言ってきた「合成の誤謬の逆問題」ではないでしょうか。社会全体が適応していくからといって、個人個人が適応できるかどうかは別問題です。社会から75%の仕事がなくなり、あなたが職を失ったとすると、いやあなた自身が職を失わなくても暴動や革命で社会がひっくり返る混乱の中で命を失ったとしても、社会全体が適応したプロセスなのだから問題なしと言えるでしょうか。仕事に打ち込んできた人が、働かなくてもベーシック・インカムで生活できるのだから、職と同時に生きがいを失っても問題なしと言えるのでしょうか。少なくとも、最終的に社会全体が適応できるとしても、暴動や革命のようなハードランディングでは、個人の適応だけでなく社会的にも混乱します。ベーシックインカムによって労働から解放された人間が、一体何を生きがいに人生を送っていくのかという問題も解決していないと思います。社会全体が適応するにしても、ソフトランディングで適応しなければならず、そのためにはたくさんの議論や実験が行われなければならないでしょう。

 岡本氏の次の思考実験は、ある会社が現在の従業員の首を切ってAIに切り替えるかどうかというものです。AIは今までの従業員より安く使えて仕事もできます。しかし、AI以上の能力があって安く使える人材がいたとしましょう。その時経営者の判断は、①今までの従業員、②AI、③AI以上の能力をもちAIより安く使える従業員、のいずれを選択するでしょうか。この少し意地悪な問題に答えるなら、当然③を選ぶことになるでしょう。以前「人間になりきるAIとAIになりきる人間」という記事で、コストの逆転現象で人間の価値がAIより下になってしまった気がすると書きましたが、まさに、経営者が人間を選ぶかAIを選ぶかは結局のところコストパフォーマンス次第です。そして歴史的に、機械の発展やコンピュータの発展によって人間の仕事が奪われるというこれまでの指摘は全て誤りで、機械と人間は常に共同作業(コラボ)をしてきまた。それはAIの場合も同じだと言われています。ですが、果たしてそうでしょうか。

 これまでの機械は、少なくとも人間のコントロール下において機能を発揮してきました。前回AIの宗派を整理した時も書きましたが、人間のコントロール下にあるかどうかは、とても重要なファクターです。しかし、強いAIと呼ばれる高度なAI(今はまだ実現されていませんが、「シンギュラリティ」・2045年頃には実現されると考えられています)はそこに知性が感じられるほど人間のコントロールから独立した存在です。司法判断とか医療における判断・経営的な判断など、人間の中でも頭が良いとされる(従って高給を取ってきた)人の仕事を彼らより正確にこなすことができ、やがては人類の全ての英知を持ってしてもAIにかなわなくなります。当然、経営者自身も、自ら経営するよりもAIを使用した方がコストパフォーマンスが高いことになります。経営者自身が自分をクビにして、あとをAIに託すという選択をするでしょうか。

 岡本氏の次の思考実験は概ね分かりますが、経営者自身も高みの見物をしていられないことが考慮されていません。自分は、コストパフォーマンスが良いからといって、経営者の首すら危うくなる能力を持ち、人間のコントロール下に置けないAIを単なる道具とは考えられないと思います。

 岡本氏の展開される議論は、「AIオプティミスト」と呼べそうな楽観論ですが、自分にはどうも欠けている視点が多くてかゆいところに手が届かないような気がします。もちろん、過度にAIを怖がる必要はありません。今存在する「弱いAI」には、こんなこともできないのかとがっかりさせられることも多く、AIを警戒しすぎるのはやりすぎです。明日にもAIが人間の仕事を奪っていきそうな風潮で語る「AIペシミスト」は、無知な人を先導するアジテーターかもしれません。AIを過度の怖がらず、かと言って過度に楽観視しない冷静な態度を保つには、AIというブラックボックスの仕組みをある程度知っておくと良いかもしれません。

2018年11月11日日曜日

AIのもたらす未来はユートピアかディストピアか。「宗派」を整理する

神に近づく「エリート」と取り残される「大衆」。AIの急速な発展は、人類をどこに連れていくのか

 前回に引き続いて人工知能(AI)の話題なのですが、今回は菅付雅信氏がWIREDに書かれている連載記事「Away from Animals and Machines(動物と機械からはなれて)」の中から、AIに関する「宗派」について整理してみたいと思います。

 いまやAIに関する情報はあふれていて、この山ちゃんウェブログでも何度も取り上げさせて頂きました。その情報収集の中で、AIというのは極めて科学的・数学的・技術的な話題であるにも関わらず、一方で極めて宗教的・倫理的な問題を多く抱えていることに気付かされました。そしてどちらかと言うと、この山ちゃんウェブログはその宗教的・倫理的な側面の問題を多く取り上げさせて頂いてきたと思います。

 AIに対する宗教的・倫理的な考え方については、いくつかの「宗派」に分かれています。それは科学的な根拠にもとづくと言うよりは、もっと感情的で直感的な信念にもとづいていると言えるかも知れません。その論点の一つ目は、「AIが人間よりも賢く自律的な存在になるのかどうか」という問題で、「シンギュラリティ(技術的特異点)」というワードとともに語られます。2つ目の論点は「AIによって未来はユートピアに近づくのか、ディストピアに近づくのか」という問題です。

 実際は2つの論点は互いに関連していて、例えば元記事で菅付氏が出されている代表的なAIユートピア論者・カーツワイル氏は、同時に「シンギュラリティ」という言葉の産みの親でもあります。カーツワイル氏は、米GoogleでAI開発責任者を務め、著書『シンギュラリティは近い──人類が生命を超越するとき』はベストセラーになっています。カーツワイル氏は、シンギュラリティが訪れる2045年以降、人類に代わって汎用AIあるいはポストヒューマン(人間が機械と融合)が地球の支配者になり、大宇宙に進出していくと予見しており、まさにSF的な未来感を唱えています。

 一方で、元記事で代表的なAIディストピア論者として紹介されているのが、マイクロソフト創業者のビルゲイツ氏とテスラ・スペースX両社のCEOであるイーロン・マスク氏です。ディストピア論者の考え方の元になているのは、英オックスフォード大学の教授であり哲学者のニック・ボストロム氏です。ボストロム氏は著書『スーパーインテリジェンス──超絶AIと人類の命運』で、スーパーインテリジェンス(人類よりもはるかに優れた超絶知能)の誕生を予測し、人類が滅亡の危機に瀕するというシナリオを描いており、車椅子の物理学者として知られたスティーヴン・ホーキング氏も生前はボストロム氏を支持していました。

 先に述べた2つの論点「人間を超えるAIは誕生するか」「AIで人類の未来は明るいか」について、両方Yesの立場でカーツワイル氏に代表されるのが「AIオプティミスト」です。最初はYesでも後半がNoの立場でAIが人類の脅威となると考えるのが、ビルゲイツ氏やイーロン・マスク氏に代表される「AIペシミスト」です。そしてもう一つ、人間を超えるAIはそもそも誕生しないとする立場なのが、「AIスケプティクス」です。この立場の人は、AIはせいぜい道具の域を出ませんので、AIで人類の未来が明るくなるか脅威になるかという論点は出てきません。

 この山ちゃんウェブログは、これまで「AIペシミスト」の立場で書いてきました。人工知能や機械学習の元になっているニューラルネットワークには、「普遍性定理」といって、理論上はどんな連続関数をも近似できるネットワークが存在します。その意味でも、AIが将来的に人類の知性を超えるか、超えないまでも極めて高度な知性を感じられるAIが登場するのは間違い無いと思います。

 そして、実際にAIに関するプログラミングを少しでもかじってみると、いわゆるデバッグの類ができない(あるいはとても難しい)ことに気づきます。AIの思考回路は、人間が確認したり追いかけたりすることができず、それは常に人間のコントロール下で動く通常のプログラムと全く概念が異なるのです。コントロールされた状態が安心できる人間としては、いつAIが暴走するのかと不安でたまりません。ちょっと極論ですが、AIはまるで東日本大震災直後の福島第一原発のようなものです。あの時の原発は、人間のコントロール下から離れ、しかも中の様子も把握できず、いつ暴走するか爆発するかと日本中が不安に包まれました。コントロールできないものに直感的に不安を感じるのは人間の常。最初の論点「人間を超えるAIは誕生するか」にYesと答えるならば、次の「人類の未来」に明るいとは答えられない自分がいます。皆さんはどの「宗派」に属するでしょうか。

 

2018年11月7日水曜日

夢のテクノロジー「デジタル来世」は「デジタル・イタコ」かも知れない

人類は永遠の夢「不死」をデジタルで手に入れるのか

 今回は我々の「死」への恐怖を和らげてくれるかもしれない、夢のようなテクノロジーとその怖さについて紹介したいと思います。元記事は、Courtney Humphries氏がMIT Technology Reviewに書かれていた記事です。

 紹介する夢のテクノロジーとは、たとえ死によって肉体が失われても、デジタルの世界の中に精神が生き続けることができる「デジタル来世」です。個人的にはまだ実現性について怪しい気もするのですが、元記事の中でHumphries氏は、知人の経営者のデジタルアバターを作成しているホセイン・ラーナマ氏を紹介しています。ラーナマ氏は、ライアソン大学に拠点を置く研究者兼起業家であり、マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボの客員教授とのことです。ラーナマ氏は、この知人が肉体的な死を迎えた後、残された会社の経営者や重役が経営的判断に困った時、このデジタルアバターがアドバイスをくれることを期待しているようです。

 ラーナマ氏は、肉体的な死後も自身の代理として人々と対話できるデジタルの人格を作成することができる、「Augmented Eternity」と呼ばれるアプリケーションを開発しています。「augmented」というのは拡張という意味で、最近流行りのAR(Augmented Reality:拡張現実)のAですね。Augmented Eternityとは、デジタル世界という「拡張」のなかで永遠の命を手に入れると言った意味なのでしょう。

 Augmented Eternityの技術的な仕組みは紹介されていませんが、元記事からはいわゆる機械学習を使用した人工知能(AI)によって、生前のその人の様々なデータを学習させることで、デジタル世界の中に「人格」を再現しているのだと思われます。例えば、人は人生の中で数多くの選択と判断を行なうと思います。それは、M&Aの決断や経営的判断のような高尚なものから、今日の昼ごはんに何を食べるかと言った些細なものまで、人生とは選択と判断の繰り返しです。ある人の人生の中で行なわれた選択と判断を数多く学習したAIは、その人の死後、新たな判断が求められる局面において、まるでその人が選択し判断したかのように振舞うことができます。

 もちろん、「デジタル来世」はこれまでにないテクノロジーなだけに、解決すべき倫理的な問題は山積みです。元記事で例に出されているのは、イギリスのテレビシリーズ「ブラックミラー」の「ずっと側にいて(Be Right Back)」というエピソードです。夫と死別した若い女性が、亡くなった夫のデジタルアバターと交流するのですが、最初は恐る恐るテキストを打込むレベルだったのが、最終的には夫そっくりの高価なロボットを購入するまでのめり込んでしまうのです。生前の愛情が深ければ深いほど、アバターに本物の人格を求めてしまうようになるのかも知れません。問題なのは「アバターを作る企業の役割」です。アバターがもう少し自分のグレードアップをこの女性に提案したとしたら、女性は断ることができるでしょうか。

 よく考えると、「デジタル来世」って「死者の口寄せ」そのものかも知れません。日本では恐山の「イタコ」が有名ですが、死者の霊を自分に降霊(憑依)させてその言葉を伝えるというのは、シャーマニズムの色が濃く、やらせの噂も絶えない、ある意味怪しい存在です。しかし現代においてさえ、イタコの口寄せにすがる人は後を絶ちません。残された人は、それほどにも死者との別離を悲しみ死者と話をしたいのです。個人的には、本物のイタコよりも「デジタル・イタコ」の方が、死者の生前のデータにもとづいているだけもう少し信用がおけるかも知れません。しかし、死者の口寄せが厳しい修行の結果としてのイタコの倫理に支えられているように、「デジタル・イタコ」の場合は企業の倫理に大きく依存してしまう危うさがあります。死者が生きている人を操るパワーは実に強大です。そのパワーの源泉を特定の企業が握ってしまうことには、非常に大きな危うさを感じるわけです。

2018年11月3日土曜日

馬鹿と鋏は使いよう

「面倒な人」はなぜどうでもいい事にこだわって仕事を止めるのか

 今回は、榎本博明氏がご自身の著書「かかわると面倒くさい人」に関して書かれていた記事を元に、「杓子定規な人」「融通の利かない人」を上手く活用するにはどうすればいいのかを考えてみようと思います。まずは元記事で提示されているいくつかの例を、そのまま紹介してみましょう。最初の例は、こんな人です。

 会議の1時間前に急遽、数百円の文具が必要に。急いでコンビニに走り、立て替え払いで購入して間に合わせようとしたところ……。
 「立て替え払いは極力やめてください。所定の用紙で申請しなければ受け付けられません。急ぎの決裁を頼めば、今日の昼すぎには決裁が降りるので、会議は明日に変更してはいかがですか」

 もちろん、数百円の文具の決済のために重要な会議を延期するなど本末転倒です。会議に集まる人を空振りに終わらせてしまう人件費の方がはるかに大きな損失ですし、その延期のためにビジネスチャンスを逃したり損失が出たとしたら、この人は責任を取れるのでしょうか。次の例は、ある営業マンの悩みです。

 彼は、取引先から好感触が得られ、まったく差し障りのない条件を提示されたため、その場で受け入れてきたそうです。
 会社に帰って上司に報告すると、
「なんで手続き通りに対応しないんだ。『手順を踏め』といつも言っているだろ。まずは来週の会議でちゃんとこの件を説明して、承認を得てからじゃないとダメだ。話を進めるのはそれからということにして、先方には待ってもらえ」などと言われ、ストップが掛かります。 

 確かに社内手続きは大切かもしれませんが、同程度の条件の取引はいくらでも成立していて会議で承認が取れないなんてありえない案件までもこんななのだそうです。

 会社にはこういう人はたくさんいます。自分はいわゆるソフトウェアの設計開発部門に属しているのですが、設計開発には比較的自分の頭で考えて判断する人が多いと思いますが、品質保証部門にはこの手の面倒くさい人が多い気がします。もちろん品質保証という仕事上、多少の面倒くささはむしろ必要とされる性質です。しかしそれにしても、単なる文書の「てにをは」チェックや手順に従っているかを監視するだけの「残念な」人も多いのが現実です。

 自分が実際に出会った話をすると、試験仕様書に画面の表示性能の基準が3秒と書かれていて、いざ計測してみると10秒も掛かっていました。当然、品質保証担当者は不合格と判定しますが、設計担当者が基準を15秒と書き換えれば合格になります。最初の3秒は何処へやら、単に文書の中で辻褄が合っているかどうかだけを判断します。そうじゃないでしょ、15秒でもいいなら最初の3秒という基準は何だったんだ、本当は最初の基準の3秒でなければユーザの使い勝手が悪いんじゃないか、と考えるのが普通だと思うのです。しかしこういう人は、もしこのまま合格印を押してユーザークレームが出たとしても、だってそういう基準を決めたのは自分じゃないもーん、自分は基準に従っているかどうかを判断しただけだもーん、基準を決めた人が悪いんだもーん、と言うでしょう。

 榎本氏によれば、この手の「杓子定規な人」「融通の利かない人」というのは、自分の判断力に自信がないという弱みがあるのだそうです。つまり、自分が判断すれば判断を間違ってしまうだろうと極度に恐れるあまり、判断すること自体を放棄してしまったのです。判断が間違っていたとしても、ルールやコンプライアンスを根拠にすれば、少なくとも自分の無能が責められることはないからです。

 自ら判断する人にとっては、判断を放棄してしまった人というのは、永遠に理解できない「バカの壁」です。この手の「杓子定規な人」「融通が利かない人」は、確かに基本的に無能なのでしょう。しかし、世の中に無能な人はたくさんいますし、彼らが足を引っ張ってくるのはどこの会社でもある光景です。彼らはむしろ仕事をしないで貰えるといいのですが、残念なことに、無能な人ほど謎の使命感の燃えてルールの番人たらんとする傾向もあります。

 それなら、自ら判断することを放棄してしまう無能者は排除して、自分の頭で考え行動する有能な人だけの集団にすればいいじゃないかという意見があるでしょう。確かに、新進気鋭のスタートアップや少人数の集団の場合、有能な人だけで会社を回すことで既存の会社ができないスピード感を実現できると思います。しかし、円熟期に入った会社の場合はそうも行きません。組織が肥大化して風通しが悪くなり、無能な人もたくさん入社してきます。彼らに足を引っ張られない、むしろ無能な彼らを有能に変えて活用するにはどうすれば良いのでしょう。

 自分なりの答えとしては、杓子定規で融通が利かない人、自ら考え判断することを放棄してしまう人には、むしろルールを作る仕事を与えるのがベストだと思います。誰かが作ったルールを守るのではなく、自分でルールを作ることをやらせることで、そのルールに対する責任感を植え付けることができます。こんなルールで運用できるかといった厳しい意見も出るでしょうが、そこを調整させることで、ルールに対する臨機応変な対応をも身に付けることができるでしょう。

 ルールを前面に出して物ごとの本質が理解できない人には、ぜひルールを作らせてみて下さい。彼らを杓子定規で融通が利かない無能者だと断罪するのは簡単ですが、彼らを自分の頭で考え判断できる有能者に変えることができれば、二倍お得な人材活用になると思います。